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視聴記録『麒麟がくる』第24回「将軍の器」2020.9.20放送

三好・松永の子らによるクーデターが勃発、将軍・義輝(向井 理)が殺害される。ぽっかり空いた将軍の座を巡り、京は弟・覚慶(滝藤賢一)擁立派と義栄擁立派に二分する。松永(吉田鋼太郎)と藤孝(眞島秀和)は、三好から命を狙われる覚慶を大和から脱出させ身を隠す手助けをする。一方、義輝の死を知った光秀(長谷川博己)は、松永のもとへ向かい、義輝暗殺を激しく糾弾。松永は、朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)から届いた文を光秀に見せる。そこには、朝倉家は覚慶が将軍の器であればかくまう覚悟がある、それを光秀に確かめてくるように、と書いてあった。気が乗らない光秀に松永は、このまま表から身を遠ざけ、越前でくすぶっていていいのかと発破をかける。

NHK公式サイトの<トリセツ>に
足利義昭殺害/慶寿院殺害/周暠殺害とありますが、
足利義昭殺害 or 自害/慶寿院自害(焼身自殺)/周暠殺害ですよ。

★小和田先生の解説
https://www.youtube.com/watch?v=WGaOoGb_Jbg

1.「永禄の変」


 「永禄の変」について、ドラマの松永久秀は、「将軍・足利義輝は、『将軍の器』ではないので引退してもらうだけであり、息子・松永久通には『殺すな』と言ってある」と明智光秀に語った。どうも木下藤吉郎(豊臣秀吉)が言うように、松永久秀が「永禄の変」の黒幕らしい。
 しかし、実際の「永禄の変」は、松永久秀の言葉とは異なっていた。「義輝公も御手を砕かれ、終に御自害成され候。慶寿院殿をはじめ、御簾中も、若君も、同時に御生害也」(足利義輝だけではなく、母も、妻子も亡くなった)。「鹿苑院周暠をば出京仰せ承らせ、たばかって殺し」(弟・周暠は出家の身であるが、謀られて殺され)ている。ようするに、興福寺一乗院の覚慶以外は死んでいるわけで、最初から「永禄の変」の目的は、「足利義輝に引退を迫る」でも、「足利義輝を殺す」でもなく、「足利一族を全滅させる」ことにあったように思われる。

 二条御所には将軍を守る奉公衆がいて、約60人の奉公衆が討ち死にしているが、奉公衆である細川藤孝は討ち死にしていない。ドラマの細川藤孝は、足利義輝を見限り、松永久秀側の人間になっている。ということは、ドラマの設定は、「松永久秀から襲撃の日を聞き、その日は二条御所へ行かなかった」ということか? 細川藤孝は、この日はちょうど非番で、勝龍寺城にいたといい、細川家譜『綿考輯録』には、「たまたまその場に居なかったことを悔しく思い、こうなった以上は、御連枝の内(親族。弟の覚慶とか、周暠とか)を擁して、三好一族を討ち滅ぼそうと思った」とある。
 俗に「細川藤孝は冷静だが冷酷な人で、兄の三淵藤英は忠義の人」という。「永禄の変」が起きて、「細川藤孝は京から丹後に逃げ、三淵藤英は死を覚悟の上で丹波から上京した」(松永貞徳『戴恩記』)というが、これは、細川藤孝の「冷静だが冷酷」というイメージから生み出された創作である。

※FM舞鶴『NHK大河ドラマ連動番組 「明倫館歴史ラジオ『細川幽斎』編」』「【第29回】2020-9-23 OA 義輝暗殺と義昭奈良脱出、その時藤孝は?!」
https://775maizuru.jp/wp-content/uploads/2020/09/20200923meirinkan.mp3

