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『信長公記』「首巻」を読む 第40話「家康公岡崎の御城へ御引取りの事」

第40話「家康公岡崎の御城へ御引取りの事」

一、家康は、岡崎の城へ楯籠り、御居城なり。

一、翌年四月上旬、三州梅ヶ坪の城へ御手遣り推し詰め、麦苗薙ぎせられ、然して、究竟の射手ども罷り出で、きびしく相支へ、足軽合戦にて、前野長兵衛討死候。爰にて平井久右衛門よき矢を仕り、城中より褒美いたし、矢を送り、信長も御感なされ、豹の皮の大うつぼ、蘆毛の御馬下され、面日の至りなり。野陣を懸けさせられ、是れより高橋郡一御働き、端々放火し、推し詰め、麦苗薙ぎせられ、爰にても矢軍あり、加治屋村焼き払ひ、野陣を懸けられ、翌日、いぼの城、是れ叉、御手遣はし、麦苗薙ぎせられ、直ちに矢久佐の城へ御手遣はし、麦苗薙ぎせられ、御帰陣。

【現代語訳】

一、永禄3年(1560)5月19日、「桶狭間の戦い」で今川義元が討たれると、今川方の松平元康(後の徳川家康)は、今川方から独立して元・岡崎城へ立て籠もって居城とした。

※この後、織田信長、松平元康、水野信元の3人は、尾張・三河国境付近で、領地争いを始めた。これを今川義元の子・今川氏真は、「松平元康は今川氏のために戦っている」と勘違いしていたという。

一、翌・永禄4年(1561年)4月3日、織田信長は、三河国西加茂郡梅ヶ坪村の梅ヶ坪城(城主:三宅師貞。愛知県豊田市梅坪町7丁目)へ攻め込み、麦苗を薙ぎ払った。ところが、屈強の射手たちが出てきて弓矢合戦となって懸命に応戦し、足軽合戦となると、前野義高が討死した。
 この「梅ヶ坪城攻め」では、平井久右衛門が巧みに矢を射たので、梅ヶ坪城の城中でも称賛されて、射込んだ矢が返されたという。織田信長も称賛して、豹の皮の大きな靭(うつぼ。矢を入れる道具)、芦毛(灰色)の白馬を贈った。名誉の至りであった。
 織田信長は、野営して、翌・4月4日、三河国西加茂郡高橋村(愛知県豊田市高橋町)を攻めた。端々から放火し、攻め寄せ、麦を薙ぎ払いった。ここでも弓矢合戦があった。
 三河国西加茂郡金谷村を焼き払い、また野営をして、翌・4月5日、三宅一族の居城・伊保城(愛知県豊田市保見町御山前)を攻め、麦苗を薙ぎ払うとすぐに三宅一族の居城・八草城(愛知県豊田市八草町中切~森下)を攻め、麦苗を薙ぎ払って清州城へ帰城した。

【解説】

 織田信長と徳川家康が清州同盟を結ぶ永禄5年(1562年)以前の話である。「桶狭間の戦い後の話」としたのは、この話が「桶狭間の戦い」の話の後に置かれているからである。史実は、「桶狭間の戦いの前の話」だとする異説もある。

 この織田信長の一連の軍事行動に松平元康は動かなかった。織田信長の攻撃が電光石火で素早くて対応できなかったからか、三宅一族を倒す手間が省けたと喜んだからか・・・これが通説通り、永禄4年(1561年)4月の話であれば、この時、松平元康は東三河(三河の東端)を攻めていたので、「この隙きに西三河(三河の西端)を攻めよう」ということになったのであろう。

 ──平井久右衛門よき矢を仕り、城中より褒美いたし、矢を送り、信長も御感なされ

多分、射た矢が名だたる武将Aに当たって「これがAを討ち取った矢です」と送ってきたので、織田信長は、「Aを倒したのか。でかした!」と称賛したのであろう。(野球で言えば、敵チームの応援団がいる外野スタンドにホームランを打ち込んだら、敵チームの応援団がホームランボールを「記念にどうぞ」と送ってきたようなものか。)

この「梅ヶ坪城攻め」では、「桶狭間の戦い」で戦功を上げた佐々政次(「弟や息子を頼む」と織田信長に言って討死)の弟・成政が戦功をあげ、8000貫文という異例の報奨を受けていることを考えても、「梅ヶ坪城攻め」は「桶狭間の戦い」の後の話であろう。

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