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視聴記録『麒麟がくる』第42回「離れゆく心」2021.1.24放送

<あらすじ>

毛利攻めの副将である荒木村重までもが信長(染谷将太)に反旗をひるがえす。必死に説得をする中で、この終わりの見えない全ての戦が、武士の棟りょうたる将軍の復権につながっていると悟った光秀(長谷川博己)は、義昭(滝藤賢一)が追放された鞆の浦(とものうら)へ足を運ぶ。そこで見たのは、釣りざおを垂らす暮らしをしているかつての将軍・義昭の姿だった。一緒に京に帰ろうと促す光秀に、義昭は「そなた一人の京ならば考える」と告げる。

<紀行>

江戸時代、酒造りの町として発展した兵庫県伊丹市。現在、駅となっている一帯には、明智光秀の娘が嫁いだ有岡城の主郭がありました。今も残る石垣が、当時の面影をとどめています。荒木村重の居城・有岡城は、町全体を堀と土塁で囲んだ、惣構(そうがまえ)の城でした。城の北端に位置する猪名野(いなの)神社。砦(とりで)が築かれたこの地には土塁の一部が残されています。信長は、謀反を起こした村重を討つべく、総攻撃を仕掛けました。兵糧攻めの後、墨染寺(ぼくせんじ)付近にあった砦から内通者が出、あえなく落城。その後、信長は荒木家にゆかりのある人々をことごとく処刑。この時、犠牲になった女性たちを弔う塚が残されています。有岡城の戦いは、信長の残酷さを世に知らしめました。

★戦国・小和田チャンネル「麒麟がくる」第42回「離れゆく心」
https://www.youtube.com/watch?v=lu18XeYN0EM

 「反織田」勢力の毛利氏や本願寺は、織田信長のやり方が気に入らない反対勢力であるが、戦争によって織田信長(安土幕府)を倒し(倒幕し)、自分が将軍になって新幕府を開こうとしたわけではない。「反織田」勢力の目標は「室町幕府(足利幕府)の復活」であり、鞆の浦(鞆幕府)の足利義昭を擁しての入洛であった。

 ──足利義昭、恐るべし。彼はまだ死んでいない。

 足利義昭が亡命先の鞆の浦に「鞆幕府」を開けたのは、彼がまだ征夷大将軍であったからである。そして彼の兄・足利義輝は、朽木谷に逃れるも、京都に戻れたわけで、足利義昭も、いつの日か兄のように京都に戻れると思っていたことであろう。

藤田達生『明智光秀伝』
 天正4年2月、信長は近江安土に本拠地を移す。2人の将軍を頂点とする2つの幕府、すなわち「鞆幕府」と「安土幕府」による内乱時代の幕開けである。
(中略)
 史上いかなる地域権力にあっても、中央の公権力なしに存在しえなかったという事実をおさえておくべきである。戦国大名が活躍する分権の時代においても、将軍とその幕府は必要とされたのだ。
 毛利氏や本願寺の場合は、信長よりも義昭を選んだのである。「鞆幕府」を組み込まない議論は、当該期の政治の本質を無視しているといわざるをえない。
(中略)
 「鞆幕府」は、天正4年2月に鞆の浦に成立した将軍足利義昭の亡命政権である。室町幕府の身分秩序や武家儀礼は形骸化しつつも、大名権力とは異なる上級政治勢力として存続する。

ドラマストーリー

(1)荒木村重の反逆


 天正6年(1578年)10月、織田家、そして、明智家に激震が走った。
 荒木村重が、突然、居城・有岡城(伊丹城)に篭城し、織田信長に対して反旗を翻したのである。
 当時、荒木村重は摂津国を任されており、彼の反逆は、地理的に考えて、中国方面に進出していた羽柴秀吉軍と丹波国方面に進出していた明智光秀軍が孤立してしまう。また、明智光秀の長女・岸が荒木村重の長男・村次に嫁いでいたことから、明智光秀にしたら身内の反乱であり、そのショックは松永久秀の反乱の比ではない。
 謀反の理由には諸説があり、定かではない。ドラマでは、
①織田信長が摂津国の国衆に重税を課し、国主・荒木村重が批判された事
②織田信長が、武家の棟梁・足利義昭を粗末に扱った事
 →毛利氏と協力して足利義昭を上洛させたい。
をあげていたが、「毛利輝元、足利義昭、石山本願寺からの要請」とするのが一般的である。個人的には、荒木村重の反乱の理由は、摂津国の隣の播磨国を攻めるのに、自分が総大将ではなく、遠く離れた北近江の長浜城主の羽柴秀吉が総大将に選ばれて、武士の面目が潰された、もしくは、織田軍内では出世できないと感じた(将来に希望が持てなくなった)ためではないかと思う。

