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『信長公記』は偽書か? Part.2

永禄11年(1568年)
9月26日  足利義昭、上洛。清水寺へ動座。
9月27日  足利義昭、西岡寂照院へ動座。
9月29日  足利義昭、摂津芥川城へ動座。
10月14日   足利義昭、京都六条本国寺(現・本圀寺)へ動座。
10月16日   足利義昭、細川藤賢亭へ動座。
10月16日   足利義昭、細川藤賢亭で観能会を開催。
10月29日   足利義昭、本能寺へ動座するが、本国寺へ動座。
永禄12年(1569年)
1月5日     幕府軍対三好軍で「本国寺の変」(六条合戦)
1月6日     幕府軍、「六条の六日崩れ」「桂川合戦」で勝利。
1月10日   早朝、織田信長が駆け付ける。
1月11日   三好三人衆に協力した八幡を破却。
1月14日   織田信長&足利義昭、殿中御掟を制定。
2月2日     二条城、造営開始。まずは石蔵(石垣)の石積みから。
2月9日     二条城で事故。南側石垣が崩壊し、人夫7、8人が死亡。
2月14日   二条城の石垣、ほぼ完成。
3月3日     二条城へ「藤戸石」を運び出し、翌日、二条城に搬入。
4月14日   巳の刻、足利義昭、二条城へ動座。

足利義昭は、織田信長の助力で上洛し、仮御所(本国寺)に動座した。
ところが三好軍に襲われた(「本国寺の変」)ので、織田信長が駆けつけ、
「本国寺は、防御機能が劣る」
として、「二条城」(3重の堀と高さ4間1尺(7.5m)の石垣などを備える平城)を築いた。

