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元亀3年(1572年)の事(『麒麟がくる』第36回「訣別」)

『麒麟がくる』第36回「訣別」では、元亀3年(1572年)の事が詳しく扱われませんでしたので、まとめておきます。

■元亀3年(1572年)略年表


--------織田&足利軍 vs 松永&三好軍-------------------------------------------

4月   松永久秀&三好義継、高屋城・畠山秋高の家臣を攻める。
      織田信長&足利義昭、援軍を送る。
4月16日 織田信長&足利義昭軍、交野に着陣。
      交戦するが、松永&三好軍、各居城へ退散。
4月29日 多聞衆と筒井足軽衆が大安寺で交戦。(『多聞院日記』)
5月2日   朝倉義景から三好義継への密使を捕らえて焼き殺す。
5月9日   筒井順慶、多聞山城を攻撃。(『多聞院日記』)
5月11日 河内国出陣の衆、各帰陣、上洛。(『兼見卿記』)
5月14日 織田信長、京都を出る。(『明智軍記』では5月20日)
5月19日 織田信長、岐阜へ戻る。(『信長公記』)

--------織田軍 vs 浅井&朝倉軍---------------------------------------------------

7月19日 織田信長&奇妙丸、出陣(奇妙丸の初陣)。
7月21日 織田軍、小谷城攻め。
7月23日 織田軍、余呉、木之本方面へ侵攻。
7月24日 織田軍、草野方面へ侵攻。
7月27日 織田軍、虎御前山に砦を築く。
8月2日   朝倉義景、15000人の援軍を率いて小谷城に入る。
8月8日   朝倉軍の前波九郎兵衛父子が織田方に寝返る。
8月26日 浅井&朝倉軍、柴田勝家の本陣に放火。
      織田信長&奇妙丸、帰陣。(『明智軍記』)
9月16日 織田信長&奇妙丸、横山城に帰陣。(『信長公記』)
9月      織田信長、岐阜帰城。足利義昭に「十七ヶ条の異見書」を送る。

--------徳川&織田軍 vs 武田軍---------------------------------------------------

10月3日   武田信玄、出陣(西上作戦)。
12月22日 徳川&織田連合軍、武田信玄に大敗(「三方ヶ原の戦い」)。

1.織田&足利軍 vs 松永&三好軍

『信長公記』(巻3)元亀元年
南方三好三人衆の事、野田、福島の普請を改め、諸牢人、河内、摂津国端ばしへ打ち廻し致すと雖も、高屋に畠山殿、若江に三好左京大夫、片野に安見右近、伊丹、塩河、茨木、高槻、何れも城しろ堅固に相拘へ、其の上、五畿内の衆、塞々陣取り候の間、京口への行(てだて)、なかなか及びなき儀に候。
【現代語訳】南方の三好三人衆は、野田城、福島城を補強し、浪人たちが河内国や摂津国のあちこちで気勢をあげたが、(この三好三人衆への備えとして)高屋城に畠山秋高、若江城に三好義継、交野城に安見信国、伊丹、塩河、茨木、高槻などに堅固な城があり、各所に砦もあって、三好三人衆は、京都へ攻め入ることが出来なかった。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/95

高屋城(大阪府羽曳野市古市)の畠山秋高(昭高):河内国南半国の領主。河内国守護・畠山高政(畠山尾州家宗主)の弟。足利義昭が「義秋」と名乗っていた時期に「秋」の1字を賜る。畠山氏は、以前は河内国守護で、本拠地は若江城であった。
若江城(大阪府東大阪市若江南町)の三好義継:三好家宗主。松永久秀と共に織田信長に取り入ると、若江城を与えられ、河内国北半国の領主となった。足利義昭は、松永久秀と共に、兄・足利義輝の仇だとして恨んでいる。
交野城(大阪府交野市私部6丁目)の安見信国:元亀2年、松永久秀に呼び出されて自刃。元亀3年時の城主・安見新七郎や安見宗房(直政)との続き柄は不明。同族だが親子ではないという。

