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『信長公記』「首巻」を読む 第21話「勘十郎殿、林、柴田御敵の事」

第21話「勘十郎殿、林、柴田御敵の事」

一、守山の城、孫十郎殿年寄衆として相抱え候。楯籠る人数、角田新五、高橋与四郎、喜多野下野守、坂井七郎左衛門、坂井喜左衛門、其の子坂井孫平次、岩崎丹羽源六者ども、是れ等として、相抱え候。勘十郎殿より、柴田権六、津々木蔵人大将として、木ケ崎口をとり寄するなり。上総介殿より飯尾近江守、子息讃岐守、其の外、諸勢丈夫に取りまかせ、とり籠め置かれ候。

一、織田三郎五郎殿と申すは、信長公の御腹かはり御舎兄なり。其の弟に安房守殿と申し候て、利口なる人あり。上総介殿へ佐久間右衛門、時に申し上げ、守山の城、安房殿へ参らせられ候。角田新五・坂井喜左衛門、惣別、守山の両長なり。二人謀叛にて、安房殿を引き入れ、守山殿になし申し候。今度の忠節に依つて、下飯田村屋斎軒分と申す知行百石、安房殿より佐久間右衛門に下し置かるゝなり。

一、さる程に、信長公の一おとな林佐渡守、其の弟・林美作守、柴田権六申し合せ、「三人として、勘十郎殿を守り立て候はんとて、既に逆心に及ぶ」の由、風説執々なり。
 信長公、何とおぼしめしたる事やらん、五月廿六日に、信長と安房殿と唯二人、清洲より那古野の城林佐渡所へ御出で候。「能き仕合せにて候間、御腹めさせ候はん」と、弟の美作守申し候を、林佐渡守、余りにおもはゆく存知候歟、「三代相恩の主君を、おめおめと爰にて手に懸け、討ち申すべき事、天道おそろしく候。とても御迷惑に及ばるべきの間、今は御腹めさせまじき」と申し候て、御命を助け、信長を帰し申し候。
 一両日過ぎ候てより、御敵の色を立て、林与力のあらこの城、熱田と清洲の間をとり切り、御敵に成る。こめのゝ城、大脇の城、清洲となご屋の間にあり。是れも、林与力にて候間、一味に御敵仕り候。

一、是れは守山城中の事、坂井喜左衛門子息・孫平次を、安房殿、若衆にさせられ、孫平次、無双出頭にて候。爰にて角田新五、忠節を仕り候へども、程なく角田を蔑如になされ候事、無念に存知、「守山城中、塀、柵損じ候を、懸け直し候」と申し候て、普請半に土居の崩れたる所より人数を引き入れ、安房殿に御腹めさせ候て、岩崎の丹羽源六共を引組み、城を堅固に相抱え候。ケ様に移りかはり、

