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『信長公記』「首巻」を読む 第20話「織田喜六郎殿頓死の事」

第20話「織田喜六郎殿頓死の事」

一、六月廿六日、守山の城主織田孫十郎殿、龍泉寺の下、松川渡しにて、若侍ども川狩に打ち入りて居ますところを、勘十郎殿御舎弟・喜六郎殿、馬一騎にて御通り候ところを、「馬鹿者、乗り打ちを仕り候」と申し候洲賀才蔵と申す者、弓を追つ取り、矢を射懸け候へぱ、時刻到来して、其の矢にあたり一馬上より落させ賜ふ。
 孫十郎殿を初めとして、川よりあかりて、是れを御覧ずれば、上総介殿御舎弟・喜六郎殿なり。御歳の齢十五、六にして、御膚は白粉の如く、たんくわのくちびる、柔和のすがた、容顔美麗、人にすぐれていつくしきとも、中々たとへにも及び難き御方様なり。各是れを見て充と肝を消す。孫十郎殿は取る物も取り敢へず、居城守山の城へは御出でなく、直ちに捨て鞭を打って、何くともなく逃げ去り給ひ、数ケ年御牢人、難儀せられ候なり。則ち、舎兄勘十郎殿、此の事聞こし食し、末盛の城より、守山へ懸け付け、町に火を懸け、生か城になされ、 

一、上総介信長も清洲より三里一騎がけに一時に懸けさせられ、守山入り口矢田川にて御馬の口を洗はせられ候ところ、犬飼内蔵来なり候て言上、孫十郎は直ちに何くとも知らず懸け落ち候て、城には誰も御座なく候。町は悉く勘十郎殿放火なされ候と申し上げ候。爰にて信長御諚には、我々の弟などという物が、人をめしつれ候はで、一僕のものゝ如く、馬一騎にて懸まわりし事、沙汰の鍵値比輿なる仕立なり。譬え在生に候共、向後御許容なされ間敷く仰せられ、是より清洲へ御帰り。

 さる程に、信長は、朝夕御馬をせめさせられ候間、今度も上下あらくめし候へども、こたへ候へども。こたへ候て苦しからず候。余仁の馬どもは飼つめ候て、常に乗ること稀なに依つて、究竟の名馬ども、三里の片道をさへ運びかね、息を仕り候て、途中にて、山田次郎左衛門馬を初めとして、損死候て、迷惑せられ候。

【現代語訳】

一、天文24年6月25日、(織田信友の死後、深田城主から)守山城主になった織田孫十郎信次(織田信長の叔父)は、龍泉寺がある山の麓を流れる庄内川の「松川渡し」で、若侍たちと川狩(川漁)をしていると、織田勘十郎信勝の弟・喜六郎秀孝が、馬に乗って一人で通ると、「馬鹿者(無礼者)が城主様の前を、下馬しないで騎馬で通り過ぎおって」と言って、洲賀才蔵という者が、弓を取り、矢を射ると、時刻到来して(運悪く)、その矢に当たり、落馬した。
 織田孫十郎信次をはじめとして、皆、川から上がって、矢が当たって落馬した人を見ると、織田信長の弟・喜六郎秀孝であった。15、6歳で、肌は白粉(おしろい)を塗ったように白く、「丹花の唇」(紅い唇)に柔和な姿と容顔美麗、他の人より優れて麗しく、なかなか例えようにも例えられない美少年であった。皆、織田秀孝を見て、充(あつ)と肝を消した(潰した)。織田孫十郎信次は、取る物も取り敢えず、居城・守山城へは帰城せず、直ちに「捨て鞭」(馬に乗って駆ける時に、速く駆けさせるために馬の尻を鞭打つ最初の一発)を打って、どこへともなく逃げ去り、その後、数年間、浪人して、苦労した。それで、兄・勘十郎信勝(末盛城主)は、この事を聞いて、居城・末盛城から守山城に向けて出陣し、城下町に火を放ち、「はだか城」(城の周囲に何もない状態)にした。 

一、織田信長(清洲城主)も、居城・清洲城から3里(12km)を一気に一騎で駆け、守山の出入り口を流れる矢田川で、馬に水を飲ませて(家臣の到着を待っていたが)、犬飼内蔵という物が来て言うには、「守山城主・織田孫十郎信次は、事件直後にどこかへ馬で逃げ、守山城には誰もいない。城下町は、悉く、織田勘十郎秀勝が焼いた」という。それを聞いて織田信長が言うには「我々(信長・信勝)の弟という立場の人間が、従者も連れずに、「一僕の者」(下僕)のように、馬の乗って1人で駆け回るというのは、沙汰の限り「比輿なる仕立」(呆れた所業)である。たとえ生きていても、今後とも許しはしない」と言って、清州城に帰城した。

