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視聴記録『麒麟がくる』第四回「尾張潜入指令」2020.2.9放送

 今川との戦いで尾張の信秀(高橋克典)は瀕死の重傷を負う。その知らせを受け、道三(本木雅弘)は、妻の治療を終え今度は尾張へ向かうという東庵(堺正章)に、天敵・信秀の容体を秘密裏に探るように命じ、その目付け役に任命される光秀(長谷川博己)。菊丸(岡村隆史)もお供に加わり、三人は尾張・古渡城へ潜入。信秀の情報をうまく聞き出すことに成功するが…。

<トリセツ>
織田軍×今川・松平軍 小豆坂の戦い

天文17年(1548年)。尾張から侵攻してきた織田氏と、三河側の今川氏・松平氏連合で繰り広げられた三河国・小豆坂での戦い。
三河の若君・竹千代(のちの家康)は、なぜ尾張の織田家にいるの?
このころ今川義元が絶頂のころで、三河の岡崎城主・松平広忠(竹千代の父)は織田信秀による三河進攻で今川氏へ加勢を乞うも、見返りに竹千代を人質として要求され、6歳になった嫡男・竹千代を駿府に送った。しかし、その途中で田原城の城主・戸田康光の裏切りによって織田側に引き渡されてしまったという。竹千代を手に入れた織田側は再三広忠を脅すが、広忠は今川への従属を貫き要求に応じなかったため、竹千代はそのまま尾張に留め置かれている。
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/4.html


◎美濃と尾張の国境の橋。


 稲葉山城(今の岐阜城)から古渡城(今の東別院)へ行くなら「北方の渡し」で、舟で国境(木曽川)を渡る。当時は、橋は無い。
 木曽川は東から西に流れ、北(右岸)が美濃国で、南(左岸)が尾張国。ドラマでは、北(右岸)の美濃国側に織田家の関所があり、関所を通って、木曽川を橋で渡っていた。
 ──ありえない。
「濃尾国境の木曽川を舟で渡ると、渡った先に織田方の関所がある」って設定でないとダメ。もちろん、関所には陣屋(取調室、牢屋など)があるし、渡し舟待ちの人を見込んだ民間の茶屋もあるはず。
 ちなみに、ロケ地は、茨城県つくばみらい市下小目の小貝川に架かる小目沼橋(おめぬまばし。下小目と平沼を結ぶ幅1.7m、長さは95mの木製橋)です。
※つくばみらい市観光協会「小目沼橋」
http://mirai-kankou.com/history/66


◎生薬「茜草根(せんそうこん)」

 茜草根は、アカネの根を秋に掘り起こして天日で十分に乾燥させた物で、珍しい物ではなく、どこにでもある。薬効は、止血、解熱、強壮、利尿、通経だといい、煎じて1日3回服用する。
 茜草根をポキッと折るだけで「薬は必要ない。もう助からないから」という意味だと悟るとは・・・袋に小豆を入れ、両側を紐で結んだ物を送られて意味が分かるくらい勘がいい。
 とはいえ、望月東庵は、正確に伝わるかどうか心配で、紙に書いて巾着に入れておいたようだから、折らなくてもよかったと思う。いずれにせよ、望月東庵は殺されそう。(「織田信秀は元気である」と嘘を教えたのであれば、殺されないだろうけどね。)

◎月と兎

 双六じゃないけれど、人生もツイてれば生き延びられる。
 名字の「望月」は「満月」の意味で、静岡県静岡市に多い。「東庵」の「東」とは駿府なのか?
 名字に「月」が含まれるので、衣装に月と兎が描かれているのだと思っていたが、制作者・加藤秀之氏(黒澤和子氏の息子さん)によれば、「博打好きなので月とツキを呼ぶ兎にしました」とのこと。
https://twitter.com/kandkbros/status/1207302271186305024
 兎は、「月の使い」「ツキを呼ぶ縁起のいい動物」とされている。ルナは黒猫だけど・・・セーラームーン。