一、織田孫十郎殿久々牢籠たされ候を不便におぼしめし、御赦免候て、守山の城、孫十郎殿へ下され候。後に河内、長島にて討死候なり。

一、林兄弟が才覚にて、御兄弟の御仲不和となるなり。
 信長御台所入りの御知行、篠木三郷押領。
 「定めて川際に取出を構へ、川東之御知行相押ヘベく候の間、其れ以前に此の方より御取出仰せ付けらるべき」の由にて、八月廿二日、於多井川を越し、名塚と云ふ所に御取出仰せ付けられ、佐久間大学入れおかれ候。
 翌日・廿三日、雨降り、川の表十分に水出で候。其の上、御取出御晋請首尾なき以前と存知候歟、柴田権六人数千計り、林美作勢衆七百計り引率して罷り出で候。
 弘治二年丙辰八月廿四日信長も清洲より人数を出だされ、川をこし、先手あし軽に取り合ひ候。柴田権六千計りにて、いなふの村はづれの海道を西向きにかゝり来なり、林美作守は南田方より人数七百計りにて、北向きに信長へ向つて掛り来たる。上総介殿は、村はづれより六、七段きり引きしざり、御人数備へられ、信長の御人数七百には過ぐるべからずと申し候。東の藪際に御居陣なり。
 八月廿四日、午剋、辰巳へ向つて、先づ柴田権六かたへ向つて、過半かゝり給ふ。散々に扣き合ひ、山田治郎左衛門討死。頸は柴田権六取り候て、手を負ひ候て罷り退くなり。佐々孫介、其の外究竟の者共討たれ、信長の御前へ逃げかゝり、其の時、上総介殿御手前には、織田勝左衛門、織田造酒丞、森三左衛門、御鑓持の御中間衆四十計りこれあり。造酒丞・三左衛門両人は、清洲衆、土田の大原をつき伏せ、もみあつて、頸を奪ひ候ところへ、相かゝりに懸り、合戦のところに、爰にて上総介殿大音声を上げ、御怒りなされ候を見申し、さすがに御内の者どもに候間、御威光に恐れ、立ちとゞまり、終に逃げ崩れ候ひき。
 此の時、造酒丞下人禅門と云ふ者、かうべ平四郎を切り倒し、造酒丞に「頸を御取り候へ」と申し候へば、「いくらも切り倒し置き候」と申され候て、先を心がけ御通り候ひつる。
 信長は南へ向つて、林美作口へかかゝり給うところに、黒田半平と林美作数剋切り合ひ、半平左の手を打ち落され、互に息を継ぎ居り申し候ところへ、上総介信長、美作にかゝり合ひ給ふ。其の時、織田勝左衛門御小人のぐちう杉若、働きよく候に依つて、後に杉左衛門になされ候。信長、林美作をつき臥せ、頸とらせられ、御無念を散ぜられ、両共以て追ひ崩し、さて、手々に馬を引き寄せ候。打ち乗って、追付き、追付き、頸を取り来たり。其の日、清洲へ御帰陣。
 翌日、頸御実検候へぼ、林美作頸は、織田上総介信長討ちとり給ふ。鎌田助丞、津田左馬丞討ちとる。富野左京進、高畠三右衛門討ちとる。山口又次郎、木全六郎三郎討ちとる。橋本十蔵、佐久間大学討ちとる。角田新五、松浦亀介討ちとる。大脇虎蔵、かうべ平四郎、初めとして、歴々頸数四百五十余あり。
 是れより後は那古野、末盛籠城なり。此の両城の間へ節々推し入り、町口まで焼き払ひ、御手遣はすなり。
 信長の御袋様、末盛の城に御舎弟勘十郎殿と御一所に御座候に依つて、村井長門、島田所之助両人を、清洲より末盛へ召寄せられ、御袋様の御使として、色々様々御詫言にて、御赦免なされ、勘十郎殿、柴田権六、津々木蔵人、墨衣にて、御袋様御同道にて、清洲において、御礼これあり。
 林佐渡守事、是れ又、召し出だされまじき事に候へども、先年御腹めさせ候刻を、佐渡覚悟を以て申し延べ候。其の子細をおぼしめし出だされ、今度御宥免なされ候なり。

【現代語訳】

一、守山城では、城主・織田孫十郎信次が、織田喜六郎秀孝殺害の一件で、どこかへ逃亡してしまったので、年寄衆(家老衆)が城を守っていた。守山城に立て籠もっていたのは、角田新五、高橋与四郎、喜多野下野守、坂井七郎左衛門、坂井喜左衛門・孫平次親子、岩崎(尾張国愛知郡。現在の愛知県日進市岩崎町)の元岩崎城主・丹羽氏勝(赤塚合戦(第11話)の時は今川方で、岩崎城を今川方の福島氏に譲ったが、この時(弘治元年~2年の西三河の武将の反今川化)には織田方に戻っていた人物)などである。
 織田勘十郎信勝の命で、家臣の柴田勝家と津々木蔵人大将として、木ケ崎(愛知県名古屋市東区矢田3丁目)口(東区矢田から守山区への出入り口)に攻め寄せた。
 織田上総介信長の命で、飯尾定宗・尚清親子、その他、諸勢を堅固に守山城を取り巻かせ、守山城を包囲した。

