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『信長公記』「首巻」を読む 第30話「逸話(4)踊り御張行の事」

第30話 「逸話(4)踊り御張行の事」

七月十八日おどりを御張行
一、赤鬼、平手内膳衆
一、黒鬼、浅井備中守衆
一、餓鬼、滝川左近衆
一、地蔵、繊田太郎左衛門衆。
辨慶に成り候衆、勝れて器量たる仁躰なり。
一、前野但馬守、辮慶
一、伊東夫兵衛、辮慶
一、市橋伝左衛門、辮慶
一、飯尾近江守、辮慶
一、祝弥三郎、鷺になられ侯。一段似相申し侯なり。
一、上総介殿は、天人の御仕立に御成り候て、小鼓を遊ぱし、女おどりをたされ候。津島にては堀田道空庭にて、一おどり遊ぱし、それより清洲へ御帰りなり。
 津島五ヶ村の年寄ども、おどりの返しを仕り侯。是れ又、結構申す計りなき様躰なり。清洲へ至り候。御前へめしよせられ、「是れは、ひようげなり」。又は「似相なり」などと、それぞれへ、あひあひと、しほらしく、一々御詞懸けられ、御団にて、冥加なく、あをがせられ、御茶を下され、悉き次第、炎天の辛労を忘れ、有り難く、皆感涙をながし、罷帰り侯ひき。

【現代語訳】

弘治3年7月18日、織田信長は、「風流(ふりゅう)踊り」(「御葭(みよし)踊」「津島踊」とも。現在のコスプレイベント)を興行した。
一、赤鬼に扮したのは、平手内膳衆
一、黒鬼に扮したのは、浅井備中守衆
一、餓鬼に扮したのは、滝川一益衆
一、地蔵に扮したのは、繊田太郎左衛門信張衆
弁慶に扮した者たちは、勝れた扮装であった。その者たちとは、次の者たちである。
一、前野但馬守長康の弁慶
一、伊東夫兵衛の弁慶
一、市橋伝左衛門利尚の弁慶
一、飯尾近江守定宗の弁慶
一、祝弥三郎重正は鷺に扮した。よく似合っていた。
一、上総介殿は天人の扮装(コスプレ)をして、小鼓を打ち、女踊りをした。津島では、堀田道空屋敷の庭で、ひと踊りして、清洲城へ帰った。
 津島五ヶ村(米之座、堤下、今市場、筏場、下構村)の年寄(村長?)共が、津島での風流踊りのお返しと清州へ来た。これまた結構な風流踊りであった。織田信長は、御前へ召し寄せて、「これは、ひようげ(ひょうきん)である」、また、これは、「よく似合っている」と、各人に、気安く言葉をかけ、もったいなくも団扇であおいであげたり、御茶を出してあげたりして、悉き次第で、炎天下の苦労も忘れ、有り難く、皆、感涙して、帰った。

【解説】

★『日葡辞書』
「ふうりゅう」優美な衣服などのように、見た目に趣があって優雅なこと。
「ふりゅう」様々な扮装をして道化を演じる踊り。或は、踊り一般をいう。

★小学館『ブリタニカ国際大百科事典』

風流(ふりゅう) 趣向を凝らした作り物に発し,祭礼でのさまざまに飾り立てた作り物,これに伴う音楽,舞踊などをいう。「風流」の文字は古く「みやび」と訓じ,みやびやかなもの,風情に富んだものを意味したが,平安時代には和歌や物語を意匠化した作り物をさすようになり,祭礼の際の傘,山,鉾などが風流と呼ばれ,これに付随した仮装の練り物,囃子,踊りまでが含まれるようになった。延年に大風流,小風流の演目があり,能楽にも狂言方の演じる狂言風流がある。特に田楽や疫病神の祭に伴う風流が流行してからは,山や鉾を飾り立て,囃子をはやし練歩く祭礼の風流が盛んとなり,室町時代末から近世初期にかけては小歌をうたって踊る群舞が各地で流行した。それらは今日まで特色ある民俗芸能として全国に伝承されている。 

風流踊(ふりゅうおどり) 太鼓・鼓・笛・鉦などの囃子に合せて歌いながら踊る群舞。広義には平安時代の田楽や疫病神送りの祭りに伴う踊りも含まれるが,一般には念仏踊系の風流が流行して以後,室町時代末期から近世初頭にかけて盛行した集団の踊りをいう。そろいの扮装をし,主として数種の小歌を組合せて歌いながら統一された所作で踊るのが特徴で,伊勢踊,小原木踊,飛騨 (ひんだ) 踊などが知られた。慶長9 (1604) 年8月の豊臣秀吉7回忌の豊国神社祭を描いた屏風絵に,当時の風流踊の様子が詳しくうかがわれる。また,室町時代末に少女が踊ったややこ踊という風流踊は,歌舞伎踊成立の母体となったといわれる。今日,全国各地で行われる盆踊をはじめ,太鼓踊,雨乞踊,臼太鼓,浮立 (ふりゅう) ,ざんざか踊,花笠踊,鹿島踊,綾子舞など数多くの風流踊が伝承されており,扮装も芸態も多様である。

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