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『明智軍記』巻7-4 「明智城 飯羽間謀叛の事」

【原文】

明智の城いゝばさま謀叛の事

 正月廿七日、武田四郎勝頼、岩村口に相働き、明智の城取り巻くの由、注進侯。則ち、後詰として、二月朔日、先陣、尾州・濃州両国の御人数を出ださる。二月五日、信長御父子御馬を出だされ、其の日は、みたけに御陣取、次の日高野に至りて御居陣。翌日、馳せ向かはるべきのところ、山中の事に侯の間、嶮難・節所の地にて、互ひに懸け合ひならず侯。山々へ移り、御手遣なさるべき御諚半ばのところ、城中にて、いゝばさま右衛門謀叛侯て、既に落去。是非に及ぱず、高野の城御普請仰せ付けられ、河尻与兵衛を定番として置かれ、おりの城、是れ又、御普請なされ、池田勝三郎を御番手にをかせられ、二月廿四日、信長御父子、岐阜に御帰城。

【現代語訳】

 天正2年(1574年)1月27日、「武田勝頼の軍勢が岩村(岐阜県恵那市岩村町。武田軍の岩村城があった)へ入り、明知城(岐阜県恵那市明智町)を取り囲んだ」との報告が届いた。織田信長は、後詰(援軍)として、2月1日、先陣として、尾張、美濃両国の軍勢を出陣させた。そして5日になって織田信長・信忠父子も出馬し、その日は御嵩村(岐阜県可児郡御嵩町)に陣を敷いた。翌6日、織田信長は、神箆(こうの)村(「国府」とも表記。岐阜県瑞浪市土岐町)へ陣を移し、翌日、明知城に向かおうとしたが、山中には難所が多く、合戦にはならなかった。織田信長が「山から山へ移りつつ攻撃せよ」と命じていたところ、明知城内で飯羽間(「オバマ」じゃなくて「いいばま」)遠山右衛門信次が謀叛を起こして明知城が落ちてしまった。織田信長は、「是非もなし」(仕方がない)として、神箆村に鶴ヶ城(岐阜県瑞浪市土岐町鶴城)を築いて(正確には「改修して」)河尻秀隆を城番として入れ、また、小里(おり)村(岐阜県瑞浪市稲津町小里)にも付城・小里城山城(小里村には、小里古城、小里新城、小里城山城がある)を築いて(正確には「改修して」)池田恒興を城番として入れて、2月24日、織田信長・信忠父子は、岐阜城(岐阜県岐阜市)へ戻った。(3月12日、織田信長は、上洛のため、岐阜城を発ち、佐和山城(滋賀県彦根市古沢町)へ入って数日滞在し、16日、永原城(滋賀県野洲市永原)へ宿泊したのち、17日に志那城(滋賀県草津市志那町)から明智光秀の坂本城(滋賀県大津市下阪本)へ(船で琵琶湖を)渡り、上洛して相国寺に泊まった。28日には東大寺正倉院の蘭奢待を切り取った。)

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【解説】

 文治元年(1185年)、源頼朝の重臣・加藤景廉(藤原利仁流加藤氏)が遠山荘の地頭に赴任し、景廉の子・景朝が「遠山」と称した。遠山氏の宗家は、岩村遠山氏であり、分家と共に「遠山七家」(岩村遠山家(宗家)、苗木遠山家、明知遠山家、飯羽間遠山家、串原遠山家、明照遠山家、阿木遠山家)と呼ばれた。また、宗家の岩村城を守る分家の城を「遠山十八支城」という。

・岩村城(岐阜県恵那市岩村町城山):日本三大山城、六段壁、女城主。
・苗木城(岐阜県中津川市苗木):国指定史跡、絶景。
・明知城(岐阜県恵那市明智町)
・飯羽間城(岐阜県恵那市岩村町飯羽間)
・串原城(岐阜県恵那市串原)
・明照城(岐阜県中津川市手賀野):阿寺城。
・阿木城(岐阜県中津川市阿木):安木城、安城城。中津川市指定史跡。

 明智光秀は、天正2年1月11日に多聞山城に入り(『多聞院日記』)、2月4日には多聞山城で争論の裁許にあたっている(「石清水八幡宮文書」)。したがって、2月5日の出陣には間に合わなかったが、2月18日には、織田軍の陣容を多聞山城の細川藤孝に伝えている(『尋慶記』)ので、参戦したと思われる。山中に入って攻めあぐねた織田信長が、道案内として呼んだのであろうか。そのような案内は、美濃衆に頼めばいいわけで、明智光秀は、和議の交渉人として呼ばれたのであろう。そして2月24日には、織田信長・信忠父子と共に岐阜へ行き、その足で坂本城に入って織田信長の接待の準備をしたことであろう。

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