見出し画像

『信長公記』「首巻」を読む 第44話「二宮山御こしあるべぎの事」

第44話「二宮山御こしあるべぎの事」

一、上総介信長奇特なる御巧みこれあり。
 清洲と云ふ所は国中、真中にて、富貴の地なり。或る時、御内衆悉く召し列ねられ、山中、高山、二の宮山へ御あがりなされ、「此の山にて御要害仰せ付けられ候はん」と上意にて、「皆々、家宅引き越し候へ」と御諚候て、「爰の嶺、かしこの谷合を、誰々こしらへ候へ」と、御屋敷下され、其の日御帰り、又、急ぎ御出であつて、弥、右の趣御諚候。「此の山中へ清洲の家宅引き越すべき事、難儀の仕合せなり」と、上下迷惑、大形ならず。
 左候ところ、後に「小牧山へ御越し候はん」と仰せ出だされ候。小真木山へは、ふもとまで川つゞきにて、資財雑具取り候に自由の地にて候なり。焜と悦んで罷り越し候ひしなり。是れも始めより仰せ出だされ候はゞ、爰も迷惑同前たるべし。
 小真木山、並びに、御敵城お久地と申し候て、廿町計り隔てこれある御要害、ひたひたと出来候を、見申し候て、御城下の事に候へば、拘へ難く存知、渡し進上候て、御敵城犬山へ一城に楯籠もり候なり。

【現代語訳】

一、織田上総介信長は「尾張国首都移転構想」を持っていた。
 清洲という所は尾張国の真中で、豊穣の地であった。(しかし、当時の状況を考えると、濃尾平野の真ん中よりも、山の上に城があった方が良いと思われた。)
 ある時、織田信長は、身内衆を全員同行させて、山中の高山、二の宮山(愛知県犬山市)に登り、「この山に居城を築く」と命令し、さらに、「皆の者も屋敷を移せ」と命令して、「ここの峰に誰それ、あそこの谷に誰それ、屋敷を建てよ」と屋敷地の割り振りをした。その日は清洲城へ帰り、また、出かけて、いよいよ、同じ事を命令した。「この山中へ清洲の屋敷を移すのは難儀なことだ」と、身分の上下に関係なく、皆が皆、大いに迷惑した。
 そうしたところ、織田信長は、「小牧山へ移そう」と言い出した。小牧山であれば、麓まで川続きなので、家財道具を運ぶのに便利であった。それで、わっと喜んで永禄6年(1563年)に移転した。(織田信長の作戦だったのだろうか?)最初から「小牧山へ」と言っていたら皆、嫌がったであろうが、「二宮山へ」と言った後で「小牧山へ」と言ったので、「二宮山よりましだ」と、皆、喜んで移ったのである。
 小牧山城(愛知県小牧市堀の内1丁目)の約20町(2.2km)先に敵城(犬山城の支城)・小口城(愛知県丹羽郡大口町城屋敷1丁目)があった。敵は、小牧山城が着々と築かれていく様子を見て、「城下の事」(常に小牧山城から見下され、監視されている)であるから、守りきれないと判断し、小口城を明け渡して、敵城・犬山城(愛知県犬山市大字犬山北古券)へ退却して引き篭もった。

【解説】

《尾張国の神社》
総社
:尾張大国霊神社 (愛知県稲沢市国府宮)
一宮:真清田神社 (愛知県一宮市真清田)
二宮:大縣神社 (愛知県犬山市宮山)
三宮:熱田神宮 (愛知県名古屋市熱田区神宮)

《織田信長の居城》
勝幡城(1歳~)
  ↓ ・織田信長は勝幡城で生まれたという。
那古野城(1歳~)
  丨・生まれてすぐに那古野城に移されたという。
   ↓ ・一説に、那古野城で生まれたという。
清洲城(22歳~)
   ↓ ・尾張国を統一する。
小牧山城(30歳~)
   ↓ ・清洲越し
岐阜城(34歳~)
   ↓ ・斎藤龍興から奪い、「井ノ口」を「岐阜」と改名
安土城 (43歳~)
   ・天下人を目指す。

画像1

小牧山城:4年間しか使われなかったので、「美濃国攻略のための簡易的な砦」と考えられてきましたが、『信長公記』の記述や、発掘調査から、「清洲から小牧への尾張国首都移転構想」の産物であることが判明しました。上のイラストは「永禄期小牧山城推定想像図」(小牧市教育委員会制作『小牧山城』より)です。
 

あなたのサポートがあれば、未来は頑張れる!