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視聴記録『麒麟がくる』第34回「焼討ちの代償」2020.11.29放送

<あらすじ>

残虐極まりない比叡山の焼き討ちを目の当たりにした摂津晴門(片岡鶴太郎)は、将軍・義昭(滝藤賢一)にもう信長(染谷将太)と手を切るべきだと進言。大和の松永(吉田鋼太郎)と筒井順慶(駿河太郎)の内戦に加わり、筒井側につくことで、信長の後ろ盾のある松永と対立しその立場を表明すべしと迫るのだった。光秀(長谷川博己)は、娘の治療で訪れた東庵(堺 正章)の診療所で、駒(門脇 麦)から、義昭は筒井に味方し信長から離れることを決めたと聞かされる。恐ろしい代理戦争の計画を回避すべく、じかに松永と筒井を引き合わせる和平工作を画策するが…。

<トリセツ>

松永久秀と筒井順慶の因果関係とは?
元々大和の興福寺の衆徒だった筒井家の若き当主・順慶は、大和一国をほぼ掌握した父・順昭が28歳で亡くなり、天文19年(1550年)に2歳で家督を継ぎました。当時、中央政権を掌握していた三好長慶の重臣・松永久秀が、永禄2年(1559年)に大和へ侵攻。順慶が15歳となった永禄7年(1564年)に後ろ盾だった叔父・順政が死去し、これを機に松永が一気に侵攻を強め、永禄9年(1566年)に大和を平定。順慶は国を追われます。以後、順慶は三好三人衆と手を組み、松永は織田信長の助力を得て、大和の覇権争いの戦が続いていました。

平吉が、駒に残した8文はいくら?
<比叡山の戦い>に巻き込まれた少年・平吉は、丸薬「芳仁丸」の代金の一部として8文を駒に残しました。
現代の価値に換算すると、1文=約150円。8文はおよそ1200円となります。
平吉は駒に、丸薬500粒の代金は「売った分から渡す」と約束していました。しかし、平吉が約束を守ってくれたことがわかると同時に、平吉の死を知ることとなりました。

<紀行>

松永久秀が平定したあとも争いが絶えなかった大和国(やまとのくに)。筒井順慶(つついじゅんけい)は久秀と対立した武将の一人です。元は興福寺一乗院に属する僧兵をまとめていた筒井氏。順慶の父の代で飛躍を見せ、大和最大の武士団に成長しました。

筒井氏は大和郡山市に築いた平城(ひらじろ)・筒井城を拠点としました。現在は住宅が立ち並ぶこの地には、井戸の跡や、順慶が築いた堤が残されています。

城の中枢部に位置する菅田比賣(すがたひめ)神社。境内に祭られている八幡神社は、当時から位置を変えずに鎮座していると考えられています。

筒井城はたびたび久秀との戦いの舞台となりました。数年にわたる攻防の末、順慶は久秀から筒井城を奪還し、大和統一を目指したのです。

★戦国・小和田チャンネル「麒麟がくる」第34回「焼討ちの代償」
https://www.youtube.com/watch?v=77Zm6w2dR_Q

《筒井順慶略歴》

永禄元年(1558年)11月19日 遊佐長教の娘と結婚。
元亀2年(1571年)6月11日  足利義昭の養女と結婚。
元亀2年(1571年)8月4日  「辰市城の戦い」。松永久秀を破る。
元亀2年(1571年)9月12日   「比叡山焼き討ち」
元亀2年(1571年)10月25日   明智光秀の仲介で織田信長に臣従。
元亀2年(1571年)11月1日  明智光秀らの仲介で、松永久秀と和睦。
天正3年(1575年)2月27日  織田信長の養女(明智光秀の娘?)と結婚。
天正4年(1576年)5月10日  第2代大和国守護に織田信長から任じられる。
天正5年(1577年)10月10日   松永久秀父子、信貴山城で自害。

《筒井順慶の妻一覧》

妻①遊佐長教の娘
妻②九条家女・多加姫:「九条殿の息女」(『多聞院日記』)
妻③五条家女:「一条殿の内、五条と申す者の娘」(『尋憲記』)
妻④織田信長の養女:実父は明智光秀か?
妻⑤布施春行の娘・松:筒井順慶の子と考えられる筒井順正の母

『多聞院日記』「元亀2年(1571年)6月12日条」
一昨夕、従公方様、九条殿の息女を為養子筒井順慶へ祝言在之。
『尋憲記』「元亀2年(1571年)6月19日条」
一筒井へ祝言は、一条殿の内五条と申者むすめの由也。

 足利義昭の側近・摂津晴門は、天台座主・覚恕と組み、織田信長を追い出して武田信玄を迎え入れようとしていたが、足利義昭は自分を上洛させてくれた恩人の織田信長を切れないでいた。