※小野景湛による細川家譜『綿考輯録』
一、永禄8年乙丑5月19日、将軍・義輝公、御生害。(中略)義継を大将とし、松永、岩成等1万5千余にて5月19日の夜、二条の御所を取り囲み、稠敷攻入候間、当番の諸士、防ぎ戦ひ、残りすくなに討れ、義輝公も御手を砕かれ、終に御自害成され候。慶寿院殿をはじめ、御簾中も、若君も、同時に御生害也。藤孝君、此の事を聞こし召され、事散して後なれば、折あしく居合たまはざる事を御悔み成され、「此の上は、御連枝の内を御取り立て、讐敵・三好を討ち亡ぼさるゝべし」と御思慮成られ候へ共、鹿苑院周暠をば出京仰せ承らせ、たばかって殺し、南都一乗院の門跡・覚慶(後略)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2568410/23

(1)「永禄の変」の首謀者・松永久秀


 『明智軍記』等によれば、徳川家康が安土城に来た時、たまたま松永久秀も安土城に来たので、織田信長は、徳川家康に、「3つの大それた事(三好一族の毒殺、足利義輝の暗殺、東大寺大仏殿の焼却)をした三悪人」として紹介したという。(これにより、松永久秀は、「織田信長に恥をかかされた」として、織田信長に反逆したという。)

※『常山紀談』「信長公松永弾正を恥ずかしめ給ひし事」
東照宮、信長に御対面の時、松永弾正久秀、側(かたへ)に在り。信長、「此の老翁は、世人の為し難き事、三ツ成したる者なり。将軍を弑(しい)し奉り、又、己が主君の三好を殺し、南都の大佛殿を焚たる松永と申す者なり」と申されしに、松永汗を流して赤面せり。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018103/85
※『明智軍記』「松永弾正叛逆事付奇物燒亡事」
抑(そもそも)松永、斯く逆意を起こしける故を如何にと尋ね聞けば、去る頃、安土御普請御見舞ひとして、東照大君、遠州浜松より御越し成されける時分、松永も御用の儀に付き、安土へ伺候致しけるに、信長殿、幸ひの儀なりとて、久秀を東照大君へ御引合せの次而(ついで)に、信長公、座興の様に宣ひけるは、「此の弾正が面を能く見覚へ給へ。此の者は、三悪人にて候。一にては、彼が先君・三好筑前守義長を鴆毒(ちんどく)にて弑し、又、其の弟・義継を捨つる。二には、公方・義輝将軍を故無くして攻め討ち奉る。三には、南都大仏の伽藍を敢へなく焼き亡ぼす。此の三箇条の悪行、誰か是を憎まざらん」と。戯(たはふれ)の体に持ちなし仰せられしかば、松永、面目を失ふ事、骨髄に通り、頭を垂れて赤面せり。其の後、住所に帰りて、斯く謀叛の色を顕す(後略)
※大道寺友山『落穂集』(巻之二)
或時、家康公信長卿へ御見廻被遊、御対顔の節、末座へ壱人出座候を「何人やらん」と思食御座被成処に、信長卿御申候は、「家康公には未だ御存知有間敷候。あの仁は松永弾正と申て、世上の人の致し難き事を三度迄致したる仁にて候。第一には、主人三好に逆心を進め、公方・光源院殿を攻殺させ、其の後、其の身も、また、逆意を企て主人三好が家を亡し、其上南都の大仏殿迄焼失ひたる仁にて候」と御申に付、松永、大きに赤面致し、迷惑至極の体を(後略)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_e0325/bunko31_e0325_0002/bunko31_e0325_0002_p0004.jpg