◎岡村さんの正体

 岡村さんの正体は、松平氏に雇われた忍者みたいですね。足は村で1番早いし、明智光秀を助けた仲間も、的確に手に石を当てて痺れさせ、刀を落とさせていました。(剣道の「小手」ですね!)ネットでは、服部半蔵説も・・・。
 美濃国の伝承「狐女房」の続きに、狐との間に生まれた子の一族を「狐直」といい、「走疾如鳥飛」(走ると、疾き事、飛ぶ鳥の如し)とありますから、狐の子孫かと思いましたが、それなら名前は「狐」とか「猿」とかでは? 「菊丸」っていう立派な名は農民らしくない。作物の世話で土地から離れられない「農民」ではなく、あちこちへ行く「薬草売り」に見えるけどね。

※リーダーシップを発揮してる明智光秀に「見つかったらどうしますか?」って聞くのは、「慣れない忍者のマネしてるあなたのせいで、見つかったらどうしますか?」って意味でしょうね。「私に任せてくれれば、ミッションをクリアしますが、あなたが足手まといになりそうです」と言いたげです。(忍びに関しては俺の方が上で、俺をリーダーにすべきだが、兄弟関係では兄になれたから、まぁいいとするか。)

※竹千代については、岡村さんが「若君を人質に差し出し」と言っています。<トリセツ>の「田原城の城主・戸田康光の裏切りによって織田側に引き渡されてしまった」は旧説です。新説は、「竹千代が人質に差し出された天文16年、今川氏と織田氏の間で休戦協定が結ばれたようで、三河国を東から今川氏が東三河の戸田氏を、西から織田氏が西三河の松平氏を攻めており、攻め込まれた松平広忠が、織田信秀に、竹千代を差し出した」としています。戸田康光は竹千代の外祖父ですから、竹千代を売るようなことはしないでしょう。

◎竹千代の脱出劇の元ネタ?

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  今回のMVPは竹千代君ですね! めちゃくちゃ可愛い♡ 竹千代役は、ナレーター・11代目市川海老蔵 (堀越寶世)氏の子・堀越勸玄君がいいと思っていたけど、岩田琉聖君、いいねぇ♡

 脱出劇のネタは、「父親の墓参をしたい」という駿府人質時代の竹千代を、仙麟等膳が、篭に入れて背負って清水港まで運び、船で篠島へ運んで70日間様子をみた後、岡崎へ連れて行って、父親の墓参りをさせたという話でしょうか。
 篠島へ取材に行きましたが、「徳川家康の父・松平広忠が(竹千代を連れて?)、石橋五郎右衛門尉の尽力により、篠島の妙見斎(当時の住職は仙麟等膳)に半年間隠れ住んでいた」という伝承との混同かな? また、天正10年の「本能寺の変」後、伊賀越をした徳川家康が船で篠島へ来て、医徳院で1泊したと伝えられていますが、これは、「天正10年、徳川家康が篠島に来て、医徳院で武運長久の祈願を行った事」との混同のようです。
 そもそも、竹千代が岡崎に父親の墓参りのために岡崎へ帰ったのは史実で、それは、ちゃんと今川義元の許可を得ての話であり、大林寺には、竹千代が奉納したという「獅子ヶ石」(獅子頭のような形状の石)が墓の横に置かれています。

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◎干し柿

 明智光秀が「干し柿」(白い粉を噴いていますから、「あんぽ柿」ではなく「市田柿」)をあげたのは、「(渋柿も、干して、日がかわり、月がかわれば、味が変わる。甘くなる。それと同様に)日がかわり、月がかわれば、人の心も変わる」という意味で、もっくんが所属していた「シブがき隊」とは関係ないでしょう。(シブがきも、年がかわれば、アイドルから役者に変わる。)
 今は、「年がかわれば、人の心も変わる」時代ですが、戦国時代は、「日がかわり、月がかわれば、人の心も変わる」時代・・・心変わりが早すぎる。きついなぁ。まぁ、ここは「『熱田は嫌だ』と言うけれど、日がかわり、月がかわれば、(1年も経たない内に)『住めば都』で、『熱田は何不自由のない良い場所だ』と思えるようになるでしょう」「すぐに慣れますよ」程度の話でしょうけどね。
 徳川家康は、いつの日か明智光秀に再会した時、「あの時の干し柿は甘かった」と思い出話をすることでしょうね。さて、次に明智光秀が、徳川家康に会うのは、金ヶ崎城(「金ヶ崎の退き口」)かな? (その直前の熊川宿でかな?)