 元亀2年(1571年)、足利義昭は、養女(妻②とも妻③とも)と筒井順慶を結婚させ、筒井順慶を味方に引き込んだ。これに怒った松永久秀は、政所執事・摂津晴門の思惑通り、将軍・足利義昭から離反した。

 筒井順慶と松永久秀が戦いを始めれば、足利義昭は娘婿の筒井順慶を支持し、織田信長は、(筒井順慶はまだ織田信長の家臣になっていないので)家臣・松永久秀を支持する。

  筒井順慶(+足利義昭) vs 松永久秀(+織田信長)

 政所執事・摂津晴門が将軍・足利義昭に言うには、こういう構図になり、恩人である織田信長を幕府への反逆者として討つことが出来るというのである。

 この話を聞いて困った人が2人いた。
 1人は筒井順慶である。尊敬する織田信長の家臣になるために、織田信長と手を組む幕府にも近づいたのであるが、これでは織田信長の家臣になれない。
 もう1人は主人公の明智光秀である。明智光秀は何としても筒井順慶と松永久秀との戦い、足利義昭と織田信長の代理戦争を避けようとした。「足利義昭が天下を憂い、織田信長がバックアップする」という、上洛以来の構図を崩したくないのである。

★筒井順慶なる人物
https://note.com/senmi/n/n5a9ee2b948da

 明智光秀は、直接、松永久秀と筒井順慶を堺で引き合わせることにした。
 松永久秀は、どうしようかと迷い、易(占い)をしていた。そして、筒井順慶に茶器を見せると、筒井順慶は、
「大文字屋宗観(疋田宗観)が持っていた『初花』には遠く及ばない」
と言った。その鑑定眼を松永久秀は「敵ながら天晴」と認め、明智光秀に「今回は、近江をくれるというお主の顔を立てて、休戦する」と約束した。

 ──松永久秀も、筒井順慶も大物であった。

※この会見では、松永久秀も、筒井順慶も従者は下がらせたものの、刀を持ったままという一触即発状態で、万が一を避けて、駒は今井宗久と共に、先に茶室に入っていた。
※明智光秀は、近江を欲しかったでしょうか? 近江へ行ったら、領民に石を投げられるのでは?
※「比叡山の焼き討ち」では、全堂宇が焼けなかったといいますが、焼け残った堂宇は解体されて、坂本城の建築資材にされたので、「全部が消えた(消失)」という意味では、「全焼(焼失)」と同じ?

 明智光秀が事の顛末を織田信長に告げると、意外にも、
「松永久秀と筒井順慶が戦ったら、筒井順慶側に付くつもりだった」
と言った。驚く明智光秀に織田信長は、
「将軍の味方をするのは当然だ」
ではなく、
「天皇が困るから」
と言った。
 さらに、「比叡山焼き討ちを天皇が褒めてくれた」と言う。

 その正親町天皇であるが、望月東庵と囲碁をしながら、
「朕が織田信長を使って、『都は自分のものだ』と言う覚恕を追い出そうととしたという噂がある」
と言うと、望月東庵は「迷惑な嘘だ」と答えた。しかい、正親町天皇は、「100%嘘ではない」
と言って望月東庵を驚かせると、さらに、
「織田信長が褒めてもらいたいようだったので、褒めてやった」
と言ったので、望月東庵はさらに驚いた。ただ、
「むごい戦であった」(覚恕を追い出せばOKなのに、女、子供まで…)
とは、付け加えた。

 ──織田信長は摂津晴門や明智光秀の想像の上をいき、正親町天皇は望月東庵の想像の上をいく。2人共凄い!

 いずれにせよ、織田信長は正親町天皇に近づいてきており、足利義昭とは離れてきている。そして、明智光秀は、今回の「比叡山焼き討ち」には納得していない。足利幕府再興メンバーの心が離れ始めている。

 松永久秀は、「信長殿は何でも壊す。公方さまは古きもの、仏、家柄を守ろうとする。相容れぬ2人は、いずれ袂を分かつ。そして、明智光秀と織田信長の根は1つ。いずれ明智光秀は織田信長について足利義昭とは袂を分かつ」と予言した。(まさか、その事を占っていた?)