このことを『信長公記』には、次のようにある。

永禄十二年己巳正月四日、三好三人衆、并びに斉藤右衛門大輔龍興、長井隼人等、南方の諸牢人を相催し、先懸の大将・薬師寺九郎左衛門、公方様六条に御座候を取詰め、門前を焼き払ひ、既に寺中へ乗り入るべきの行(てだて)なり。【現代語訳】永禄12年(1569年)1月4日、三好三人衆と斉藤竜興(斉藤義竜(高政)の子)・長井道利らが、京都の南方に屯していた浪人たちを集め、魁の大将・薬師寺貞春は、公方様(足利義昭)の御座所である六条本国寺(江戸時代以降の表記は「本圀寺」)に攻め寄せ、門前を焼き払い、既に寺の境内に入り込もうという勢いであった。)
 爾処(しかりしところ)、六条に楯籠る御人数、細川典厩、織田左近、野村越中、赤座七郎右衛門、赤座助六、津田左馬丞、渡辺勝左衛門、坂井与右衛門、明智十兵衛、森弥五八、内藤備中、山形源内、宇野弥七。若狭衆、山形源内、宇野弥七、両人は隠れなき勇士なり。御敵・薬師寺九郎左衛門、幢本(はたもと)へ切ってかゝり、切り崩し、散々に相戦ひ、余多に手を負はせ、鑓下にて両人討死候なり。
 襲ひ懸れば追ひ立て、火花をちらし相戦ひ、矢庭に三十騎計り射倒す。手負ひ、死人、算を乱すに異ならず。乗り入るべき事、思ひも寄らず。
 懸るところに、「三好左京大夫、細川兵部大輔、池田筑後、各々後巻にこれある」の由承り、薬師寺九郎左衛門、小口を甘(くつろ)げ候。
【現代語訳】 この時、六条本国寺に立て篭もっていた警固の兵は、細川藤賢、織田左近、野村高勝、赤座永兼、津田敏久、渡辺勝左衛門、坂井与右衛門、明智光秀、森弥五八、内藤備中守、そして、勇士として名高い山県盛信と宇野弥七郎らであった。警固の兵は、敵将・薬師寺貞春や旗本へ切って掛かり、切り崩し、散々に戦い、多くの敵に手傷を負わせたが、槍で2人(山県盛信、宇野弥七郎)とも刺殺された。
 切り掛かれば追い立て、火花を散らして戦い、いきなり約30人を弓で倒した。負傷者や死者が散乱し、本国寺へ入り込める状況ではなかった。
 こうした時、「三好義継、細川藤孝、池田勝正が加勢に来て、背後から攻撃される」という情報が入ったので、薬師寺貞春は、虎口を寛げた(攻撃の手を緩めた)。)
(中略)
 正月六日、濃州岐阜に至って飛脚参着。
 其の節、以ての外の大雪なり。「時日を移さず御入洛在るべき」の旨、相触れ、一騎懸(がけ)に大雪の中を凌ぎ打ち立て、早御馬にめし候ひつるが、馬借の者ども、「御物を馬に負(おはせ)候」とて、からかいを仕り候。御馬より降りさせられ、何れも荷物一々引見御覧じて、「同じおもさなり、急ぎ候へ」と仰せ付けられ候。是れは奉行の者に依怙贔屓もあるかと、おぼしめしての御事なり。
 以ての外の大雪にて、下々、夫(ぶ)以下の者寒死(こごえじに)も数人これある異なり。
 三日路の処二日に京都へ。信長公、馬上十騎ならでは御供なく、六条へ懸け入り給ふ。堅固の様子御覧じ、御満足斜ならず。池田せいひん、今度の手柄の様体聞こしめし及ばれ、御褒美是非に及ばず。天下の面目、此の節なり。
【現代語訳】1月6日、(三好勢来襲を知らせる)急使が岐阜へ到着した。この時、例年にない大雪であった。織田信長は「すぐに上洛する」と下知し、自分1人だけでも大雪の中を馬で向かおうと馬にまたがったが、馬借の者たちが、「お前の馬に乗せる荷物を、私の馬に背負わせた」として喧嘩を始めた。織田信長は、馬から降り、どの荷物も一つ一つ検分して、「どの馬も、背負っている荷物の重さは同じである。急げ」と命じた。これは、奉行の者が依怙贔屓してるのかと思って確認したのである。
 例年にない大雪であったので、下々の者、人夫の中には凍死する者が数人出るという異常事態であった。
 通常3日かかる道を、織田信長は2日で上洛した。織田信長と、馬に乗った10人ほどのお供は、六条の本国寺へ駆け込んだ。織田信長は、御所が安泰な様子を見て、満足した。織田信長は、池田清貧斉の活躍の様子を聞き、褒美を与えた。池田清貧斉は、天下に面目をほどこした。)
永禄十二年己巳二月廿七日
公方御構へ御普請の事
 去て、「此以後、御構へ之無く候ては如何」の由に候て、尾、濃、江、勢、三、五畿内、若狭、丹後、丹波、播磨十四ケ国之衆在洛候て、二条の古き御構へ堀をひろげされ、永禄十二年己巳二月廿七日、辰の一点、御鍬初めこれあり。【現代語訳】さて、織田信長は、「今後、堅固な将軍御所が無いというのはどうだろうか(よくないことだ)」として、尾張国、美濃国、近江国、伊勢国、三河国、五畿内(山城国、摂津国、河内国、大和国、和泉国)、若狭国、丹後国、丹波国、播磨国、以上14ヶ国の人々が上洛して、二条の斯波義廉邸跡に堀を拡げ、永禄12年(1569年)2月27日の午前7時半頃、お鍬始めが行われた。)

要旨①1月4日、三好軍が本国寺を急襲した。
要旨②先鋒の大将・薬師寺貞春は、後巻が来ると聞き攻撃の手を緩めた。
要旨③1月6日、(三好勢急襲を知らせる)急使が岐阜へ到着した。
要旨④織田信長は、大雪の中、通常3日かかる道を、織田信長は2日で到着。
要旨⑤織田信長のお供は「馬上10騎」だけだった。
要旨⑥2月27日の辰の刻にお鍬始め。

