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1-(2) 織田信長の出自

 織田信長の出自については、織田信長の右筆・太田牛一の『信長公記』(首巻)や『政秀寺古記』に書かれている。

 また、織田氏の出自については系図に次のようにある。

平清盛─重盛─資盛─織田①親実─…⑨常昌─⑩常勝─…─⑯信定─⑰信秀─⑱信長

この系図は当てにはならない。その理由は、
①織田氏を平氏としている。
②一本線の系図で、織田信長を織田氏嫡流としている。
からである。

 織田氏系図では、「平重盛の次男・平資盛の子・平親実が、近江国津田郡に隠れ住んでいたところを、越前国織田(おた)荘(福井県丹生郡越前町)の織田劔神社の神官が養子としたのが織田(おた)氏の始まり」としているが、これは、「源氏である足利氏にかわって天下に号令するのは平氏である」という源平交替思想に基づく書き換えである。

 ──織田氏は藤原氏である。

 越前国織田荘(皇室領荘園)に住む荘官(開発領主)・織田氏の末裔は、越前国守護・斯波氏の被官となって成長した。(「神社の神官も兼ねた荘官(藤原氏)」であるが、「荘官も兼ねた神社の神官(忌部氏)」とする説もある。)

 応永7年(1400年)から室町幕府の管領家で越前国守護であった斯波氏の斯波義教(義重)が尾張国の守護を兼ねることになったので、織田氏は尾張国へ移住した。これが「尾張織田氏」の始まりである。

 尾張国守護代は、越前国守護代・甲斐氏が兼任したが、応永10年(1403年)には、尾張織田初代・伊勢入道常松(織田氏系図の10代常勝)が尾張国守護代に抜擢されていた。(この常松は、在京することが多く、常松の弟・常竹が在地の守護代となった。)

 織田信長の父・信秀時代の尾張国の支配体系は、『信長公記』や『政秀寺古記』に次のように書かれている。

      ┌守護代・織田伊勢守(岩倉城)
守護・斯波氏┤
      └守護代・織田大和守(清州城)─清洲三奉行

※織田伊勢守の領地:上四郡(丹羽、羽栗、中島、春日井郡)
※織田大和守の領地:下四郡(海東、海西、愛知、知多郡)
※清洲三奉行:織田因幡守、織田藤左衛門、織田弾正忠

 織田初代常松(常勝)から、この状態に至るまでの系図は、偽書とされる『武功夜話』(前野家文書)などから次のように想像される。(「敏広と敏定は兄弟」「信定の父は敏定」などの異説あり。)

藤原信昌┬常松┬教長─淳広【勘解由左衛門家】
    └常竹├□─□─郷広─敏広【伊勢守・兵庫助家】
         ├□─□─久長─敏定┬寛定【近江守家】                 │        └寛村【大和守家】
         └□─□─良信─信定─信秀【弾正忠家】

※淳広:「淳」は斯波義淳の「淳」
※郷広:「郷」は斯波義郷(斯波義淳の弟)の「郷」
※敏定:「敏」は斯波義敏の「敏」

《尾張国の守護と守護代》

1400-1418 守護:斯波義重/守護代:織田常松&常竹→教長
1424-1433 守護:斯波義淳/守護代:織田淳広
1433-1436 守護:斯波義郷/守護代:織田郷広
1436-1452 守護:斯波義健/守護代:織田郷広
1452-1460 守護:斯波義敏/守護代:織田敏定
1460-1461 守護:斯波義寛/守護代:織田寛定
1461-1466 守護:斯波義廉/守護代:織田敏広

 尾張国守護代は、勘解由左衛門家(嫡流)から伊勢守家(傍流)に替わったが、「応仁・文明の乱」(1467-1478)の時、斯波義敏(東軍)が大和守家(傍流)の織田敏定を尾張国へ入れ、

・東軍:守護:斯波義敏/守護代:織田大和守敏定
・西軍:守護:斯波義廉/守護代:織田伊勢守敏広

となって争ったことにより、二人制守護代の素地ができた。

《二人制守護代》

・上四郡守護代・織田伊勢守(岩倉城)
・下四郡守護代・織田大和守(清州城)─清洲三奉行

《織田信秀の息子たち》

 織田信長は、「清洲三奉行」(織田因幡守家、織田藤左衛門家、織田弾正忠家)の織田弾正忠家の人間であって、尾張織田氏嫡流の人間ではないし、織田弾正忠信秀の長男ではなく、三男らしい(「江戸時代の系図では秀俊を六男として、信長を次男とする」など諸説あり)。

  織田信秀┬織田①信広(三郎五郎)
      ├織田②秀俊(信時、喜蔵)
      ├織田③信長(吉法師、三郎)
      ├織田④信勝(信行、勘十郎)
      ├織田⑤信包(信良三十郎)
      ├織田⑥信治(九郎)
      ├織田⑦信與(彦七郎)
      ├織田⑧秀孝(喜六郎)
      ├織田⑨秀成(半左衛門)
      ├織田⑩信照(織田中根(養子)、織田越中)
      ├織田⑪長益(源五郎、有楽)
      └織田⑫長利(又十郎)

《「若き日の信長」略年表》

※「若き日の信長」と言った場合、生誕から「桶狭間の戦い」(1580年27歳)までとする場合と、足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛し、将軍職就任を助けた1568年(35歳)までとする場合があるが、ここでは前者とする。(年齢は数え年である。)

天文3年(1534年)5月12日 勝幡城で誕生。(1歳)
?年 那古野城主となる。(?歳)
天文15年(1546年) 元服。「三郎信長」と名乗る。(13歳)
天文18年(1549年)2月24日 濃姫(帰蝶、胡蝶)と結婚。(16歳)
天文21年(1552年) 父・信秀の死去により家督を相続。(19歳)
天文23年(1554年) 居城を清洲城に移転。(21歳)
永禄元年(1558年)11月2日 弟・信勝を暗殺。(25歳)
永禄2年(1559年)2月2日 初上洛。足利義輝に謁見。(26歳)
永禄3年(1560年)5月19日 桶狭間の戦い。(27歳)

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