◎甘柿

 当時は、柿と言えば渋柿で、甘柿は珍しかった。竹千代が「甘い」と言ったのは、柿は渋いものだと思い込んでいたからかも?
 甘柿は、甘い実が生る突然変異の原木から数を増やしたもの。
・1214年、神奈川県川崎市で、世界最古の甘柿「禅師丸」発見
・14世紀、長野県下伊那郡高森町で干し柿に適した「市田柿」発見
・1844年、静岡県周智郡森町で「次郎柿」発見
・1857年、岐阜県瑞穂市で「富有柿」発見

【余談】『甲子夜話』「大猷廟、天海僧正へ柿を賜はる事」
 天海僧正は、神祖の御時より眷注を被りし長壽の人なり。一日、猷廟の御前にて柿を賜ふ。喫して其核を懷にするを御覽ぜられ、「僧正、何にするよ」と問はせられければ、「持ち帰りて植候」と答ふ。仰に「高年の人、無益のことに」とありければ、天海申すは、「一天四海を知しめさるゝ御方は、かゝる性急なる思し召し然るべからず。程無くこの柿の生立上覧に呈せん」迚(とて)、退出せり。年を経て、僧正、柿を多く器に盛りて献上す。猷廟、「いづくの產物ぞ」と御尋ねありしに、「左候。これは先年拝受せし柿核の生長して実となる所なり」と申し上げければ、上を始め奉り、その席に有合ふ諸人、歎服せざるは無りしとなり。
(天海は、家康の時から仕えた長寿の人である。ある日、家光に甘柿を頂いた。種を懐に入れるのを見た家光が「何をしている?」と聞くと、「(当時は甘柿は珍しかったので)持ち帰って植える」と答えた。「和尚は高齢であるから、実が生るまで待てまい」と言うと、天海は「天下人ともあろうお方が、物事を性急に判断されてはなりまん。何年か待てば実が生るでしょう」と言って退出した。何年か経って、天海は、甘柿を器に盛って献上した。(甘くて美味しいので、)家光が「どこで採れた甘柿だ?」と聞くと、「これは先年頂いた甘柿の種が生長してつけた実です」と言ったので、家光はじめ、その場にいた人は皆、感心した。)
 明智光秀は、徳川家康に「干し柿」(甘くなった渋柿)を食べさせて「(渋柿が甘くなるまで)待て」と悟し、天海は、徳川家光に種から柿を実らせて、待つことの重要性を教えた。これって、もしかして、明智光秀が天海になっちゃうパターン??

1.織田信秀


 尾張国には、守護も守護代もいたが、尾張国内で最も力があるのは、津島湊からの収益金で裕福な守護代奉行の織田信秀であった。(とはいえ、病死してしまい、守護や守護代を押しのけて戦国大名になったのは、嫡男・織田信長である。)
・尾張国の北隣は美濃国で、斎藤利政とは何度も戦っていた。
・尾張国の東隣は三河国で、竹千代(松平広忠の嫡男。後の徳川家康)を人質にとっていた。

・天文3年(1534年)5月、織田信長誕生。(生誕地については勝幡城説、那古野城説、古渡城説がある。)

・天文11年(1542年)、美濃国では、斎藤利政により、守護・土岐頼芸が尾張国へ亡命、土岐頼純が越前国へ追放された。尾張国の織田信秀は土岐頼芸を、越前国の朝倉孝景は土岐頼純を支援し、美濃国に向けて出陣し、斎藤利政と戦って大柿城(大垣城)を奪った。