太田牛一『信長公記』
 10月21日、「荒木摂津守、逆心を企つる」の由、方々より言上候。
 不実におぼしめされ、「何篇の不足候や。存分を申し上げ候はゞ、仰せ付けらるべき」の趣にて、宮内卿法印、惟任日向守、万見仙千代を以て仰せ遣はさるゝのところに、「少しも野心御座なきの通り」申し上げ候。御祝着なされ、「御人質として、御袋様差し上せられ、別儀なく候はゞ、出仕候へ」と、御諚候と雖も、謀叛をかまへ候の間、参らず候。
 惣別、荒木は、一僕の身に候と雖も、一年、公方様御敵の砌、忠節申し候に付いて、摂津国一職に仰せ付けらるゝのところ、身の程も顧みず、朝恩を誇り、別心を構へ候。
 「此の上は、是非に及ばず」の由にて、安土御山に、神戸三七、稲葉伊予、不破河内、丸毛兵庫をかせられ、11月3日、御馬を出だされ、二条御新造御成り。爰にても、惟任日向守、羽柴筑前、宮内卿法印を以て、色々御扱ひを懸けられ候へども、御請け申さず候。

【大意】 天正6年(1578年)10月21日、「荒木村重が逆心を企てている」という報告が方々から届いた。
 織田信長は、俄には信じがたく、「何の不満があるのか、言ってみよ」と松井友閑、明智光秀、万見重元を遣わして聞いた。荒木村重が「逆心はない」と答えたので、織田信長は喜び、「母親を人質を差し出し、何もなければ出仕せよ」と命じた。しかし、荒木村重は逆心を決めていたので出仕しなかった。
 そもそも荒木村重は、一僕の身にすぎぬ者であったが、先年、足利義昭が織田信長と敵対した時に、信長方についたので、摂津国の一職支配を任されたのであるが、そのような身にもかかわらず、織田信長の厚遇に奢り、ついには逆心したのである。
 「こうなった以上は仕方がない」と、織田信長は、安土に織田信孝、稲葉一鉄、不破光治、丸毛長照を置き、11月3日、自ら出馬して二条御新造に着陣した。ここにきても織田信長は、明智光秀、羽柴秀吉、松井友閑を派遣して説得させたが、荒木村重は、応じなかった。

※実は一度は使者に説得され翻意し、安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣・中川清秀に「織田信長は、家臣に一度疑いを持てば、いつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け、伊丹に戻った。羽柴秀吉は、荒木村重と旧知の仲であった黒田官兵衛を使者として有岡城に派遣して翻意を促したが、黒田官兵衛は拘束され、土牢に監禁された。

(2)足利義昭の鞆幕府


 ドラマの明智光秀は、「全ての戦いは公方様に繋がっている」として、足利義昭に会いに鞆の浦の鞆城へ行った。あり得ない行動ではあるが、明智左馬助は、勝算あり(鞆の浦を仕切っている国衆・渡辺民部少輔元とは文通しているので、足利義昭に会える)とし、それよりも岸の心配をしていた。(一説に、この家臣の名を三宅弥平次といい、離縁されて明智家に戻った岸と結婚して明智左馬助と改名したという。)

鞆城:広島県福山市鞆町後地。天文22年(1553年)頃、毛利元就の命により、備後地方の土豪・渡辺氏が築いた「鞆要害」を改修した城(『渡辺三郎左右衛門家譜録』)。渡辺民部少輔元は、毛利氏に忠節を誓い、足利義昭の鞆の浦動座の際は警護役を務め、足利義昭から格式ある大名のみに許された「毛氈の鞍覆い」「白笠袋」の使用を許された。

 足利義昭は堕ちていた。今は1日1匹の鯛を釣るのが日課だという。(現在、鯛といえば、明石?)
 明智光秀が意を決して
「京へお戻りになりませぬか? 公方様がお戻りになれば、諸国の武士は矛を収めましょう」
と言うと、足利義昭は、今、上洛すれば兄・足利義輝のように殺されるしし、
「そなた1人の京であれば、考えもしよう」
と返した。これは、「織田信長がいなければ上洛してもよい」ということであり、「本能寺の変」の動機は、足利義昭の上洛なのだろうか?(足利義昭は、後に、この時の様子を駒に手紙で「麒麟。十兵衛となら、それを呼んでこれるやもしれぬ」と思ったと送っている。簡単に鯛を釣り上げた明智光秀を見て、今風に言えば「この男は持ってる」と感じたのであろうか?)