(領主の身内が1人でいれば、今回のように不慮の事故に遭う危険があるし、さらわれて人質にされることもある。一騎駆けは許されないことだけど、それをあなたが言う? 現にこうして一騎駆けしてるじゃない? と言い返したくなるが、織田信長は一騎駆けしていない。家臣と一緒に清州城を出たのであるが、織田信長に家臣が追いつけないのである。)

 この頃、織田信長は、毎日、朝夕に乗馬の訓練をしていたので、今回、往復共に荒っぽく乗ったが、馬は、耐えることができた。とことが、家臣たちは、馬に食べ物を与えて太らせるだけで、常に馬に乗っていなかったので、屈強の名馬でも、領内の守山城への3里(12km)の片道ですら走れきれず、途中でへばってしまったのである。息があがってしまい、途中で、山田次郎左衛門の馬のように死んでしまった馬もいて、(新たに購入して、最初から調教しなければいけないという)大変に困った事態になった。

【解説】

  織田信秀┬織田①信広(三郎五郎):側室の子
      ├織田②秀俊(信時、喜蔵):側室の子
      ├織田③信長(三郎、上総介):清洲城主
      ├織田④信勝(信行、勘十郎):末盛城主
      ├織田⑤信包(信良三十郎)
      ├織田⑥信治(九郎)
      ├織田⑦信與(彦七郎)
      ├織田⑧秀孝(喜六郎)
      ├織田⑨秀成(半左衛門)
      ├織田⑩信照(織田中根(養子)、織田越中)
      ├織田⑪長益(源五郎、有楽斎)
      └織田⑫長利(又十郎)

分かっているようで分からない話である。

①織田秀孝が1人で馬に乗っていた。
②織田信次の家臣・洲賀才蔵が「無礼者!」と射殺した。
③守山城主・織田信次はその場から立ち去った。
④末森城主・織田信勝は、家臣・柴田勝家に守山城下を焼かせた。
⑤清洲城主・織田信長は、犬飼内蔵の話を聞くと、激怒して帰城した。
⑥領主であるはずの那古野城主・織田信光が登場しない。

 ①については、⑤で、織田信長は、「大うつけ」と言わんばかりに織田秀孝の行為を批判し、「生きていても未来永劫許さない」と激怒している。
 ②川漁(川を堰き止めて魚を捕る)していたら、堤防上を騎馬のまま通り過ぎる武将がいたので「領主の前を・・・無礼者・・・」と岸へ上り、置いてあった弓を取って射たという。弓が置いてあった河原から堤防までの距離はさほど無く、その武士が織田秀孝であることは分かったろうし、分からなくても、堤防をかけのぼって注意するであろう。いきなり射るとは・・・。
 なお他本では、「織田秀孝が来たので、驚かしてやろうと、射たら、当たってしまった」とある。織田秀孝は、普段からそのように遊ばれる(いじめられる?)人物だったのだろうか。(知恵遅れのように描かれる場合もある。)
 ③なぜ逃げた? 卑怯であろう。川猟を中止し、すぐに守山城へ戻って、家老衆と今後の対応を協議するのが「普通の城主」であろう。切腹せずに逃げ、後に織田信長が許していることを考えると・・・いや、深読みは控えよう。
 ④末森城主・織田信勝は出陣せず、代わりに家臣・柴田勝家を派遣して、守山城下を焼かせた。そもそも身内の失態であるから、「出陣」は大げさである。清洲城主・織田信長、あるいは、那古野城主・織田信光が使者団を守山城へ送って、「織田信次と洲賀才蔵を引き渡せ」と言わせ、清洲城か那古野城へ連行するだけの話である。城下町を焼いてしまうとは・・・住民にはいい迷惑である。織田信勝は短絡思考で、領主には不向きに思われる。
 他の本では、織田信長が守山城下まで行くと、柴田勝家が城下を焼いていたので、やめさせたとある。(織田信長は、声が大きいことで有名で、大声で下知されると、ついつい従ってしまうという。)
 ⑤とにかく、織田信長は、(織田信勝とは正反対で、)守山城主・織田信次や守山城の城兵の肩を持ち、殺された織田秀孝を不自然な程に批判する。
 ⑥清州城を落とした時、「織田信長は清州城に入って河西、織田信光は那古野城に入って河東を領する」と約束したはずで、守山城は河東であるから、織田信長ではなく、領主・織田信光が登場しないといけない。そもそも、織田信光は、守護代・織田信友を切腹させた4月20日までは守山城主だった人物なので、城兵のことはよく知っている。
 城下町を焼かれた守山城の城兵は、「これは戦(いくさ)だ」と認知したのか、守山城に籠城した。城兵を宥め、新城主を決めるのは、織田信光の役目であろう。元守山城主・織田信光は、この織田秀孝事件(6月26日)の5ヶ月後の11月26日に、那古野城で家臣・坂井孫八郎に討たれるが、5ヶ月もあれば、守山城問題の処理は出来たはずである。

分かっているようで分からない話である。裏があるように思えてしまうのは、私だけだろうか?

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