 宣教師のルイス・フロイスは、「永禄の変」によって追放されていることから、その文章には緊迫感があふれ、説得力がある。

ルイス・フロイス『日本史』(第1部65章)
 都には、内裏(だいり)に次ぐ日本での最高の顕位である公方様(足利義輝)が住んでいた。あらゆる人が彼に服従していたわけではないが、それでも人々は最高の君主としてその優位を認めていた。彼には三好殿(三好義継)なる執政がいた。その殿は都から十一里距たった飯盛城に居住しており、戦争によって数ヵ国をすでに征服し、当時それらを支配していた。(中略)三好殿はまた、弾正殿(松永久秀)という名の別の執政を有した。この人は大和国の殿で、年老い、有力かつ富裕であり、人々から恐れられ、はなはだ残酷な暴君であった。彼は三好殿の家臣であったにもかかわらず、大いなる才略と狡猾さによって天下(てんか)を支配し、諸事は彼が欲するままに行われた。彼は絶対的君主になり、かつ公方様に対する服従について気遣わなくてもよいようにしようと、暴虐な方法を用いて、権勢の道における最高位に昇ろうと決意した。彼は若者である三好殿と、公方様を殺害し、阿波国にいる公方様の近親者(足利義栄)をその地位に就かせることで相談し、その者には公方の名称だけを保たせれば、それからは両名(足利義栄と松永久秀)がともに天下を統治することができようと考えた。
※『耶蘇會士日本通信』「1565年7月22日付 ルイス・フロイス書簡
叛逆者の主たる者は、当国、その他多数の国の悉く服従せる弾正殿(松永久秀)と云ふ人にして、我らが説けるデウスの教への大敵なり。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186696/169

ルイス・フロイスによれば、
足利義輝(将軍)>三好義重(義輝の執政)>松永久秀(義継の執政)
であり、「永禄の変」の首謀者・松永久秀の作戦は、足利義輝を三好義重(「永禄の変」後に義継)に討たせ、三好義継を将軍殺しの大罪で討ち、足利義親(後の義栄)を傀儡将軍にして操るという下剋上だったと当時の公家や宣教師は考えていたが、武士は、ドラマの松永久秀同様、「出来の悪い将軍を、いつものように、朽木谷にでも追い出すのであろう」と考え、まさか殺すとは思いもよらなかったようだ。将軍・足利義輝も「やれやれ、また朽木谷へでも引き込むか」程度の感覚だったという。
 現代の学者は、ルイス・フロイスを否定し、史実は、「実行犯は、三好義重、この時点では未結成の「三好三人衆」(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)、松永久秀の子・松永義通(久通)であり、松永久秀は大和国にいて積極的&直接的関与はしておらず、次の将軍候補の覚慶を暗殺しないばかりか、保護しているように見えることから、首謀者とは言えない」としている。このドラマの松永久秀は、この新説に近い。(とすると、松永久秀は、三悪人ではなく、二悪人になる。)
 松永久秀が実行に加わらず、大和国にいた理由は、松永久秀が実行犯とは別派閥だからのようにように思われる。そして、松永久秀派(覚慶擁立派)と実行犯=三好三人衆派(足利義栄擁立派)の対立は、表面的には足利義輝の後継者争いであるが、実は三好長慶の後継者争いであり、ルイス・フロイスがいうように、松永久秀は、三好義継を暗殺しようと企てていたかもしれない。
 この後、
・三好義継が三好三人衆から離れて、松永久秀の元に転がり込む。
・傀儡にするはずの足利義栄が病死してしまう。
・織田信長が足利義昭を擁して上洛してしまう。
という松永久秀の想定外の事態となり、松永久秀は、織田信長の家臣となろうとした。この時、足利義昭は、織田信長に、「足利義輝の仇の松永久秀を殺せ」と命じたが、織田信長は、「個人的な感情で行動する人物は、将軍の器ではない」とたしなめ、松永久秀を家臣にしたという。こうして、天下の支配構造は、
 足利義輝(足利政権)>三好長慶(天下人・三好政権)>松永久秀
から
 足利義昭(足利政権)>織田信長(天下人・織田政権)>>>松永久秀
に変わった。(松永久秀の下剋上は失敗! 織田信長は後に足利義昭を京都から追い出した=下剋上は成功!)

(2)「永禄の変」─足利義輝は討死か、自害か─


「永禄の変」は、宣教師のルイス・フロイスが入京してからしてから1年以上経ってからの出来事であり、西暦1565年6月19日(和暦では、「永禄の変」の2日後の永禄8年5月21日に当たる)付けの中国のイルマン等への手紙は、自身の見聞によるものと思われる。

※『耶蘇會士日本通信』「1565年6月19日付 ルイス・フロイス書簡
公方様は火災及び必要に迫られ、部下と共に戦を始め、腹に一槍、頭に一矢、背に刀傷二つを受けて死にたり。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186696/161


