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『明智軍記』(第8話)

 『明智軍記』第8話のタイトルは「秀吉公立身之事」ですので、豊臣秀吉の出世の話かと思ったらそうではありません。内容は、

(1)徳川家康の出自(挿入丁)
(2)徳川家康の出世
(挿入丁)
(3)豊臣秀吉の出自
(4)豊臣秀吉の出世

と、どれも1冊の本が書けそうな内容です。

 ──さて、どうまとめるか・・・

 最初は『明智軍記』の要約を書いたのですが、読んでみると『明智軍記』より面白くない!(小説『明智軍記』のあらすじを書いてみたけど、小説『明智軍記』より面白くなかったってことです。『明智軍記』が小説ではなく、解説書であれば、要点だけで十分なのですが・・・。)
 そこで、『明智軍記』の内容を年表にまとめ、あとは、松平氏誕生の地「松平郷」と、豊臣秀吉の出生地「中村」へ行った紀行文にしました。「行った」と言っても、もう何年も前の話で、今回の執筆にあたり再訪はしていません。金欠なので。(取材費欲し~い。Help me!)

 『明智軍記』第8話の要点は、次のようになります。

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(1)徳川家康の出自:南朝遺臣の得川氏。時宗の僧に化けて三河国へ。

                                        松平信盛┬信重 
                    └水姫  ┌信広【太郎左衛門家】
                      ‖──┴③信光…⑨元康(徳川家康)
新田義貞…得川有親(長阿弥)┬①親氏(徳阿弥)
                └②泰親(祐阿弥)

(2)徳川家康の出世:「桶狭間の戦い」後、今川氏から独立し、織田信長と同盟を組むと、神君三大辛苦の1つ「三河一向一揆」を乗り越えて西三河を平定し、神君二大武勇の1つ「神君一宮後詰」を経て東三河を平定して、三河国の平定に成功した。

神君一宮後詰:「神君大高城兵糧入れ」と並び称される徳川家康二大武勇伝の1つ。一宮砦を助けるために一宮砦の後詰をした。八幡砦と佐脇砦の中間「一宮の退き口」を突破し、岡崎城まで逃げると、軍勢を整え、八幡砦と佐脇砦を攻撃した。これを「八幡合戦」という。戦場は正室・築山殿の実家・関口氏の旧領であったので、徳川家康は、「関口一族の墓には手を触れるな」と指示した。後に関口家の菩提寺は廃寺となったが、墓は現存する。

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(3)豊臣秀吉の出自:中中村(一説に下中村)の猿(驚愕の異説は次回)

             三好吉房(入道一路)
                   ‖
木下弥右衛門            ┌智(瑞龍院、村雲尼)
    ‖────────┴猿(秀吉)┬秀勝(養子。織田信長四男)
        仲(後の大政所)          └秀次(養子。三好吉房長男)    
    ‖────────┬秀長=秀保(養子。三好吉房三男)
竹阿弥(筑阿弥)  └朝日姫(旭姫)

(4)豊臣秀吉の出世:豊臣秀吉の出世は「墨俣一夜城(岐阜県大垣市墨俣町墨俣)の建設から始まった」と考えている方が多いが、『明智軍記』によれば、「もう1つの一夜城」の建設から豊臣秀吉の出世が始まったとする。彼はその城を居城とし、織田信長に新規で雇わせた浪人300人と共に、奇想天外な方法で50余村を得たとある。墨俣に同じ工法で一夜城を建てたのは、その後の話である。

★原文&現代語訳(大河マニアックス様)
https://iiakazonae.com/1259/
★解説(武将ジャパン様)
https://bushoojapan.com/bushoo/toyotomi/2020/09/07/150638
★感想(Ameba版「戦国未来の戦国紀行」)
https://ameblo.jp/sengokumirai/entry-12619458252.html
★小説『明智光秀幻視行』
https://novelup.plus/story/695307463/168570799

 「もう1つの一夜城」を「伏屋一夜城(岐阜県羽島郡岐南町伏屋3丁目。別名:「伏屋城」「一夜城」「太閤城」)という。尾張国北方(木曽川の左岸の一宮市北方町。写真の138タワーの西)の対岸(木曽川の右岸。美濃国羽島郡)にある。
 墨俣一夜城跡には、平成3年、城郭天守の体裁を整えた墨俣一夜城(歴史資料館)が開館したが、伏屋一夜城跡は、竹藪内に土塁が残るのみである。案内板に「管理 岐南町歴史民俗資料館」とあるが、実は私有地で、立入禁止。道路脇の解説板から眺めるだけである。

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岐南町指定文化財
史跡 伏屋城跡
 織田信長が美濃を攻めるため、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に命じて築かせた城と、伝えられています。
 古書によると、秀吉は、木曽川周辺に勢力をもつ土豪らの助けを借り、材木を集めていかだに組み、木曽川を利用してこの伏屋に運び込み、砦のような城を築いたとあります。これが「伏屋城」で、短期間に造られたことから「一夜城」とも呼ばれています。永禄年間(一五五八~一五六九)ころ築かれたと考えられます。
 天正十二年(一五八四)の小牧・長久手の戦いで、秀吉は、最北端の砦として、この伏屋城を伏屋市兵衛に守らせました。
   昭和五十三年九月五日指定
    羽島郡四町教育委員会
       管理 岐南町歴史民俗資料館

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 初代伏屋城主は豊臣秀吉で、2代目以降は伏屋氏です。伏屋氏の本貫地は、尾張国葉栗郡伏屋(天正14年(1586年)の木曽川の流路変更により、美濃国に編入され、現在は岐阜県羽島郡岐南町伏屋)だそうですが、豊臣秀吉出生地の近くの愛知県名古屋市中川区富田町伏屋でしょう。
 伏屋氏は、織田信長や豊臣秀吉に仕えたようで、城主になったので、地名も城の名も「伏屋氏の伏屋」になったと思います。ちなみに、「伏屋」の語源は「お布施(布勢)屋」だとか。
 『寛政重修緒家譜』には、「今の呈譜(注:『寛永譜』)豊臣氏なり」とあります。案内板の「伏屋市兵衛」は、『寛政重修緒家譜』の「伏屋小兵衛為長」のことかな? 『寛政重修緒家譜』には豊臣秀吉の普請奉行とあります。伏見城普請四奉行の1人です。(『大かうさまくんきのうち』には、豊臣秀吉の金切裂指物使番とある。)

■史料:文禄3年(1594年)1月18日付真田昌幸&信幸&信繁宛伏見城普請四奉行連署状(信州地域史料アーカイブ)
【書き下し文】 来る朔日より御普請の儀、堀普請と仰せ出だされ候。御役儀の事、千六百八拾人にて候。御心得の為申し上げ候。恐惶謹言。
          佐久間甚四郎正実(花押)
   正月十八日  山城少兵衛 一久(花押)
          伏屋小兵衛 為長(花押)
          石尾与兵衛 治一(花押)
     真房州様
     真伊豆様
     同左衛門様 人々御中

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