 元亀3年4月、松永久秀は、三好義継と共に、高屋城主・畠山秋高の家臣である交野城主・安見信国を襲った。織田信長は、幕府軍と共に出陣。足利義昭は、「今度こそ兄・義輝の仇を討てる」と意気込んだが、逃してしまう。

『年代記抄節』
4月17日(注:16日の誤り)、南方へ御手遣也。公方衆は、細川兵部大輔、三淵大和守、上野中務大輔、明智、信長方には佐久間右衛門尉、柴田、此の外、池田、伊丹、和田以下相向ひ、河内国キサイへの城(注:私部(きさべ)城。交野城の別称)の相城1つ落つ。同30日夜也。人数落行、其後、若江辺堺口まで打ち廻り、大和国へ打ち越し、山城より京へ入る。5月11日也。

※明智光秀は「信長方」ではなく、「公方衆」って認識なんですね。とすると、織田信長と一緒に比叡山を焼いたり、志賀郡をもらったりすれば、足利義昭は怒りそう。

 この戦いについては『明智軍記』(巻第4)「信長被問明智軍鑑事付畠山事」に詳しく書かれているのですが、『明智軍記』は、日付が史実と異なるので、内容も史実と違うのではと思ってしまいます。たとえば、織田信長は、5月20日に京都を出たと『明智軍記』にあるのですが、吉田兼見『兼見卿記』に5月14日に京都を出た(吉田兼見は路次で見送った)とあり、『信長公記』には5月19日に岐阜に着いたとあります。

太田牛一『信長公記』(巻5)
 去る程に、三好左京大夫殿、非儀をおぼしめしたち、松永弾正、息右衛門佐父子と仰せ談ぜられ、畠山殿に対し既に鉾楯(むじゅん)に及ばれ候。安見新七郎が居城交野へ差し向ひ、松永弾正、取出を申しつけ候。其の時の大将として山口六郎四郎、奥田三川、両人勢衆三百ばかり取出に在城也。
 信長公より、討ち果たすべきの旨にて遣はさるゝ御人数、佐久間右衛門、柴田修理亮、森三左衛門、坂井右近、蜂屋兵庫、斎藤新五、稲葉伊予、氏家左京亮、伊賀伊賀守、不破河内、丸毛兵庫、多賀新左衛門、此の外、五畿内、公方衆を相加へ後詰として御人数出だされ、取出を取巻き、鹿垣結び回し置かられ候処に、風雨の紛れに切り抜き候之也。三好左京大夫殿は若江に立て篭もり、松永弾正は大和の内、信貴の城に在城也。息・右衛門佐は奈良の多聞に居城也。
 五月十九日、信長公天下の儀、仰せ付けられ、濃州岐阜に至りて御下り。

【現代語訳】 この頃(元亀3年4月)、三好家宗主・三好義継(河内国北半国の領主)が謀反を企て、松永久秀&久通父子と共謀して、畠山秋高(河内国南半国の領主)を攻めた。松永&三好勢は、畠山家臣・安見新七郎の居城・交野城へ向かい、松永久秀は砦を築かせた。松永&三好勢の大将は、山口六郎四郎と奥田忠高の2人で、兵数は300人であった。
 織田信長から派遣された討伐軍は、織田軍の佐久間信盛、柴田勝家、森長可、坂井政尚、蜂屋頼隆、斎藤新五、稲葉良通、氏家直通、安藤守就、不破光治、丸毛長照、多賀常則である。これに五畿内の幕府軍(公方衆)を加えて後詰めとし、松永方の砦を取り囲み、鹿垣を築いたが、松永&三好勢は、風雨に紛れて脱出し、三好義継は若江城に、松永久秀は大和国の信貴山城に、松永久通は多聞山城に立て篭もった。
 5月19日、織田信長は、京で政務処理し、美濃国岐阜へ帰った。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/98

