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1-(3)明智光秀の出自

 一昨年のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の次郎法師の出自についての史料は、龍潭寺の住職・祖山和尚(油田の尾藤氏)が書いた『井伊家伝記』しかなかったが、明智光秀については、軍記物『明智軍記』と土岐定明の家臣へのインタビュー記事『明智物語』の2冊ある。もちろん、史実に尾ひれが付けられた本であるから、尾ひれを取り、身も取って、骨だけにすると、史実になると思われるが、『明智軍記』と『明智物語』では骨(出自=家系図)が異なるので困る。

《明智氏系図》

 明智頼尚┬頼典【廃嫡さらに義絶】
     └頼明【宗家】─定明─明智定政【沼田藩主土岐家】

一般的な《明智氏系図》は上の通りである。

これに「光継─光綱─光秀」という系図をどこに吊るかである。京都在住の明智庶子家の明智光宣に吊る手があるが、普通は美濃国在住の明智宗主・頼尚の嫡男(長男)である頼典=光継として、

 明智頼尚┬光継┬光綱─光秀─秀子(倫子)
             │       └光安─光春
     └頼明─定明─定政

とする。ただ、これでは光秀が若すぎる。光秀は、定政の代の人物ではなく、定明の代の人物であるし、光秀の娘・秀子(倫子)と光春が結婚しているので、この年齢問題を解消するために光継=光綱とする案が考え出された。

 明智頼尚┬光継┬光秀─秀子(倫子)
     │   └光安─光春
     └頼明─定明─定政

 これで年齢問題は解消したが、「光継=光綱」というのはいただけない。光継、光綱親子が存在し、かつ、年齢問題をクリアするには、「光綱は病弱で、病死しそうだったので、病死前に光綱と同年代の人物(光秀)を光綱の養子にした」と考えるしか無い。(養子は生まれたばかりの子とは限らない。山岸貞秀も自分と同年代の明智光信(光綱の弟)を養子にしている。)

 「頼典=光継」説はこのように苦しい説である。史実では、明智頼典は、父・明智家宗主頼尚によって義絶(親子の縁を絶つこと)され、明智城から追い出されたので、「頼典=光継」説では、追い出された頼典(光継)が住んだ場所で光秀は生まれたという。その場所には諸説あるが、明智光安が住んでいた明智城だと考えられている。

・明智城:明智宗家の居城。明智氏の本拠地・可児市瀬田長山。
・明智城:明智光安の居城。明智氏の本貫地・恵那市明智町。


 もう1冊の『明智物語』には、

 土岐頼明┬土岐定明─定政
     ├遠山定衡
     └明智光秀

とある。土岐頼明の子に土岐定明、定衡がいて、さらに光秀を養子にしたという。土岐頼明が亡くなると、家督は土岐郡(土岐市)の土岐定明が継ぎ、実弟・定衡に遠山郷(恵那市)を与えて遠山定衡、義弟・光秀に明智郷(可児市)を与えて明智光秀と名乗らせたという。どうも、明智氏が絶えたので、光秀を土岐氏の養子にして、明智家を再興させたようである。

※明智氏:土岐氏の随分衆。土岐家の分家は120以上あるが、明智家は随分衆(有力な分家。井伊家でいえば、奥山家や中野家)であった。
 明智定政が徳川家康に仕えると、「土岐家を再興するように」と命じられ、「土岐定政」と名乗り、彼の子孫は沼田藩の藩主を代々務めた。何が言いたいかというと、明智氏は、土岐氏が滅びたら土岐氏と名乗れるほどの随分衆だということである。
 戦国時代、明智氏の庶子家は幕府奉公衆として京都に住んでおり、当時の文献には上総介家、兵庫頭家、中務少輔家の3家が登場する。そして、文献をもとに家系図を制作すると次のようになる。

明智頼秀┬頼弘─頼定─頼尚─頼典【「上総介家」明智宗家・美濃国在住】
    └頼高─玄宣┬光重─光兼【「兵庫頭家」明智庶家・京都在住】
                   └政宣       【「中務少輔家」明智庶家・京都在住】

 問題は、後述の「山岸氏系図」にある明智氏の系図「光宣─光継─光綱─光秀」をどこに吊るかであるが、「宣」は京都の明智庶子家が使う字であるので、「玄宣─光重─光兼」を「光宣─光継─光綱」の別名だとすると、

明智頼秀┬頼弘─頼定─頼尚┬頼典
    │         └頼明─定明─定政
    └頼高─光宣┬光継─光綱─光秀
                   └政宣

となり、光継、光綱親子が存在し、かつ、年齢問題をクリアした系図が完成する。さらに、「明智光秀は連歌が得意だった」というのも連歌の達人・明智玄宣の曾孫であるから当然であるし、織田信長が京都(朝廷、公家衆、将軍)との連絡役に明智光秀を使ったのも頷ける。(「光宣=玄宣」なのか、「光宣=玄宣の兄弟」なのかは不明。)