(3)有岡城の戦い


 「有岡城(伊丹城)の戦い」は、天正6年(1578年)7月に始まった荒木村重と織田信長の戦いである。簡単に落城するかと思いきや、日本初の天守を有する(異説あり)有岡城は、総構え(東西400mX南北600m)であったので、容易に落とせなかった。また、荒木村重は、加勢に来るはずの毛利輝元が動かないので、苛立った。
 翌天正7年(1579年)9月2日夜半、荒木村重は、数名の側近に茶道具を持たせ、家族を置いて船で猪名川を下り、嫡男・村次がいる尼崎城(大物城)へ移った。(「自分だけ助かろうとした」とされるが、茶道具を毛利輝元に献上して加勢を要請したかった(直談判したかった)のかもしれない。)これを細川藤孝は、
  〽君に引く荒木ぞ弓の筈ちがい 居るにいられぬ有岡の城
と詠んだ。
 滝川一益が、上﨟塚砦の守将・中西新八郎&副将・宮脇平四郎に、「逃亡するような荒木村重にいつまで仕えるのか?」と寝返らせると、天正7年(1579年)11月19日、城守・荒木久左衛門は開城を決意し、「有岡城の戦い」は終結した。
 織田信長は、人質全員を処刑するように命じ、荒木一族と重臣衆の併せて36名は妙顕寺に移送後、京市中引き回しの上、六条河原で首を刎ねられた。有岡城の本丸にいた家臣の妻子衆122名は磔にされ、鉄砲で撃たれた。さらに男124名、女388名が、4軒の農家に入れられ、火をつけられて焼死した。ようするに、見せしめのため、700名弱を残酷な殺し方で殺してみせたのである。(岸は離婚していたので、殺されずに済んだ。)

(4)徳川家康


 徳川家康が、明智光秀に相談したい事があるという。(三条西実澄に「相談するなら明智光秀」と言われたという。菊丸の「信用できるのは明智様」という言葉にも通じる。)
 徳川家康は、「陸路は危険」として、海路でやって来た。「陸路は危険」は、後の「神君伊賀越え」で証明された? (徳川家康の家臣が「陸路は危険」と忠告したということは、徳川家康の家臣は、織田領を通っている時に徳川家康が暗殺されると考えていたのだろうか? つまり、それほど織田信長と徳川家康の仲は悪かったってこと? 織田信長は、少なくとも武田氏の滅亡までは、徳川家康を暗殺しないと思うけどね。)
 航路が紹介された。三河国大浜から出航しているが、この時、徳川家康は岡崎城ではなく、浜松城にいたので、遠江国掛塚からの出航が正しい。

※「神君伊賀越えの諸説を吟味 なぜ家康は船で逃げなかった!?」
https://iiakazonae.com/1112/

 徳川家康は、「妻・築山殿&嫡男・信康が武田勝頼に内通し、三河国を乗っ取ろうとしている」として、織田信長に殺すよう命じられ、ドラマの徳川家康は、
「たとえそれが事実であったとしても、我が息子に不始末があれば、私が然るべく処断致します。信長様に『殺せ』と言われる筋合いのものではない」
と憤っていた。
 なお、織田信長は、徳川家康について、
「儂は家康を試しておるのじゃ」
と明智光秀に語った。徳川家康の父・松平広忠を暗殺した人が、次は「妻子を殺せ」とよく言えるなと思うし、その理由が「テスト」では、徳川家康がかわいそう。どうする家康?

「自分の国や人生を懸けた決断を相談する。そのときの家康は、三河を束ねる一国のあるじとしてではなく、幼いころに干し柿をもらったことのある、戦国を生きるひとりの男として相談しているのでは。肩書や地位を脱ぎ捨てて話ができるのは、きっと明智様だけなんだろうなと」(風間俊介)
https://twitter.com/nhk_kirin/status/1353308567516950528

 織田家は、毛利家のように合議制ではなく、織田信長のトップダウンであり、織田信長の命令の意図が分からないので、家臣は織田信長から離れていくのである。

※「妻・築山殿&嫡男・信康が武田勝頼に内通し、三河国を乗っ取ろうとしている」として、織田信長に殺すよう命じられたとするのは徳川中心史観による通説ですね。新説は、岡崎城と浜松城の分裂により、徳川家康が処断したのであって、織田信長は了承しただけだとか。

※「ナゾ多き松平信康の切腹事件~内通、対立、分裂、策略等の主要5説を徹底検証せよ!」
https://iiakazonae.com/1052/
※「結局、築山事件と信康事件とは何だったのか?」
https://iiakazonae.com/1067/