一、織田三郎五郎信広(長男)は、織田信長(三男)の異母兄である。織田信広の弟に織田安房守信時(次男。「秀俊」とも)という利口な人がいた。織田信長に対し、佐久間信盛は、折に触れては織田信時を褒めたので、織田信長は、城主が逃亡した守山城の城主をこの織田信時にすることにした。守山城の角田新五、坂井喜左衛門の両家老の意見も聞いてみると、(両家老は、佐久間信盛の意見を取り入れて)、織田信時を指名したので、「守山城の意見を取り入れて織田信時を守山城主にする」として、織田信長は、守山騒動を終わらせた。今回の忠節により、(お礼として、)下飯田村(愛知県名古屋市北区下飯田町)の屋斎軒の旧知100石が、織田信時から佐久間信盛に下された。

一、話は変わるが、このような時に、「織田信長の家老・林秀貞・通具兄弟と柴田勝家の3人は、相談して、織田勘十郎信勝殿を織田弾正忠家の宗主にしようとして、既に逆心を抱いている」という噂をよく耳にするようになった。
 織田信長は、何を思ったのか、弘治2年5月26日、織田信時とたった2人だけで、清洲城から(織田信光が討たれて城主不在になっていた)那古野城に(荒子城から)入った林秀貞のもとへ出向いた。林通具は「良い巡り合わせだ。織田信長に切腹させよう」と喜んだが、林秀貞は、あまりにも恥ずかしく思ったのか、「織田信定、信秀、信長と三代仕えた恩ある主君を、ここで平然と、自分の手で殺してしまったら天道が恐ろしい。(「大うつけ」であるから)そのうち迷惑に及ぶ(ヘマをする)であろうから、その時に殺すとして、今は切腹させずにおこう」と織田信長の命を助けて、帰した。
 一両日過ぎた頃から、敵対を表明した。林の与力の荒子城主・前田利昌(前田利家の父)は、熱田と清洲の間を遮断して、敵対を表明した。米野城(名古屋市中村区下米野町。城主・中川弥兵衛)と大脇城(名古屋市中村区大秋町の大秋城。城主・大秋十郎左衛門)は、清洲と那古野(名古屋)の間にあるが、いずれの城も、城主が林の与力であったので、やはり、敵対を表明した。

一、さて、守山城の話に戻すが、坂井喜左衛門の子・孫平次は、城主・織田信時の若衆(男色関係)になったので、比べる者が無い程、出世した。この結果、忠臣・角田新五は、忠節を尽くしたにもかかわらず、蔑ろにされたのを無念に思い、「守山城中の塀や柵の壊れた場所の修理をします」と言って、工事途中に、崩れた箇所から兵を引き入れ、守山城主・織田信時に切腹させ、元岩崎城主・丹羽氏勝らを味方に引き組み、守山城を堅固に支配した。

このように情勢が移り変わる中で、

一、織田信長は、元守山城主である叔父・織田孫十郎信次が長い間、牢籠(ろうろう)の身であることを不憫に思い、罪(弟・織田秀孝を、織田信次の家臣が殺すと逃げたこと)を許し、(守山城主・織田信時が切腹したので、)再び守山城の城主にした。(この織田信次は、天正2年9月29日、第三次長島一向一揆攻めで討ち死にした。)