『信長公記』は学術論文にも引用されている本なので、「第1級史料」「史書」だと思ってる方が多い。しかし、織田信長の右筆が書いた本で、たとえば、合戦については、織田信長が勝った合戦のみ載っており、負けた合戦については触れておらず、それで「第1級史料」「史書」と言えるとは思えない。たとえば、二条城の築城時、織田家家臣と浅井家家臣が喧嘩して、数百人が死に、京都では「合戦並みの喧嘩」と話題になったが、書かれていない。織田家家臣が負けたからであろう。
※その喧嘩の詳細
https://note.com/senmi/n/n36845b2a77a3

 三好軍が本国寺を急襲したのは「1月4日」ではなく、「1月5日」である。
 なぜ「1月4日」に変えたかと言えば、「京都から岐阜まで、4、5、6日と、3日かかる」としたかったからで、「それを織田信長は6、7日の2日で」ということであるが、「2日で行った」と書いてあるだけで、「1月7日に着いた」とは書いていない。史実は、「1月5日、本国寺が襲われ、1月6日の夕方に岐阜に急使が来た。織田信長は、1月7日の早朝に岐阜城を出て、1月10日の早朝に本国寺に着いた」である。なぜ急使が5、6日の2日で来た道を、7、8、9、10日の4日(急使の2倍)かかったかといえば、「大軍だったから」である。「近江国高宮で諸国の軍隊6000余人と合流した」ことは確かであるから、少なくとも6000人以上の大軍である。(ちなみに、本国寺にいた幕府軍は2000人。10月29日に本能寺へ入るが、狭くて入りきらなかったので、その日のうちに本国寺へ移った。)
 京都に入ると織田軍(幕府軍、足利方)は8万人になった(『言継卿記』1月12日条)というが、既に戦いは終わっていた。(終わっていなかったら大変。三好軍は1万人。本当に10人で行ったのなら、すぐに殺されるよ。)先鋒の大将・薬師寺貞春は、「後巻(後詰)が来る」と聞いて攻撃の手を緩めたというが、なぜ「後巻(後詰)が来る」と聞いて攻撃の手を緩めたのだろうか? 挟み撃ちにされるとまずいので、退散したということだろうか? ちなみに、『信長公記』以上に史実に反することが書かれている『明智軍記』では、「明智光秀が薬師寺貞春を鉄砲で撃ち落としたので、三好軍は攻撃の手を緩めた」とする。『信長公記』にその話が書いてないのは、史実ではないからか、織田信長を討った明智光秀を褒めたくないからか。
 集まった8万人の兵は、京都の寺院に入ったという。「諸国に戻る前に利用しよう」と考えたのか、織田信長は、人夫だけではなく、兵士も使って2月2日にお鍬始めを行って、二条城の築城を始めた。4月14日に足利義昭は二条城へ動座しているので、築城期間は2月2日~4月14日であろう。ルイス・フロイスは、「70日間で造った」と驚いている。『信長公記』では、お鍬始めを2月27日と、築城期間を史実より25日も縮めた。これにより、築城期間は「50日以内」と縮められた。築城期間は短ければ短いほど、「織田信長は凄い」となる。そして、築城期間を短くするには、各兵士が自分が泊まっている寺院から、石材や内装(襖絵など)を建設現場に運び込めばよい。
 二条城の築城期間と出来には、織田信長は満足したようである。10月16日   の細川藤賢亭で観能会の時、足利義昭は、織田信長に「小鼓を打つのが得意と聞いておる。打ってくれぬか」と所望したが、織田信長は断っている。ところが、4月14日には上機嫌で、自分から進んで小鼓を打ったという。

※関連記事:『信長公記』は偽書か?
https://note.com/senmi/n/n88aa35e31fc2

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