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『信長公記』「首巻」を読む 第33話「丹羽兵蔵御忠節の事」

第33話「丹羽兵蔵御忠節の事」

一、さる程に、上総介殿御上洛の儀、俄に仰せ出され、御伴衆八十人の御書立にて御上京なされ、城都、奈良、堺御見物にて、公方光源院義照へ御礼仰せられ、御在京候ひき。爰を晴れなりと拵へ、大のし付に車を懸けて、御伴衆、皆のし付にて候なり。
 清洲の那古野弥五郎が内に丹羽兵蔵とて、こざかしき者あり。都へ罷り上り候ところ、人体と覚しき衆、首々五、六人、上下卅人計り上洛候。志那の渡りにて、彼の衆乗り候舟に、同船仕り候。「何(いず)くの者ぞ」と尋ねられ、「三川の国の者にて候。尾張の国を罷り候とて、有随なる様体にて候間、機遣仕り候て、罷り越し候」と申し候へぱ、「上総、かいそうも程あるまじく候」と申し候。如何にも人を忍ぶ体に相見え候。詞のあやしき様体、不審に存知、心を付け、彼等が泊々あなりに宿を借り、こざかしきわらんべをちか付け、懇にして湯入りの衆にて候か。誰にて候ぞと尋ね候へば、三川の国の者にて候と申すに付いて、心をゆるし、わらんべ申す様に、「湯入りにてもなくて、美濃国より大事の御使を請取り、上総介殿の討手に上り候」と申し候。
 人数は、
小池吉内
平美作
近松田面
宮川八右衛門
野木次左衛門
是れ等なり。
 夜は伴の衆に紛れ、近々と引き付け、様子を聞くに、「公方の御覚悟さへ参り候て、其の宿の者に仰せ付けられ候はゞ、鉄炮にて打ち候はんには何の子細あるまじき」と申し候て、急ぎ候間、程なく夜に入り京着候て、二条たこ薬師の辺に宿を取り、夜中の事に候の間、其の家の門柱左右にけづりかけを仕り候て、それより上総殿御宿を尋ね申し候へば、室町通り上京うら辻に御座候由申す。尋ねあなり、御門を叩き候へば、御番を居置かれ候。「田舎より御使に罷り上り候。火急の用事に候。金盛か蜂屋に御目にかゝり候はん」と申し候。両人罷り出で、対面候て、右の様子一々懇に申し上げ候。
 則ち御披露のところに、丹羽兵蔵を召し寄せられ、「宿を見置きたるか」と御諚に、「二条たこ薬師辺へ一所に入り申し候。家宅門口にけづり懸け在り候て置き申し候間、まがひ申すまじき」と言上候。夫より御談合、夜も明け候。
 「右の美濃衆、金森存知の衆候間、早朝に彼の私宅へ罷り越し候へ」と仰せ付けられ候。丹羽兵蔵をめし列ね、彼の宿のうら屋へつつと入り、皆々に対面候て、「夕部、貴方ども上洛の事、上総介殿も存知候の間、さて参り候。信長へ御礼申され候へ」と、金森申し候。存知せしむるの由候つる、色をかへ仰天限りなし。
 翌日、美濃衆小川表へあがり候。信長も裁売より小川表御見物として御出で候。爰にて御対面候て、御詞を懸けられ候。「汝等を上総介が討手にのぼりたるとな。若輩の奴原が進退にて信長を濟ふ事、蟷螂が斧とやらん。実ならず。さりながら、爰にて仕るべく候や」と仰せ懸けられ候へば、六人の衆、難儀の仕合せなり。
 京童二様に褒貶なり。「大将の詞には似相はず」と申す者もあり、亦、「若き人には似相ひたる」と申す者も候べき。
 五、三日過ぎ候て、上総介殿、守山まで御下り、翌日、雨降り候と雖も、払暁に御立ち候て、あひ谷より、はつふ峠越え、清洲まで廿七里、其の日の寅の刻には、清洲へ御参着なり。