一、林兄弟の策略で、織田信長・信勝兄弟の仲が不和となった。
 織田信勝は、織田信長直轄領の篠木庄(愛知県春日井市篠木町)の3郷を横領した。織田信長は、「多分、織田信勝は、庄内川の川岸に砦を築き、河東(庄内川以東の愛知郡と山田郡)の領地を横領するであろうから、その前に(河東に)砦を築いてしまおう」と言って、弘治2年8月22日、庄内川を越えて河東に入り、名塚(愛知県名古屋市西区名塚町)という所に砦を築いて、佐久間盛重を入れた。
 翌・弘治2年8月23日、雨が降った。織田信勝は「庄内川の水位が上がってる(これでは河西の織田信長は援軍を送れないであろう)。その上、名塚砦もまだ完成していない」と思ったのであろうか、約1700人の軍勢(柴田勝家勢約1000人、林通具勢700人)を率いて出陣した。弘治2年8月24日、織田信長も清洲城から軍勢を率いて庄内川を渡り、先陣の足軽に戦いを挑んだ。(こうして「稲生(いのう)の戦い」が始まった。)
 柴田勝家は、約1000人を率いて、稲生村(愛知県名古屋市西区稲生町)の村はずれ(愛知県名古屋市西区名塚町1丁目庚申塚の稲生原古戦場)の街道を東から西へと織田信長軍に襲いかかり、林通具は、約700人を聞いて、田を南から北へと織田信長軍に襲いかかった。織田信長は、稲生村の村はずれからだいたい6、7段(65~76m)引き下がった場所に兵を配置した。織田信長軍の兵数は700にも満たなかったという。織田信長は軍隊を2手に分けて、東の藪際に配置した。
 弘治2年8月24日、午の刻(正午前後)、織田信長軍は辰巳(南東)へ移動し、先ずは柴田勝家軍を半分以上の兵を使って攻撃した。散々、槍で叩き合い、山田治郎左衛門が討死した。彼の首は、柴田勝家が取ったのであるが、柴田勝家も負傷したので、退却した。佐々孫介ら屈強の武士たちが討たれ、兵は織田信長の御前へ逃げ戻ってきた。その時、織田信長の旗本には、織田勝左衛門、織田造酒丞信房、森三左衛門可成、槍持ちの中間衆が約40人、いるだけであった。織田信房、森可成の2人は、柴田勝頼軍の土田の大原を突き伏せ、揉み合って首を奪い取り、懸かり合って戦っている時に、織田信長が来て、大声で怒ると、柴田勝家の兵も、元は身内の者であったので、萎縮して動きを止め、ついには逃げ帰った。(こうして、織田信長軍は、柴田勝頼軍に勝利した!)
 この時、織田信房の下人・禅門という者が、河辺平四郎を切り倒し、織田信房に「首をお取り下さい」と言ったが、「(今はそんな余裕はない。)いくらも切り倒しておけ」と言って、先へと進んでいった。
 織田信長は、今度は南へ向って、林通具軍を攻めようとすると、黒田半平と林通具が数時間にわたって戦っていた。黒田半平が左手を斬り落され、互に息を整えていところへ、織田信長がやってきて、林通具を攻めた。この時、織田勝左衛門の御小人(使用人)の口中杉若が優れた働きをしたので、後に杉左衛門と名乗らせたのであるが、織田信長は、林通具を突き臥せ、首を取って、憂さを晴らした。(こうして、織田信長軍は、林通具軍に勝利した!)
 織田信長は、柴田・林両軍を追い崩すと、各自が馬を引き寄せて乗り、逃げる柴田・林両軍を追いかけて、首を取り、その日(弘治2年8月24日)の内に、清洲城へ帰城した。
 翌日、首実検(戦場で討ち取った敵の首を大将が見て、討ち取った者に、それなりの報奨を与える材料(資料)とした検査)を行った。
・大将・林通具の首は、織田信長が討ち取った。
・鎌田助丞の首は、津田左馬丞が討ち取った。
・富野左京進の首は、高畠三右衛門が討ち取った。
・山口又次郎の首は、木全六郎三郎が討ち取った。
・橋本十蔵の首は、佐久間盛重が討ち取った。
・角田新五の首は、松浦亀介が討ち取った。
・河辺平四郎の首は、織田信房(の下人・禅門)が討ち取った。
その他、大脇虎蔵など、お歴々の首が450ほどあった。
 (このように主だった武将が多数討たれたので、)これ以後、織田信勝派の面々は、城主不在(林貞秀が占領?)の那古野城と織田信勝が城主の末森城に分かれて籠城した。織田信長は、この那古野・末森両城の城下に時々侵攻し、町口まで焼き払い、軍隊を出陣させた。
 織田信長の母・土田御前は、末森城で、弟・信勝と一緒に住んでいた。村井貞勝、島田秀満の2人を、清洲城から末森城へ呼び、土田御前の使者として、色々と様々な詫び言を伝えたので、織田信長は、赦免することにした。すると、織田信勝、柴田勝家、津々木蔵人が墨染めの黒衣を着て、土田御前と一緒に、清洲城へ赦免のお礼を言いに来た。
 さて、林秀貞であるが、彼については、赦免して織田信長に対面させるのは、普通は出来ない相談であるが、清州城へ呼び出すと、「以前、あなた(織田信長)が織田信時と2人だけで那古野城へ来た時、弟・林通具は『好機である。殺そう』と言ったが、私が止めたので、あなた(織田信長)はこうして生きている」と切腹覚悟で言うと、織田信長は、その時の状況を思い出して、赦免した。