 明智光宣は京都にいたが、明智光綱は美濃国へ赴いて戦った。美濃国内には居城も居館も無かったので、転地転戦した。その結果、
①明智光秀生誕伝説が美濃国各地の諸城に残る
②「居城や居館がないのは、明智家を追い出されたからだ」と光継=頼典説が生まれる
ことになった。(「光継=頼典」としたのは、明智光秀を明智家嫡流とするための操作であると考えられる。明智光秀の明智家は、幕府奉公衆ではあったが、明智宗家ではないので、身分は低かった。)

 明智家宗主・定明が天文21年(1552年)6月に殺害され、彼の嫡男・定政が奥三河に逃亡した時点で、明智定明の義弟となっていた明智光秀が明智家の宗主的ポジションに立つことになったが、その明智光秀も弘治2年(1556年)9月26日に敗れて、西濃へ逃亡した。こうして、明智家は滅亡した。(後に明智光秀は、織田信長の家臣となって出世すると、明智家の再興作業を始めた。譜代の明智家家臣を呼び戻し、自らは「惟任」と名乗り、重臣には「明智」姓を与えた。これは、家康が「徳川」と名乗り、一族や重臣の18家に「松平」と名乗らせたようなものである。)

※「宮城氏(実は三宅氏。「本能寺の変」後、連座を恐れて逃亡して改姓)系図」や「山岸氏系図」では、光秀は山岸氏の子で、明智氏の養子となったとしている。

※山岸氏:本貫地は加賀国江沼郡山岸とも、越前国坂井郡山岸とも。南朝遺臣。新田義貞が討たれて美濃国へ逃亡し、土着。在京時は「進士氏」と名乗った。居城は府内城であるが、京都に住んでおり、京都在住の明智庶子家とは養子関係で結ばれた。

《山岸氏系図》

 明智光宣┬光継─光綱─────光秀
     └光貞       ↑
       ↓       ┌光秀
 山岸光範─光貞─貞秀─光信┼貞連(光秀近習。小栗栖で殉死)
             └光連(光秀近習。山崎合戦で討死)

 「山岸氏系図」によれば、山岸光範を継いだ山岸光貞は、山岸光範の実子ではなく、養子であり、実父は明智光宣(京都在住の明智庶子家)である。(明智光宣の長男が光継で、次男が光貞だという。)つまり、山岸光貞以降は「山岸」と名乗ってはいるが、山岸氏の血は流れておらず、明智氏の血が流れているので、山岸貞秀の子が「明智」と名乗っても問題はないのであるが、山岸貞秀には子がいなかった。山岸家を継いだ山岸光信(明智光秀の重臣。山崎合戦後、勝龍寺で討死)は、養子(明智光綱の弟で、山岸貞秀とは同年代)であり、明智光秀は、養父・明智光綱の弟であるこの山岸光信の実子で、明智光綱の養子になったという。
 ようするに山岸氏は、
・名門・土岐氏の随分衆・明智氏(京都の庶子家)と深い関わりがある。
・美濃にいる時は「山岸」、京都にいる時は「進士」。
と、「山岸家はすごい」ということを書き残したかったようです。

 以上、

 ──明智光秀は明智庶子家に迎えられた養子である。

と言えそうである。

 明智城は明智光綱の城で、明智光綱が亡くなる時、「明智城は、弟・光安に預ける。我が子・光秀が元服するまで後見し、光秀が元服したら明智城を光秀に渡せ」と遺言したという。明智光秀が元服したので、明智光安が「明智城を譲る」と言うと、明智光秀は、「いずれ天下を取るので、こんな小さな城はいらぬ」と断ったという(美濃国で書かれた古文書や伝承では、明智光秀は、子供の頃から天下を狙っていたとする。「本能寺の変」の動機も野望説を支持する)が、嘘(物語的な脚色)であろう。明智城は、(京都から援軍を連れてやってきて、美濃国内に城を持たない)明智光綱の居城ではなく、明智光安の居城であり、明智光安は、明智城を実子・明智光春に譲るつもりでいたに違いない。明智光秀が養子であれば、尚更譲りたくはない。「城を譲ってもらえなかった」では格好悪いので、「譲ると言われたが断った」と脚色したのであろう。

他には「妹妻木」という人物に注目した説がある。
解釈① 妹が妻木なら、明智光秀も妻木である。(妻木氏系図①)
解釈② 「妹妻木」は、妻の妹であり、妻が妻木である。(妻木氏系図②)

《妻木氏系図①》
 妻木頼安┬広忠
     └美佐保
       ‖───────┬明智光秀
     明智下野守   └妹妻木

《妻木氏系図②》
        明智光秀
 妻木頼安┬広忠 ‖
     └範煕┬煕子(牧)
          └妹妻木(芳子)

ただ、気になるのは、明智城の落城後、山岸氏に匿われたと山岸系図にあり、妻木氏が匿ったとは無いことである。

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