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『信長公記』「首巻」を読む 第2話「小豆坂合戦の事」

第2話「小豆坂合戦の事」

 八月上旬、駿河衆、三川の国正田原へ取り出で、七段に人数を備へ候、其の折節、三川の内あん城と云ふ城、織田備後守かゝへられ候ひき。駿河の由原先懸けにて、あづき坂へ人数を出だし候。則ち、備後守、あん城より矢はぎへ懸け出で、あづき坂にて備後殿御舎弟衆与二郎殿、孫三郎殿、四郎次郎殿を初めとして、既に一戦に取り結び相戦ふ。其の時よき働きせし衆、織田備後守、織田与二郎殿、織田孫三郎殿、織田四郎次郎殿。織田造酒丞殿、是れは鎗きず被られ、内藤勝介、是れは、よき武者討ちとり高名。那古野弥五郎、清洲衆にて候、討死候なり。下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦右衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、三度四度かゝり合ひ、かゝり合ひ、折しきて、お各手柄と云ふ事限りなし。前後きびしき様体是れなり。爰にて那古野弥五郎が頸は由原討ち取るなり。是れより駿河衆人数打ち納れ候なり。

【現代語訳】

 天文11年(1542年)8月上旬、駿河衆(駿河国(静岡県中部地方)の今川軍)が、三河国(愛知県東部地方)の正田原(愛知県岡崎市。「庄田原」とも)へ攻め寄せ、7段(尖兵、先備、脇備、旗本、後備、小荷駄、遊軍)に兵を配置した。この戦では、三河国の安祥城という城(愛知県安城市)を織田信秀が守っていた。駿河衆の軍師・庵原(太原雪斎)が先陣として、小豆坂へ兵を繰り出した。そこで織田信秀は、安祥から矢作(岡崎市)へ駆け出ると、小豆坂で、この織田信秀の弟たち(信康、信光、信実)をはじめとして、既に戦いが始まっていたので、合流して一緒に戦った。この時、武功をあげたのは、織田信秀、織田信康、織田信光、織田信実である。織田信房は槍傷を負い、内藤勝介は、有名な武者を討ち取って名を上げた。那古野弥五郎は、清洲衆であるが、討死した。下方貞清、佐々正次、佐々孫介、中野一安、赤川景弘、神戸市左衛門、永田次郎右衛門、山口教継は、三度、四度と繰り返しかかり合い、引き返しては、各自、多くの手柄をあげた。前に出るのも後ろに引くのも厳しい混戦状態であった。ここで、那古野弥五郎の首を庵原(太原雪斎)が討ち取ったのである。それより駿河衆は兵を引いた。

【解説】


小豆(あずき)坂の戦いについては、

①1回だけ行われたのか、2回行われたのか?
 1)天文11年8月10日(『信長公記』の記載順)のみ
 2)天文17年3月(今川義元感状)のみ
 3)天文11年と17年の2回

②「小豆坂」は北の坂(標柱あり)なのか、西の坂(上和田砦から登る坂)なのか?

と議論が続いていてはっきりしません。


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