 今回のドラマの脚本で不思議なのは、まずは、
・京都の人々が、比叡山の焼き討ちを明智光秀の仕業だと知っていたこと。
(織田信長の仕業だとは知っていたと思うが。明智光秀が女、子供を助けたことを知らない?)
・たまの事を明智光秀の子だと知っていて、大の大人が石をぶつけたこと。
(子供同士のいじめとか、口喧嘩なら分かるが・・・。しかも頭を狙って凄いコントロール。前の人が邪魔にならなかった?)
である。
さらに不思議なのは、
・明智光秀が望月東庵の医院まで走って行ったのに息を切らしてないこと。
(私なら心配で、心配で、煕子も乗せて馬で駆けつけるけどね。)
そして、
・明智光秀がたまを見た瞬間に安心する所。
(私ならたまに駆け寄って「大丈夫か? 痛くないか?」と聞くし、すぐに振り返って望月東庵に「傷の程度は?」と聞いて、ようやく落ち着くよ。)
 私が脚本家なら、「玉に瑕」だとか、「負傷者・たまにお手玉をさせる」という洒落は避けたい。この事件を取り上げたのは、ストーリー上は「明智光秀を駒に会わせて代理戦争の情報を聞かせるため」だけど、タイトルの「焼討ちの代償」(明智光秀は近江国坂本周辺を得たが、たまは石を受けて傷ついた)に連携させて深読みすれば、「比叡山で子供を殺された親(転売少年・平吉らの親?)が、(明智光秀が女、子供を逃したということを知らずに)同じ様な年齢のたまを狙った」となるでしょう。タリオ「目には目を、歯には歯を、子には子を」(『ハンムラビ法典』)。冷静なたまは、「頭は傷ついてもよいが、目が見えなくなると困る」と咄嗟に手で目を覆う。そして泣かない。これはもう、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさい」(『新約聖書』「マタイによる福音書」第5章)の境地に近い。先に私は、「望月医院に着いた明智光秀が、感情をむき出しにして、たまに駆け寄らなかったのが変だ」と書いたが、それ以上に「父の顔を見てほっとして箍が外れ、泣きながら父に駆け寄らないたま」の方が父親以上に変である。話す言葉も大人な内容だし、聖女のようだ。(ところで、残り10回ですが、たまは、いつ芦田愛菜ちゃんに替わるのだろう?)

 史実は、明智光秀と与力の筒井順慶、佐久間信盛と与力の松永久秀の四者会談で和睦が決まったというが・・・。このドラマでは、明智光秀、筒井順慶、松永久秀の三者会談で、仲介者の明智光秀ではなく、当事者の松永久秀がイニシアティブをとっているように見えた。(松永久秀は既に将軍・足利義昭から離れており、その結果、松永久秀の家臣の一部(将軍・足利義昭贔屓のメンバー)は、松永久秀を離れ、将軍・足利義昭についた筒井順慶についている。その結果、9月12日の「比叡山焼き討ち」の1ヶ月前の8月4日の「辰市城の戦い」で、筒井順慶は、松永久秀を破っている。つまり、現時点では筒井順慶がマウントをとっている。)
 また、このドラマでは、鉄砲を融通する引き換えに、「筒井順慶を駒が足利義昭に、明智光秀が織田信長に紹介する」という約束を交わしたとするが、織田信長が比叡山焼き討ちを正親町天皇に報告するために上洛した時、明智光秀は筒井順慶を織田信長に紹介していない。紹介して、筒井順慶が織田信長の家臣になっていれば、史実通り、明智光秀と与力の筒井順慶、佐久間信盛と与力の松永久秀の四者会談になっていたであろう。

 また、ドラマでは、京都の明智屋敷で長男・十五郎が生まれたとしていた。長男・明智光慶は永禄12年12月7日に、後に筒井順慶の養子となる次男・明智光泰は元亀2年10月2日に、どちらも美濃国で生まれている。織田信長への人質として美濃国に住まわせていたのであろう。
  『織豊期主要人物居場所集成』の「明智光秀の居所と行動」を担当した早島大祐氏によれば、「光秀が京都に宿所を構えるのは天正5年前後の時期であり、意外なことに京都代官を辞めてからであった」(早島大祐『明智光秀』NHK出版新書)という。この時期、明智光秀屋敷は、京都にはなく、妻子は美濃国の明智光秀屋敷に住んでいたと考えられる。

 最後に覚恕が甲斐国に行っていたが、「比叡山焼き討ち」の時も、その後も京都北山の曼殊院別院にいたのでは? 武田信玄には会わず、手紙を出しただけでは?(先週、覚恕について調べたが「甲斐国に亡命した」と書いてある本はなかった。甲斐国へ行くには美濃国(東山道)、もしくは尾張国や同盟者・徳川家康の領国である三河国(東海道)を通るので、織田信長に捕まると思う。)
★曼殊院の位置の変遷
https://www.manshuinmonzeki.jp/history/index.html

「道を教える者を持たぬ者は、闇を生きることになるぞ」(by 松永久秀)

けだし名言だと思う。ただ、私なら「道を教える者を持たぬ者は、道に迷うことになるぞ」と言うな。なぜなら、次回のタイトルが「義昭、まよいの中で」だからだ(「義昭の迷い」じゃダメなのか?)。とはいえ、「義昭、迷いの中で」ではない。多分、タイトルの意味は、「(織田信長を殺そうか、やめようかと)迷っている」のではなく、「(織田信長を殺すと決めて)闇の住民になってしまった」であう。実質的に「迷いの中で」ではなく、「闇の中で」なので、「まよい」(普通の「迷い」じゃないよ)としたのであろう。もしかして「魔酔い」?

■体調が悪いので、短いけどこれまで。(コロナではないと思う。)


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