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「本能寺の変」直後の明智光秀と徳川家康

1.「本能寺の変」直後の明智光秀

「本能寺の変」後、明智光秀は、京都妙心寺へ行って自害しようとしたが、斎藤利三(『明智軍記』では複数の家臣)に止められて山崎合戦となった。

※明智家の菩提寺は岐阜県可児市瀬田にあったというが、焼失し、現在は墓石等が運び込まれた曹洞宗の青雲山天龍寺(岐阜県可児市瀬田)が菩提寺とされる。日本一大きな明智光秀の位牌がある。

妙心寺:臨済宗妙心寺派の大本山。光秀の叔父にあたる密宗和尚(塔頭・大嶺院の院主)がいて、「明智風呂」、明智光秀の位牌がある。京都府京都市右京区花園妙心寺町。

『明智軍記』
明智日向守光秀は、6月2日に信長公御父子を安々と討ち亡ぼし、積鬱、既に散じければ、其の夜は菩提寺成りける洛外妙心寺に打ち入りて「光秀、今は世上に思ひ置く事なし」とて、何の儀やらん、自筆にて一連の句を書けるを、給仕せし小僧、密かに見て、「是は辞世の頌にや有らん」と思ひて、此の旨を比田帯刀、三宅式部に語りしかば、両臣、明智左馬助、藤田伝五、並河掃部助方へも此の旨を申し遣し、偖、急ぎ光秀の前へ伺候して、様子を見合わせ申しけるは、(後略)

2.「本能寺の変」直後の徳川家康

「本能寺の変」後、徳川家康は、京都知恩院へ行って自害(殉死)しようとしたが、本多忠勝に止められて伊賀越えとなった。

※松平家の京都の菩提寺は知恩院で、現在の岡崎の菩提寺は江戸時代に菩提寺として整備された浄土宗の成道山松安院大樹寺(愛知県岡崎市鴨田町広元)である。

知恩院:正式名を華頂山知恩教院大谷寺という、浄土宗の総本山。京都府京都市東山区林下町。

※江戸幕府公式記録『徳川実紀』「東照宮御実記」(巻4)
 天正十年五月織田殿の勧めにより京に上らせたまひ、やがて堺の地御遊覧終り、既に御帰洛あらんとせしに、茶屋四郎次郎清延たゞ一騎来り。飯森の辺にて本多平八郎忠勝に行あひ、昨夜本能寺にて織田殿の御事ありし様つばらに語り、忠勝四郎次郎とゝもに引返し、御前に出てこのよし申す。
 君聞しめし、おどろかせ給ひ。「今、この微勢もて光秀を誅せん事かたし。早く京に帰り知恩院に入り、腹切て右府と死を同じうせん」とて、御馬の首を京のかたへむけられ、半里ばかりゆかせ給ふ所に、忠勝又馬を引返し、酒井忠次、石川数正、榊原康政等にむかひ、「若年の者の申事ながら、君、御帰京有て、無益の死を遂られんよりは、速に本国にかへらせ給ひ、御勢をかり催し、明智を誅伐したまはんこそ右府へ報恩の第一なれ」といへば(後略)

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