 足利義昭は、いつかはこうなる日が来ると予想しており、辞世を用意して、いつでも自害できる準備はしていたようである。ただ、実際に襲撃されると、「ここまま自害するのも癪だな。刃向かってみるか」と、まるで酒宴の余興の1つのように戦ったのではないかと思えてくる。

 一説に大鎧「御小袖」を身に纏い、心静かに正座して暴徒の乱入を待っていたと言うが、このドラマの足利義輝は、大鎧を身に纏わず、『詩経』「小旻」を暗唱して、その時を待った。「小旻」は、幽王(西周最後の王。西周は滅び、東周へ)を家臣が諌めた文である。足利義輝は、「永禄の変とは、家臣が幽王を諌めたように、家臣が私を諫めた事件だ」と考えた時、この「小旻」を思い出したのでしょう。

『詩経(しきょう)』小雅・小旻之什小旻(しょうびん)」

不敢暴虎、
不敢馮河。
人知其一、
莫知其他。
戦戦兢兢、
如臨深淵、
如履薄冰。

敢えて暴虎(ぼうこ)せず、
敢えて馮河(ひょうが)せず。
人は、其の一を知るも、
其の他(ほか)を知ること莫(な)し。
戰戰兢兢(せんせんきょうきょう)、
深き淵に臨むが如く、
薄冰を履(ふ)むが如し。

人は素手で虎と戦うような無茶はしないし、
人は舟に乗らず、歩いて河を渡るような無茶もしない。
人はそういう行動は無茶だと知っているが、
他の危険な行動を知らない。
だから、人は、恐れ、気遣い、
深淵に臨む岸に立った時のように、
薄氷の上をそっと踏み歩く時のように、慎重に行動すべきである。
 三好勢がなだれ込んできたとき、義輝が呪文のように唱えていたのは、志のある家臣が仕えている王の王政をただすために作られた中国古代王朝の詩文、小旻です。実際に滅んでしまった王と自分を重ねて詠んだのか・・・それは誰にもわかりません。ただ言えるのは、己の最期を悟っていたということです。(向井理)
https://twitter.com/nhk_kirin/status/1307649349787291649


※参考記事:「永禄の変」の真実
https://note.com/senmi/n/n5cc0ba3bd9ba
※参考記事:「永禄の変」と「嘉吉の乱」「本圀寺の変」「本能寺の変」
https://note.com/senmi/n/n1d571e625a7e
※参考記事:釈義俊『光源院贈左府追善三十一字和歌序』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018103/58
https://secret.ameba.jp/sengokumirai/amemberentry-12626257927.html

2.覚慶

(1)覚慶動座


 「門跡(もんぜき)」とは、天皇や貴族(摂関家)の子弟の院主のことで、興福寺では一乗院と大乗院の院主になります。一乗院は近衛家、大乗院は九条家の子弟が院主となっていました。千歳丸(後の足利義昭)の母親は近衛尚通の娘・慶寿院ですので、千歳丸は、外祖父・近衛尚通の猶子となり、興福寺一乗院の門跡となりました。覚慶は、既に興福寺の権少僧都となっており、そのまま高僧として生涯を終えるはずでした。ところが、1つ上の兄・足利義輝が討たれたために将軍候補となり、命を狙われました。

『続応仁後記』(巻第9)「新公方家南都御没落事」
 一乗院は御病気の由、仰せ出され、閑所に篭もらせましまして、医者を撰み遣すべき由、番所の士を以て、藤孝が許え仰せ下さられ、藤孝、内々、米田壱岐守宗賢とて、俗医師の剛の者有りけるに、密謀申し置ければ、「上意畏れ候」とて、此の宗賢を参らする。番の者共も、「藤孝が遣はす医師なれば、咎るに及ばず」とて、一乗院の御所え入れけり。宗賢、日夜伺候して、療治、湯薬を奉り、幾程無くして、「一乗院殿、御所労、御快気成りたり」とて、御祝の為、番士を召され、何れも御酒を賜りけるに、番士等、「忝なし」と悦び、終夜、此の御酒を呑み合ひける程に、番士皆、酔ひ臥せて、油断の体を見澄まし、此の時を幸とし、宗賢一人、御供して、一乗院は、難無く御所を忍び出て、春日山に落ちさせ給ふ。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431170/436


