学者に聞いてみたいこと

【学者の言い分】
1.明智氏は明智郷に興り、明智城が落ちるまで住み続けた。
2.明智城は2つある。
 ①恵那市:「明智」という地名はあるが、遠山氏領である。
 ②可児市:
「明智」という地名はないが、「明智荘」「長山」ならある。

1.明智氏が本貫地から一歩も動かなかったという根拠は? 「一所懸命」ですか? 土岐氏は本拠地を本貫地(土岐郡)から厚見郡井口へ移しましたが。「明智城が2つある」と聞いた時点で、「移住した」と思わないのですか?

2-① 『太平記』を読んでいたら、「土岐氏は、恵那市明智から遠山氏を追い出し、一族を置いて明智と名乗らせ、足利尊氏から安堵状をもらったが、後に遠山氏の依頼で返した」(意訳)とありました。その返す時、住む場所がなくなった明智氏は、可児郡へ移住したのでは?

2-② 可児郡に石清水八幡宮領「明智荘」があったと言っていますが、石清水八幡宮文書を調べましたが、「明智荘」は出てきません。別の名前で出てきます。可児郡には「明智八郷」ならあります。これは「(本貫地から可児郡に移住してきた)明智氏の領地である8村」の意で、この「明智」は地名でも、荘名でもないでしょう。
 明智城の別名は長山城だとして、地図に載っていない「長山」がどこにあるか聞いて回ったところ、地元の人が「あの山を長山と言う」と教えてくれた山に明智城址碑を建て、大河ドラマ「春日局」にあわせて市指定史跡にしたのですが、地元の伝承では顔戸城が明智城です。
 学者は「顔戸城は斎藤妙椿の城で、斎藤妙椿の死後、廃城になった」と言っていますが、「廃城だからこそ、人がいないから、恵那市明智を追い出された明智氏が移り住めた」とする発想はないのか? 傍証は、①明智頼典の廃嫡の理由は「顔戸」で人を殺したこと、②『永源記』「檀紀年録」に、「明智光秀の正室は、斎藤氏の娘」とあること。明智氏と斎藤氏は婚姻関係にあったので、斎藤妙椿の城を譲り受けられたのでは?

あなたのサポートがあれば、未来は頑張れる!