【現代語訳】

一、そうしているうちに、永禄2年(1559年)2月、織田信長は、「上洛する」と突然言い出した。御伴衆として80人を指名し、上京し、京都、奈良、堺を見物して、将軍・足利義輝に謁見しようと在京して、その時を待っていた。この上洛を「晴れの舞台」と意気込んで、織田信長は、大きな熨斗(金銀飾り)付で、家紋の木瓜紋を散りばめた太刀(一説に、長い太刀で、地面を引き摺るので、先端に車を付けていたという)を差し、御伴衆も全員熨斗付の太刀を差していた。
 清洲の那古野弥五郎の家臣に丹羽兵蔵という機転の効く者がいた。京都へ上る時、それなりの身分の武士らしき集団(頭級が5、6人と、手下約30人)が京都に向かっていた。「志那の渡し」(滋賀県草津市志那町)で、彼等が乗った船に同船した。「どこの国の人か?」と尋ねられたので、「三河国の者です。尾張国を通ってきたのですが、治安が乱れていて、気をつけて通り抜けました」と言うと、「織田信長は甲斐性無し(統治能力に欠けている)からなぁ」と言う。いかにも人を忍ぶ様子に見えた。また、話の内容も怪しかったので、不審に思い、気にかけておき、彼等が泊った宿の近くに宿を借り、機転の効く少年を手なづけて仲良くし、「湯治客か?」と尋ねると、三河国の者だと言っておいたので、気を許した少年が言うには、「湯治ではなく、美濃国から大事な使命を与えられ、織田信長を討ちに上洛するのです」とのことであった。その刺客一行のメンバーは、
小池吉内
平美作
近松頼母
宮川八右衛門
野木次左衛門
らであった。
 夜になって御伴衆に紛れ、近づいて、様子を伺うと、「将軍・足利義輝の覚悟して(決心して)、その宿の者に命令してもらえば、鉄砲で撃つのは問題がない」と言っていた。
 一行は急いでおり、翌日の夜には京都に入り、二条蛸薬師の近くに宿をとった。夜中の事であったので、丹羽兵蔵は、目印として、その宿の左右の門柱に切り傷を付けて、織田信長の宿(上京(京都市上京区)室町通りの裏辻)へ行った。門を叩くと、番人が出てきたので「国もとからの使者です。火急の用事がありますので、金盛殿か蜂屋殿に御目にかかりたい」と言った。
 両人(金森長近と蜂屋頼隆)が出てきて、対面して、事の次第を逐一丁寧に報告した。両人が織田信長に報告すると、織田信長は丹羽兵蔵を呼び、「宿を確認したか?」と言うので、「二条蛸薬師の近くの宿に全員入りました。宿の門に切り傷を付けておいたので、間違えることはありません」と返答した。それから相談するうちに、夜も明けた。
 織田信長は、金森長近に「(金森長近の父・金森定近は、土岐頼芸の家臣であり、)美濃衆に顔見知りがいるので、早朝、刺客たちの宿へ行ってみよ」と命じた。金森長近は、丹羽兵蔵を連れて、刺客たちの宿の裏口からさっと入って、刺客たちに対面し、「昨夜、あなたたちが上洛した事を織田信長は知っているから、挨拶されよ」と言った。刺客たちは、織田信長が知っていると聞いて顔の色を変えて驚いた。
 翌日、美濃衆は小川表へ行った。織田信長も「(寺や呉服店が立ち並ぶ繁華街である)立売から小川表を見物する」として宿を出た。対面すると、織田信長は次のように言った。
「お前らは、この織田信長を暗殺するために上洛したそうだな。若輩者が儂の命を狙うとは『蟷螂が斧』(カマキリが前あしを上げて、車の進行を止めようとするように、弱小者が、自分の力量もわきまえず、強敵に向かうこと)とやらだ。成功しない。それともここでやってみるか?」
 6人の刺客は「京都の繁華街で、大衆の面前で織田信長を襲ったらどうなるか?」と考えて躊躇した。京童部の意見は、「大将が言う言葉ではない」(ちょっと生意気だ)と「若い人らしい」の2つに分かれた。
 それから5、3日過ぎて、織田信長は、京都から守山(滋賀県守山市)まで下ると、翌日は雨降りであったにもかかわらず、明け方に宿を出て、相谷(滋賀県東近江市永源寺相谷町)から八風峠(滋賀県東近江市黄和田町)を越え、清洲まで27里(106km)を駆け、翌朝の寅の刻(午前4時前後)には、清洲へ帰城した。

【解説】

 織田信長って、暗殺されそうになったことが何度もあって、その都度、助かってるわけで、強運の持ち主だとしか言いようがない。
 それを思えば、暗殺計画を成功させた明智光秀は凄いと思う。

 今回は、織田信長がいつ上洛するか分かっていれば、道中で暗殺したのであろうが、突然上洛したので、刺客は、その後を追う形になった。織田信長が京都についてしまったので、京都で暗殺することになった。京都で暗殺すれば大変な事態に成るが、

 ──公方の御覚悟さへ参り候て

とは、足利義輝が信長暗殺を承認していたということだろうか?

 織田信長としては、京都で刺客を討つと、足利義輝が相手側にいる以上、「京都で騒ぎをおこすとは・・・証拠はあるのか?」「喧嘩両成敗で切腹!」と言われそうなので、啖呵を切ったものの、急いで帰城した(逃げた)。

 ところで、上洛の目的は「足利義輝に会うこと」であろうが、会えたのであろうか? 会って何を言ったのであろうか?

「信長上洛し、将軍義輝公へ参勤を遂げ、尾張守護職を拝せらる。是より尾張は一円に進止ありけるぞ、目出度かりける。」(『清洲合戦記』)

 ──上総、かいそうも程あるまじく候。

 まだ尾張国は統一されていません。尾張国が織田信長によって統一され、尾張国守護に就任すれば、「甲斐性なし」とは言えなくなります。

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