・天文13年(1544年。ドラマでは天文16年)、織田信秀は、斎藤利政の居城・稲葉山城を攻撃し城下まで攻め込んだが、斎藤利政の反撃を受けて大敗した(「加納口の戦い」)。

・天文16年(1547年)9月、織田信秀は、三河国の松平広忠の岡崎城を攻め落とし、松平広忠を降伏させ、松平広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)が織田家の人質になった。

・天文17年(1548年)、織田一族の犬山城主・織田信清と楽田城主・織田寛貞が謀反を起こしたが、織田信秀は、これを鎮圧して従属させた。
 この年、斎藤利政が松平広忠に働きかけて挙兵させ、自身も大柿城奪還のため、大柿城に攻めよせたので、織田信秀は救援のために大柿城に出陣するが、その留守中に、織田信友が古渡城を攻め、大柿城は、斎藤利政に奪還された。
 さらに、織田信秀は、今川義元の軍師・太原雪斎率いる今川軍と小豆坂で戦い、敗北した。このように、織田信秀は、国内で織田一族に背かれ、近隣の今川、松平、斎藤氏に押され、負け戦が続いたので、打開策として斎藤氏と和睦し、和睦条件として、信長と濃姫との婚約が決まり、翌・天文18年(1549年)2月に結婚した。帰蝶・・・12歳で土岐頼純(23歳)と政略結婚させられ、13歳で土岐頼純(24歳)が急死すると、15歳で織田信長(16歳)と再び政略結婚させられるという波乱万丈の人生・・・とはいえ、『信長公記』には、織田信長との再婚の記事があるだけで、織田信長の正室であるのに、後にも先にもこの記事しか無い。1回だけの登場・・・謎。

・天文18年(1549年)、今川軍は、織田方の西三河支配の拠点・安祥城を何度も攻め、遂に落とし、城主・織田信広を生け捕り、竹千代と人質交換を笠寺で行った。こうして織田氏は、三河での勢力を失い、三河国は今川氏のものとなった。
 この年から織田信秀は、病で臥せるようになり、天文21年(1552年)3月3日、末森城で死去したという。享年42。ただ、「わしの死を3年隠せ」と遺言しており、実は3年前に死んでいたとも言われ、没年には、
・天文18年(1549年)説
・天文20年(1551年)説
・天文21年(1552年)3月3日説(通説)
・天文21年(1552年)3月9日説
がある。
 「天文18年死亡説」では、この「わしの死を3年隠せ」という遺言を守り、3年後の天文21年に葬儀を行ったという。この天文21年の葬儀では、「織田信長が普段着で現れ、抹香を位牌に投げかけた」という話がある。
 「天文20年死亡説」では、織田信秀は、遺言通り、天文23年に葬儀を行おうとしていたが、生母・土田御前が、織田信勝に跡を継がせようとし、そのお披露目として、翌・天文21年、織田信長に内緒で2回忌をしたという。鷹狩(一説に川遊び)をしていた織田信長は、この事を知ると、着替えることなく、菩提寺・ 萬松寺へ直行し、母に向かって抹香を投げつけたという。

2.竹千代(後の徳川家康)の居場所


 ドラマの竹千代は、織田信秀の居城・古渡城にいて、「今から熱田へ連れて行かれる」と言っていたが、史実は「最初から熱田加藤屋敷。後に天王坊」で、古渡城にはいなかったという。

 この「天王坊」は日本史上に3度は登場する。

①吉法師(後の織田信長)は、天王坊で勉強していた。
②竹千代は天王坊に軟禁された。(そして吉法師と出会った。)
③尾張国守護・斯波義統が清州城で討たれると、嫡男・岩竜丸(後の斯波義銀。織田信長の家臣となって津川義近と改名)は、那古野城の織田信長に助けを求めた。織田信長は、岩竜丸を天王坊に匿った。

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 この「天王坊」を「「天王社」の誤りであり、津島牛頭天王社(愛知県津島市の津島神社)こと」とされる学者がおられるが、そうではないだろう。

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