 ドラマでは仏像を運ぶ人夫に化けて脱出していますが、脱出作戦上、病人のふりをした覚慶は、何日も食事を取らなかったので、脱出時に自分で歩くことが出来ず、細川家譜『綿考輯録』では細川藤孝の家臣・米田貞能が、司馬遼太郎『国盗り物語』では足利義輝の奉公衆・明智光秀が背負って脱出しています。
 当時(永禄8年7月28日)、明智光秀は細川藤孝に仕えていたように思われ、米田貞能が細川藤孝の家臣になったのは永禄12年ですが、『綿考輯録』では、この時に限らず明智光秀が細川藤孝の家臣だったことはないと完全否定し、この時、米田貞能は細川藤孝の家臣だったとしています。
 ドラマや『明智軍記』の明智光秀は、まだ越前国にいます。

米田(こめだ)貞能(後に「求政」に改名):足利義輝に仕えた室町幕府奉公衆。元は医者で、足利義輝を診察したこともあるという。永禄12年(1569年)、足利義昭と不仲になり、奉公衆をやめて細川藤孝に仕えた。

『針薬方(しんやくほう)』:明智光秀が田中城に籠城していた際、沼田清延に口伝し、米田貞能が永禄9年10月20日に近江国坂本で写した当時の『家庭の医学』的な本。武士は誰でもこの手の本を携帯していたという。明智光秀が持っていた本には、米田貞能が知らない薬や、「口伝」(その本に書き込んだ明智光秀の注釈)が書き込まれていて、優れていたので、結局は出されなかった御内書の裏に写したのであろう。

三光丸:米田氏は、大和国の越智氏の流れで、現在はコーヒー、いや、センブリを使うことが特徴的な和漢胃腸薬「三光丸」を作っておられる。http://www.sankogan.co.jp/images/kawaraban/topics/sankoganTopics_04.pdf

沼田清延:細川藤孝の妻・麝香の兄。史料によっては麝香は、沼田清延の妹ではなく、姪(沼田清延の兄・光長の娘)。

 覚慶は、奈良興福寺(春日山)から木津川を遡って玉水(京都府綴喜郡井手町)を経て、(近江国の六角義賢の許可を得て)近江国甲賀郡の和田惟政の居城・和田城(滋賀県甲賀市甲賀町和田)にひとまず入りました。
その後、
興福寺→甲賀和田城→矢島御所→小浜→敦賀→一乗安養寺→美濃立政寺
と「動座」しました。「動座」とは、貴人が座所を他に移すことです。

※太田牛一『信長公記』「一乗院殿、佐々木承禎・朝倉憑み叶はざる事」
然而(しかるに)二男・御舎弟、南都一乗院義昭、当寺御相続之間、対御身、聊(いささ)か以野心無御座之旨、三好修理大夫、松永弾正方(かた)より宥(ゆる)し被申侯。尤も之由被仰侯て、暫(しばら)く被成御在寺。
 或る時、南都潜出御有而、和田伊賀守を被成御憑(たのみ)、経る伊賀、甲賀路、江州矢島之郷へ被移御座。佐々木左京大夫承禎を憑思食(おぼしめす)之旨、種々様々雖上意侯、既主従之忘恩顧、不能同心能、結句、雑説を申出し、無情追出し申之間、憑木本に雨漏れ、 無甲斐、又、越前へ被成下向訖。朝倉事、元来、雖非其の者、 彼の父、掠上意、任御相伴之次。於我国雅意に振舞、御帰洛之事、中々不被出詞之間、是れ又、公方様無御料簡、「此の上は、織田上総介信長を偏(ひとへ)に被憑入度」之趣被仰出。
(【現代語訳】足利義輝の弟・奈良興福寺一乗院門跡覚慶(足利義昭)については、「寺を相続し、少しも野心(還俗して将軍になろうとすること)は無く、寺に居る」というのであれば、三好長慶(義継の間違い)&松永久秀一味は覚慶を許す(暗殺はしない)とのことである。覚慶は、これを「もっともである」として、しばらく在寺していた。
 ある時、密かに南都を脱出して、和田惟政を頼りに、伊賀・甲賀路を往き、和田城、さらには近江国の矢島御所へと移った。覚慶は、「佐々木六角義賢(入道承禎)を頼ろうと思う」と様々な方法を用いて六角義賢に伝えたが、六角義賢は、既に主従の恩顧を忘れたようで、協力しないばかりか、挙げ句の果てには、あれこれ言い出したので、無情にも近江国を追い出されてしまった。まさに「木陰に雨宿りしかが、雨漏り」といった事態であり、仕方なく、越前国へ下向した。
 朝倉家は、佐々木家とは違い、元来、守護ではなかった(それほどの家ではなかった)が、当主・朝倉義景の父・孝景の代に将軍家から御相伴衆に准じる地位を与えられていた。しかしながら、朝倉義景は、越前国内ではやりたい放題であったが、上洛については、なかなか言葉にしなかった。
 足利義昭は、待ちきれず、「これからは織田信長をひたすら頼りにしたい」と言い出した。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/85

