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視聴記録『麒麟がくる』第一回「光秀、西へ」2020.1.19放送

 領地を荒らす野盗を撃退した際、明智光秀(長谷川博己)は、その頭領が持っていた「鉄砲」という見たことのない武器に興味を持つ。美濃守護代・斎藤氏の名跡を継ぐ斎藤道三(本木雅弘)に掛け合い、ある約束と引き換えに、鉄砲がどういうものか探る旅に出る。堺ではひょんなことから三好長慶の家臣・松永久秀(吉田鋼太郎)に気に入られる。次に向かった京では、名医と名高い望月東庵(堺正章)と出会うが、大のばくち好きで、本当に名医なのかヤブ医者なのかわからない。そんな中、大名同士の抗争が始まり、町は大火事になる。

<トリセツ>
光秀が生まれ育った美濃国ってどこ?
「美濃(みの)」は現在の岐阜県南部、明智家が治める「明智荘(あけちのしょう)」は岐阜県可児市あたりになります。
斎藤家と明智家の関係は?
明智家は、斎藤家の家臣ですが、光秀の叔母が道三に嫁いだことにより、斎藤家と明智家は姻戚関係にあたります。そのため道三の娘・帰蝶はいとこの光秀や明智家の人々とは幼い頃から親しくしています。
光秀がわずか2年で読み終えたといわれる「四書五経(ししょごきょう)」は、どんな書物なの?
『大学』『論語』『中庸(ちゅうよう)』『孟子(もうし)』の四書、『詩経』『書経』『礼記』『易経』『春秋』の五経からなる儒教の基本書。
当時、武将の子弟は寺で高僧から多くのことを学んでおり、人間としての生き方や上に立つ者の心得を習得するための教書として使われていました。
東庵が借金返済に必要だったお金・100貫(かん)の価値は?
現代の価値で換算すると、1貫=約15万円。
100貫だと約1500万円になります。
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/1.html


 戦国大河『麒麟がくる』が始まりました!
 「麒麟が」の後には「来た」と続けそうですが、「来る」と繋げるのは斬新ですね。(「来る」としないで、「くる」としたのは、「きたる」と読まれないようにするためでしょう。)

 私はタイトルとしては、『炎立つ』が好きです。全国各地に炎が立ち(戦国大名が生まれ)、最後は本能寺が炎上するイメージです。でも、もう使われていますし、「明智光秀=本能寺の変」のイメージから離れていませんから、使えませんね。

 『百花繚乱』も既にあるから『百将乱舞』とか。(慌ただしいタイトルだな。大河ドラマはもっと落ち着いたタイトルが良い。)

 ──その人は、麒麟を連れて来るんだ。(by 駒)

 このドラマの内容からすると、タイトルには『麒麟を連れてきた男 明智光秀伝』がふさわしいのでは? 「本能寺の変」では、「敵は本能寺にあり」ではなく、「これより本能寺に麒麟を迎えに参る」と叫ぶのかな? 最終回で死ぬ時には「麒麟は我を見放したり」と言うのかな?
 個人的には、岡村さんが豊臣秀吉に見えて仕方がないです。佐々木さんは影武者では? それとも、岡村さんは麒麟だったりして。最終回で竹槍で明智光秀を刺し、「そなたには失望した。我は秀吉のもとへ向かう」と言い終わると、五色の光に包まれて麒麟に変身し、秀吉のもとへ駆けていく。(麒麟は金色のオーラを放つ聖獣だと勘違いして、タイトルを金文字で書いてしまいましたが、調べてみたら、背中に5色の毛が生えているためか、「五色のオーラを放つ聖獣」とありました。)麒麟は、人畜を傷つけない「仁獣」ですから、明智光秀を殺すはずが無いですね。はい、妄想です。
 ちなみに、ネットでは、岡村さん=明智秀満説が広まってます。あるいは、明智光秀の影武者となって死ぬとか。