【解説】

 織田信長は、私が守りたい人を殺し、私が殺したい人を守っています。食い違う理由は・・・私と織田信長とでは人を見る目が違うのか? それとも、私が知ってる人物評は後世に考え出された人物評であって、実際は違ったのか?

※最近気付いたこと:『信長公記』で「A(地名)のB(人物名)」とある時は、「A村に住むB」ではなく、「A城主のB」らしい。ただ「造酒丞、三左衛門両人は、清洲衆、土田の大原をつき伏せ」の「柴田勝家軍の清洲衆・土田の大原」なる人物の詳細が分かりません。織田信長の母・土田御前は土田城(岐阜県可児市土田)の城主・土田政久の娘だと言うけど・・・。そもそも清洲衆(織田信長軍)の造酒丞、三左衛門の両人が、なぜ味方の清洲衆の土田の大原を突き伏せるのかも分かりませんが、
「佐々孫介、其の外究竟の者共討たれ(中略)造酒丞、三左衛門両人は、清洲衆、土田の大原をつき伏せ」
は、写本によっては、
「佐々孫介討死。土田の大原討死。究竟の者共討たれ(中略)造酒丞、三左衛門両人は、柴田権六口へ懸り相戦ひ」
となっています。
 土田城の城主・土田源太夫が弘治2年に(稲生の戦いで?)亡くなると、土田御前の父・土田政久もしくは土田政久の子だという生駒親重(土田甚助親重)が城主になり、その子・生駒(土田)親正は、永禄9年の織田信長の美濃国攻めに際して、彼の臣下になったとされ、天正2年まで土田城の城主であったという。(織田信長の側室・生駒吉乃の前夫は、土田御前の親戚の土田弥平次。)

 さて、尾張国は8郡に分かれており、1郡を支配するのは容易でしょうが、8郡を支配するには、尾張国守護や守護代でなければ難しいです。
 美濃国の斎藤道三や駿河国の今川義元であれば、容易に尾張国を統一できたでしょう(地図で領地の広さを比較すれば、面積の差=動員数の差は一目瞭然!)。しかしながら、人を見る目が有る斎藤道三は、織田信長が気に入って娘を差し出し(「嫁」という名の「人質」)、同盟を組みました。今川義元は、三河岡崎の松平竹千代(後の徳川家康)を人質に取りましたが、なかなか三河の壁が越えられません。(ようやく越えて5月8日に三河守に就任し、すぐに清洲へ向けて出陣しますが、11日後の5月19日、桶狭間で討ち死にしました。)
 「大うつけ」織田信長は、一応、織田弾正忠家の宗主ですが、家臣の中には「品行方正」織田信勝の方が宗主にふさわしいと考える者もいて、決戦「稲生の戦い」になるのですが、織田信長は、たった700人で織田信勝軍1700人を破り、「尾張国に織田信長あり」と名をあげました。(その後、「桶狭間の戦い」において、たった3000人で今川義元軍25000人を破り、「日本(ひのもと)に織田信長あり」と名をあげました。)

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