(2)将軍の器


「使える刀か、鈍か。明智十兵衛──おかしな男よのう」(by 朝倉義景)

 明智光秀はまだ牢人であり、仕官して武士になってみないと、名刀か、鈍(なまくら。切れ味が鈍い刀)なのか分かりません。
 覚慶は、武士ではなく、6歳から今(29歳)に至るまで僧であり、自らの命を惜しみ、興福寺に逃げようとする臆病者でしたので、明智光秀は「将軍の器」ではないと判断しました。(明智光秀は、最初に織田信長に会った時、漁師姿の織田信長を「判断不能」としましたが、覚慶に最初に会った時には、「死にたくない」と言って矢島御所から裸足で逃げ出した泥まみれの姿でしたから、即座に「この人は将軍の器ではない」と判断できました。武士は死を恐れない。その言葉通りの姿が足利義輝の華やかな最期にみられる。ところが、悟りを開いていそうな高僧でも死は怖いらしい。たとえば、一休さんは、「死にとうない」と言い残して、座ったまま、眠るように死んだという。往生際が悪い。)
 この後、覚慶は、将軍になろうと思い、諸将に御内書を発給するのですが、

 ──こよこよとすりあけ物の奈良刀 みのながいとて頼まれもせず

「『来い、来い』と「磨上げ物の奈良刀」(寸法が短くて使えない奈良の刀。「摺り上げ者」=剃髪者=覚慶と掛ける)が言っても、美濃国の長井(斉藤竜興)ですら行かなかった」と詠われる状況でした。
 とはいえ、「立場(地位、ポスト)が人を作る」と言いますので、「あの人には無理」と思っても、実際にその立場(地位、ポスト)に置かれたら、無難にこなすばかりか、思わぬ才能を発揮するかもしれません。僧ですから、刀や弓が使えなくても、文字の読み書きはできますし、知識も豊富でしょう。馬に乗れないのは困りますが。

(3)近衛前久


 近衛前久は、「次の将軍は、前の将軍のいとこよりも、弟がなるのが筋だ」と言っています。近衛前久にしたら、次の将軍は足利義栄よりも、近衛尚通の猶子・覚慶の方がいいですよね。(覚慶が近衛尚通の猶子ということは、系図上、覚慶は近衛前久の叔父なのかな? というか、覚慶の母・慶寿院は、姉になる?)

近衛尚通┬近衛稙家 ────┬女子(足利⑬義輝正室)
    └女子(慶寿院)└近衛前久
       ‖───────┬足利⑬義輝
     足利⑫義晴    ├覚慶(幼名:千歳丸。足利⑮義昭)
             └照山周暠

 私が三好義継でしたら、足利義栄も足利義昭も殺して、自分が将軍になりますが、「足利の血」が重要なのでしょうか? 天皇の場合は「血」が重要でしょうけど、将軍は・・・???

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