 期待は膨らむ。

※麒麟:形似鹿、但體積較大。牛尾、馬蹄、頭上有獨角。背上有五彩毛紋。腹部有黃色毛。雄者稱為「麟」、雌者稱為「麒」。統稱為「麒麟」。性情溫和、不傷人畜、不踐踏花草、故稱為仁獸。(形は鹿に似るが、鹿よりも大きい。尾は牛の尾のようで、足には馬の蹄(ひずめ)があり、頭上には角がある。背には五色の毛紋がある。腹部に黄色の毛がある。雄は「麟」、雌は「麒」と言い、合わせて「麒麟」という。性格は温和で、人畜を傷つけず、花草を踏まないので、「仁獣」と称せられる。)

 ドラマの感想は、「芸が細かい」「伏線がたくさんありそう」です。たとえば、オープニングの神社の鳥居が八幡鳥居だってことは、明智荘は石清水八幡宮領だってことを暗示していますし、比叡山の僧兵が通行料を取っていることは、後の「比叡山焼き討ち」に通じそうです。

1.斎藤利政(後に出家して道三)


 常在寺に寄付する数珠の珠(珊瑚製)の数の話は初耳です。武田信玄が子供の頃に貝の数を根気よく数え、家臣にその数を聞いたら、みんな実際より多く答えたそうで、武田信玄は、「多くを集めなくても、少ない数を多くの数に見せれば良いと気づいた」(『甲陽軍鑑』)そうですが、「多く見積もる」から慎重になり、戦に勝てるのでしょうね。
 明智光秀は、大仙寺(岐阜県加茂郡八百津町にある臨済宗妙心寺派の寺院。永保寺、正眼寺と共に「美濃三道場」と呼ばれた古刹で、宮本武蔵が禅の修業をしたことで有名)で「四書五経」を読み終えるのに2年。机を並べた斎藤高政は6年かかったそうなので、頭の回転スピードが3倍速そうですね。(明智光秀が美濃で学んだのは、快川紹喜がいた臨済宗妙心寺派の崇福寺(土岐福光館説もある織田信長の菩提寺。岐阜県岐阜市長良福光)で、斎藤高政が学んだのは、日運上人の日蓮宗京都妙覚寺の末寺・常在寺(斎藤道三以後の斎藤氏3代の菩提寺。岐阜県岐阜市梶川町)だと思いますけどね。明智光秀については、叔父(母の弟)が妙心寺の僧なので、京都で学んだと言われてますけどね。)
 斎藤高政は珠の数を「1500~1600粒」と少なく言って、「敵の数を少なく見積もると(「討ち死にする」とまでは言わないが)苦戦する」と叱られ(明智光秀の場合、冒頭の野盗戦では、物見が伝えた数より多くの野盗が襲ってきましたが、知略、戦略、作戦で乗り越えました)、明智光秀は、「2000粒を少々越えるかと。2000に近い108の倍数は19倍の2052ですが、19では切りが悪いので、20人分の2160粒」と考察し、計算して大正解でした。斎藤利政が感心したのは、「20人分」という考察でしょうけど、108X20という掛け算が暗算で出来たことにもあるでしょうね。当時、暗算ができる人は珍しかったのでしょう。損か得かで動く斎藤利政は出来たでしょうけど。

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 ──恥を知れ!「恥有りて且(か)つ格(いた)る」だ。(by 明智光秀)

※四書五経:儒教の根本経書の「四書」は『大学』『中庸』『論語』『孟子』、「五経」は『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』。

※孔子の言葉『論語』為政第二3:子曰、「道之以政、齊之以刑、民免而無恥。道之以徳、齊之以礼、有恥且格」(子曰く、「之(これ)を道(みち)びくに政(せい)を以てし、之を齊(ととの)ふるに刑を以てすれば、民(たみ)免れて恥無し。之を道びくに徳を以てし、之を齊ふるに礼を以てすれば、恥有りて且つ格る」と)。
 孔子は「人民を導くのに「政」(行政法)を用い、「刑」(刑罰)で整えようとすると、人民は法の網をくぐり抜けようとして恥じることはない。人民を導くのに、「徳」を用い、「礼」で整えれば、人民は恥を知り、固い根性を備える」と言いました。
 この場面で、明智光秀は、「我が主君は、『やるか、やらないか』を、『自分にとってそれが得か、損か』で決めており、そのことを恥ずかしいとは思っていない。恥を知って欲しい。『論語』にも『恥有りて且つ格る』とあるぞ」と、『論語』を引用していますが、酔った勢い言っているので、ちょっと使い方を間違えてますね。
 斎藤利政をダメ人間だと言うけど、主君・斎藤利政の悪口を「旅の恥はかき捨て」とばかりに酔った勢いで初対面の人物に「ケチだ」と主君の悪口を言う明智光秀もダメ人間ですが、松永久秀は、その正直なところが気に入ったようで、朝起きたら、枕元に鉄砲が・・・ってサンタクロースかよ。

