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「永禄の変」と「嘉吉の乱」「本圀寺の変」「本能寺の変」

1.「永禄の変」と「嘉吉の乱」の違い


 「嘉吉の乱」とは、室町時代の嘉吉元年(1441年)6月24日に、播磨国、備前国、美作国の守護を兼ねる赤松満祐が、「籤引き将軍」こと第6代将軍・足利義教らが、猿楽を観賞していた時に暗殺したことに始まる。赤松一族は、幕府の追手が来ると予想して屋敷で自害するつもりでいたが、いっこうに来ない。しかも管領・細川持之をはじめ、諸大名達は、各自の屋敷に引きこもっていたので、赤松満祐は、屋敷に火を放ち、将軍・足利義教の首を槍先に掲げて、領国である播磨国に逃れた。しかも、この退軍を誰も襲おうとしなかった。結局、赤松満祐は、播磨国城山城(兵庫県たつの市の亀山の山頂)で切腹した。
 「永禄の変」で、実行犯の「三好三人衆」らは、京都に居座ったが、誰も将軍殺しの大罪人たちを討とうとしなかった。彼らの力は強大で、普通の戦国大名では討てない、尾張国の織田信長では勝てない。とはいえ、織田信長が足利義昭を擁して上洛したら、将軍・足利義栄を擁する三好勢と戦わなければいけない。そこで、織田信長は、上洛のために「大きな国」を作ることにした。
・尾張国の東:三河国→同盟強化。(長女を徳川家康の子と結婚させる。)
・尾張国の西:近江国→同盟する。(妹を浅井久政の子と結婚させる。)
・尾張国の南:伊勢国→北勢(北半分)を征服する。
・尾張国の北:美濃国→征服する。
万全を期して、永禄11年9月7日、織田軍(尾張・三河・近江・伊勢・美濃連合軍)は、京に向けて出陣した。すると京都の三好勢は、織田信長を怖れたのか、「応仁の乱の二の舞を避けた(京都を火の海にしてはならない)」と思ったのか、各自の居城に戻ったので、織田信長軍は、1つ1つの城を、大軍を率いて、いとも簡単に落としていった。

2.「永禄の変」と「本圀寺の変」「本能寺の変」の違い


 「本圀寺の変」は、三好軍が、本圀寺に居る将軍・足利義昭を、一方的に襲った事件で、「本能寺の変」は、明智光秀が、本能寺に居る天下人・織田信長を、一方的に襲った事件である。
 だが、「永禄の変」は、三好勢が二条御所に居る将軍・足利義輝を一方的に襲った事件だとは、必ずしも言えない。その理由は次の2つ。

 理由①逃げるチャンスがあった。(「三位一体の主日」の前夜、将軍・足利義輝は、二条御所を脱出した。他国へ逃げるつもりだったという。ところが、側近たちが、「将軍が家臣から逃げるという行為は、将軍の権威を失墜させる」と反対したため、足利義輝は、しぶしぶ二条御所に戻った。)

三位一体(トリニティ)の主日(ホーリートリニティサンデー、Domingo da Santíssima Trindade):神が三位一体(父(主権)と子(キリスト)と聖霊)であることを祝す日曜日(「三位一体の主の日」「三位一体の聖日」とも)。「聖霊降臨(ペンテコステ)の主日」(イエスの復活&昇天後、集まって祈っていた120人の信徒たちの上に聖霊が降るという出来事が起きた日)の次の日曜日。移動主日で、5月末~6月中旬の日曜日に行われる。「永禄の変」が起きた「三位一体の主日」である和暦永禄8年5月19日は、西暦1565年6月17日である。ちなみに、2020年の「三位一体の主日」は6月7日であった。
 旧暦9月15日の例大祭を「人が集まらないから」という理由で新暦10月第2日曜日に変更した神社がある。キリスト教も同様で、本来の日ではなく、日曜日に移動されている。

※『耶蘇會士日本通信』「1565年6月19日付 ルイス・フロイス書簡」
Mostrādolhe o Cubucama, que o aceytaua, todauia com grande temor de lhe ,acjomare, algūa treuçāo, crecendo cada vez mais nelle estes areceos sabado antes do domingo da Trindade muito ocultamente se sahio de noite de priuados, e amigos com entençāode se recolher em outro Reyno, vendoque nāo tinhaposse pera lhe resstirse ouuesse algūa treyçāo.
E estando ja obra de hūa legoafora dacidade, descobrindo sua entençāoaos q consigoleuaua, todos lhe forāo a māo, dizendolhe, q seus criados, sem lhe constar claramete, que dlles ma chinauāo treyçāo, mayormente sendo elle tam bom principe, e que a nenhūs dos seus tinha agrauado, q setornasse, porque todos morreriāo com elle qunado ouuesse algūareuolta, e assi persuadido por elles se tornou a recolhee.
(公方様は、之を承諾するの意を示せしが、尚、叛逆を恐れ、その懸念強く加わり、三位一体の日曜日(domingo da Trindade)の前の土曜日の夜、密かに宮殿を出で、最も寵幸し、又、親近せる大身数人と共に他国に逃れんとせり。蓋し、叛逆の場合には抵抗すべき力無きを認めたればなり。
 市外約1レグワ(5km)の地に到り、同行者に意図を告げたるに、彼ら、皆、之を止め、「叛逆の証拠、明らかならざるに、臣下より遁るゝ時は、威厳を損すること大なるべく、公方様は良君にして何人をも苦しめたることをなければ、従って反抗を招くべき理由なく、もし叛逆者あらば、我々は皆、公方様と死を共にすべし」と云ひたれば、彼らの勧めに従ひ、再び帰還せり。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186696/159


 また、当日も、沼田上野介光長と治部藤通の弟・福阿弥が、「防ぎ矢を放って敵の進撃を食い止めるので、その間に早足の馬に乗って、東川原に駆け出せば、ご運が開かれることでしょう」と泣きながら言ったが、「お前たちが討ち死にした後、どうして私が生き残れよう」と言って戦い、ついに自害したと釈義俊『光源院贈左府追善三十一字和歌序』(徳川光圀編『扶桑拾葉集』(巻第26)所収)にある。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2553249/83


 理由②殺すつもりはなかった。(三好勢は、二条御所を取り囲んだ。足利義輝は、ルイス・フロイスの記述とは異なり、よくある「御所巻」(大名らが将軍邸を包囲して訴えを強制する行為で、室町時代の常套手段)だと思い、慌てなかったという。)辞世も詠んでいる。

   五月雨は露か涙か時鳥(ほととぎす)
           わが名をあげよ雲の上まで

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