 また、去年12月15日の三河国吉良(愛知県西尾市吉良町)での鷹野(鷹狩り)について、織田信長は、
「去年、鷹狩に、三河岡崎まで足を伸ばしたことがある。その時、儂の警護に付き添うた家康の家臣たちは、儂のことを妙な目で見た。三河の者が、尾張の者を睨む目じゃ」
と明智光秀に語った。

※太田牛一『信長公記』(巻10)「三州吉良へ御鷹野の事
 12月10日、三州吉良御鷹野に御出で。「近日に、羽柴筑前罷り上るべく候。今度、但馬、播磨申しつけ候御褒美として、おとごせ(乙御前)の御釜下さる」の由にて、取り出だしおかれ、「罷り参り次第、筑前に渡し候へ」と、仰せつけられ候。忝き御事なり。
 信長公、其の日は、佐和山惟住が所に御泊り。次の日、垂井に御成り。12日、岐阜に至って御座を移され、翌日、御逗留。14日、雨降り候と雖も、尾州清洲御下着。
 12月15日、三州吉良まで御成りあって、鴈、鶴余多御取り飼ひなされ、19日には濃州岐阜へ御出で。さる程に、路次にて緩怠の者御座候を、信長公、御手討ちの仰せつけられ候。
 12月21日には、安土まで日通しに御帰城なり。

【大意】天正5年12月10日、織田信長は、三河国吉良(愛知県西尾市吉良町)での鷹狩りのため、安土を出立した。「近日中に羽柴秀吉が帰陣するであろう。但馬&播磨平定の褒美として『乙御前の釜』をやろう」と言って取り出し、「羽柴秀吉が来たら渡すように」と指示した。有難きことである。
 織田信長は、佐和山の丹羽長秀の居城に宿泊し、翌日は垂井に到着。12日に岐阜城に到着し、翌日まで逗留した。14日は雨が降っていたが、尾張国の清洲に到着。
 12月15日、織田信長は、三河国吉良で鷹狩りを行い、雁や鶴など、たくさん獲った。
 19日に岐阜城へ戻ったが、途中で過失を犯した者がいたので、手討ちにした。
 12月21日には安土へ帰城した。

 『信長公記』には、三河国まで行った理由や、三河衆の態度については書かれていない。ただ、手討ちにされた人が、どんな緩怠(過失)を犯したのか気にはなる。

※「織田信長 -天正5年12月15日の鷹野-」
https://note.com/senmi/n/nfbdfe9bce729

(5)織田信長の怒り

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 ──手を出したら最後。もう元には戻れないね。

 織田信長が手を出したのは、明智光秀が、正親町天皇との会話を報告しなかったから。羽柴秀吉なら、「正親町天皇は御簾の向こうにいて、言葉を交わすどころか、お顔も見てない」とか、「信長様のことを褒めていました」とか言うのだけど、明智光秀は(平蜘蛛の茶釜で嘘を言って反省したこともあって)嘘は言えない。

「いくら問い詰めても、帝が自分のことをどう言っていたのか十兵衛は話してくれない。それが不安でしかたなかった。高圧的な態度をとっていますが、心情的には頼むから教えてくれとお願いしているんです。でも最後は不安からくる怒りで、暴走して手を出してしまった」(染谷将太)
https://twitter.com/nhk_kirin/status/1353308066226307073

織田信長は、
「正親町天皇に譲位していただこう。うん、そうしよう」
と切り替えが早い。
 矛先を明智光秀から正親町天皇に移したということは、織田信長にとって、明智光秀は必要だが、正親町天皇は必要ではないのでしょう。「明智光秀は主人公だからいい人、正義の人」と思ってる人が多いと思うけど、戦国時代、主君に内緒で天皇に会ったり、将軍に会ったりしたら、その時点でアウト! 明智光秀は、織田信長に手討ちにされても文句は言えないのが当時のルール。それをしない織田信長は器が大きいというか、「明智光秀を失いたくない」って気持ちが強い人。主君が豊臣秀吉なら切腹を命じてるでしょ。
 今回のタイトルは「離れゆく心」です。このタイトルの意味は、
「荒木村重や、徳川家康の心が織田信長から離れていった」
もしくは、明智光秀側から
「私(明智光秀)の心が織田信長から離れていく」
ということでしょうが、織田信長側からは、
「明智光秀の心が自分(織田信長)から離れていってると感じ、『なぜじゃ、なぜこうなる』と不思議に思ったが、それは正親町天皇のせいだと思った」
ともとれるでしょう。恋愛でたとえれば、「最近、彼が私を遠ざける」という事実を、
「彼が私を嫌いになった」
と解釈するか、
「彼に私以上に好きな人(正親町天皇)ができた」
と解釈するかです。
そして、その人との関係を問いただすと黙秘されたので、怒って手が出てしまった。