 司馬遼太郎『国盗り物語』ですと、斎藤利政は鉄砲の達人で、医学も、文学も・・・スーパーマンです。弟子が2人いて、戦に秀でた弟子が織田信長、文化教養に秀でた弟子が明智光秀となっていますが、池端氏が描く斉藤利政は、「鉄砲は名前だけ知ってる人」「薬学の知識も浅い人」で、「成り上がり者」にすぎないようです。
 明智光秀にしても、「鉄砲の名前を知らない田舎者」「薬の名前も知らない医学に無知な人」として描かれていました。父親は何度も上京したというのにね(「立派な武士(もののふ)」とは、強いだけではなく、「文武両道の人」を言うのでしょう)。

 あと、斎藤道三については、さり気なく、2代説や、帰蝶が結婚していることが触れられていましたね。

●斎藤親子2代での国盗り説

※「斎藤親子2代での国盗り説」の出典「六角承禎書状(写)」(春日文書):永禄3年(1560年)7月21日に、近江国守護・六角義賢(出家して承禎)が、家臣である平井定武、蒲生定秀らに宛てた手紙。

(前略)
一、彼斎治身上之儀、祖父・新左衛門尉者、京都・妙覚寺法花坊主落にて、西村与申、長井弥二郎所へ罷出、濃州錯乱之砌、心はしをも仕候て、次第にひいて候て、長井同名になり、又、父・左近太夫代に成惣領を討殺、諸職を奪取、彼者、斎藤同名に成あかり、剰次郎殿を聟に取、彼早世候而後、舎弟・八郎殿へ申合、井口へ引寄、事に左右をよせ、生害させ申。其外、兄弟衆、或は毒害、或は隠害にて、悉相果候。其因果歴然之事、
一、斎治父子及義絶、弟共生害させ、父与及鉾楯、親之頸取候。如此代々悪逆之体、恣に身上成あかり、可有長久候哉。美濃守殿、当国に拘置なから、大名なとに昇進候事、当家失面目義、不可過之候。日月地に不落は、天道其罪不可遁之処、縁篇之儀、可申合儀者、名利二なから可相果候。江雲寺殿、天下無其隠孫にて、右覚語対先祖不忠と云、佐々木家之末代かきん、可有分別候。公私共辱同前事、
(中略)
   永禄三年
    七月廿一日       承禎
         平井兵衛尉殿
         蒲生下野入道殿
         後藤但馬守殿
         布施淡路入道殿
         狛修理亮殿

【該当部分の大意】 かの「斎治」(斉藤治部大輔義竜)の身の上であるが、祖父・新左衛門尉は、京都・妙覚寺の塔頭・法花坊の坊主「法蓮房」で、還俗して「西村」と名乗って長井弥二郎に仕え、濃州錯乱(美濃国内乱)の時、心の端を掴み、次第に心を引きつけて「長井」と名乗るようになった。また、父・左近太夫(斎藤道三)の代には、長井家の惣領(宗主)を討ち殺し、諸職を奪い取り、「斎藤」と名乗るようになった。次郎殿(土岐頼純)を(帰蝶と結婚させて)聟に取り、彼(土岐頼純)の早世後は、弟・八郎殿(土岐頼香)を井口(後の岐阜)へ引き寄せ、色々と理由をつけて、切腹させた。その他の兄弟は、毒殺したり、暗殺したりして、(土岐一門を)悉く殺してしまった。

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