 ──手を出したら最後。もう元には戻れないね。

 今回、残念だったのは、安土城が登場しなかったことです。安土城の建設が進んでいる状況を描くことは、織田信長の理想実現が近づいているって表現になり、時の経過も分かるので。
 「時の経過」は羽柴秀吉の陣羽織の変化にも見られます。羽柴秀吉の陣羽織は、第一形態「雨龍」から、最終第五形態「昇龍(応龍?)」まで、5着用意されているようです。

■コラム:龍とともに出世した秀吉(黒澤和子)


 テーマカラーは「白」、全体的には大陸的アジアンというイメージです。そしてもうひとつの特徴が“龍”です。龍には出世魚のように成長し、最後は昇天する龍になるという言い伝えがあります。それは、農民から大出世していく秀吉にピッタリだと考えました。

『述異記』
虺五百年化為蛟 (虺(まむし)は、500年にして蛟(雨竜)となり、)
蛟千年化為龍  (蛟(みずち)は、1000年にして竜(成竜)となり、)
龍五百年為角龍 (竜は、500年にして角竜(かくりゅう)となり、)
千年為應龍   (角竜は、1000年にして応竜(おうりゅう)となる。)

 行商人時代の藤吉郎の衣装には、龍の中でも最下位のものを文様として使い、そこから、木下藤吉郎、羽柴秀吉と出世していくにつれ龍の形態も成長していきます。秀吉の陣羽織の背中には龍の最終形態である、雲の間を昇天する龍になっています。
 今作の監督がイメージされている「五行相剋」を元にしたキャラクターの色分けでは、光秀のテーマカラー「青」を倒す色が「白」であることから、秀吉のテーマカラーは「白」。そして、サブカラーを「紫」にすることで成り上がりたい嫌らしさを表現しています。

◉五行:日常生活に欠かせない五大要素の木、火、土、金、水のこと。
・木(青)、火(赤)、土(黄)、金(白)、水(黒)
・青(木):明智光秀、黄(土):織田信長、白(金):豊臣秀吉
◉五行相生:木は火を、火は土を、土は金を、金は水を、水は木を生む。
◉五行相剋:水は火に、火は金に、金は木に、木は土に、土は水に勝つ。
・「木は土に勝つ」(明智光秀は織田信長を倒す)
・「金は木に勝つ」(豊臣秀吉は明智光秀を倒す)

【秀吉の出世龍 第一形態】 しかし、このころの藤吉郎はまだ農民出身で行商をしているので、「白」の汚し具合はとても難しく、汚いけど、汚くなりすぎないように気をつけました。小袖の小さな龍は「雨龍」といって成長する龍の最下位の龍ですが、「雨乞いの象徴」ともいわれ、雨を恵みとする農民出身の秀吉にはぴったりだと思い、この文様にしました。
【秀吉の出世龍 第二形態】 信長に仕え、何としても気に入られようとする秀吉なので、小袖には信長の色「黄色」を入れ、昔の木型で白く小さなアジアン文様も入れました。龍は、雨龍より少し形が龍っぽくなった文様を使っています。
【秀吉の出世龍 第三形態】 素襖の龍は「飛龍」といって天地の間を飛び交い鳳凰(ほうおう)を産む龍といわれています。龍の成長は何段階もあるそうですが、名前と形が文献によって違うので、今作では龍が成長しているように見える文様を選び使っています。テーマカラーの「白」を基調に、サブカラーの「紫」のぼかしが入った織物で胴服を作りました。袴は、小さな龍文様の金襴織物を使っています。
【秀吉の出世龍 第四形態】 このころの秀吉はかなり出世しているので、いわゆる「龍」に近い形にしました。また柄を大きくし、少し嫌らしい成金的な感じを出しました。
【秀吉の出世龍 最終形態】 陣羽織の背中の「龍」です。雲の間を舞い、天に昇りそうな龍を手描きで描きました。秀吉が城持ちになってからの陣羽織です。ラストのことも考えて、何種類もの南蛮柄の生地を使い、今作で一番偉そうに見えるデザインとしました。背中には、雲の間を舞い天に昇りそうな、最終形態の龍を手描きしました。
https://www.nhk.or.jp/kirin/make/sekai_sp_12.html
■衣装の世界
https://www.nhk.or.jp/kirin/make/sekai_20.html
■参考「雨乞い象徴紋 成長の瑞龍「雨龍」」
http://www.omiyakamon.co.jp/kamon/amaryo/index.html




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