 以上、この戦いは、「謀反を起こした三好義継と松永久秀を討つ戦い」なので、足利義昭はノリノリでしたが、『明智軍記』によれば、織田信長は、交野城が堅固であることを知って安心し、動きが鈍ったとあります。
 私が織田信長だったら、「俺? 筒井順慶に松永久秀と手を切らせて、やらせればいいじゃん」と愚痴りたくなります。4月4日に、明智光秀らが連名で、河内国の片岡弥太郎に対し、来たる4月14日に織田軍の河内国出征が決定したとして、「出勢」(出陣)と「合城」(合流して加勢)を要請し、番手をどのようにするか貴国衆(河内衆)で相談して馳走せよと命じています。「10日後に」というのは、「疾風陣」と呼ばれた織田軍にしては動きが鈍いですね。

元亀3年4月4日付片岡弥太郎宛柴田勝家等連署状(「根岸文書」)
 来14日、河州へ可被出御人数相定候。然者、有御出勢、合城之事、堅固に可被仰付之旨候。番手可被置入模様者、貴国衆被成調談、此節別而御馳走肝要に存候。此通可申入之旨候。不可有御油断候。恐々謹言。
 卯月4日            柴田修理亮
                  勝家(花押)
               佐久間右衛門尉
                                                                 信盛(花押)
                                                       滝川左近
                  一益(花押)
               明智十兵衛尉
                  光秀(花押)
 片岡弥太郎殿
    御宿所

2.織田軍 vs 浅井&朝倉軍


 「浅井木下系図」では、浅井国吉(還俗した昌盛法師)は、木下高泰の娘婿となって木下国吉と名乗り、そのひ孫の木下秀吉が豊臣秀吉だとしている。それで、「金ヶ崎の退き口」では、同族・浅井長政謀反の責任をとって、殿(しんがり)を務め、今も横山城(滋賀県長浜市石田町)で同族・浅井長政に睨みを効かせているのだという。豊臣秀吉がお市と結婚したかったのは、「織田信長の妹を妻にして出世したい」という願望もあるが、「本家の妻を奪って優越感に浸りたかったため」だとも。

 浅井重政┬忠政─賢政─亮政─久政─長政【浅井家】
     └昌盛法師(国吉)─吉高─昌吉─秀吉【木下家】

 さて、初陣とは、敵の城下町に放火して帰城し、「勝ったぞ~」と宴会を開くという、1日がかりのイベントである。

・織田信長(14歳)の初陣:「吉良大浜の戦い」(大浜城下へ放火)
・徳川家康(17歳)の初陣:「三河寺部城の戦い」(寺部城下へ放火)

 奇妙丸(16歳)の初陣は、木下秀吉がセッティングしたのか?
 奇妙丸の初陣は、小谷城(滋賀県長浜市湖北町伊部)へ行って、城下に放火するだけかと思いきや・・・7月19日に出陣し、美濃国不破郡赤坂村(岐阜県大垣市赤坂町)着。翌20日に木下秀吉が守る横山城(滋賀県長浜市石田町)に泊まり、21日に小谷城攻め。城下に放火するだけにとどまらず、雲雀山砦(滋賀県長浜市山ノ前町)、虎御前山砦(滋賀県長浜市中野町)に兵を入れ、木下秀吉が付き添って小谷城の水の手まで攻め上げた。結局、7月19日~9月16日の2ヶ月間にわたる大イベントとなった。

太田牛一『信長公記』(巻5)
 七月十九日、信長公の嫡男奇妙公、御具足初に信長公御同心なされ、御父子、江北表に至りて御馬を出だされ、其の日、赤坂に御陣取り。次の日、横山に御陣を居ゑられ、廿一日、浅井居城大谷(おだに)へ推し詰め、ひばり山、虎後前山へ御人数上せられ、佐久間右衛門、柴田修理、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、蜂屋兵庫頭の仰せつけられ、町を破らせられ、一支もさゝへず推し入り、水の手まで追ひ上げ、数十人討捕る。柴田修理、稲葉伊予、氏家左京助、伊賀伊賀守、是れ等を先手に陣どらせ、次の日、阿閉淡路守楯籠もる居城・山本山へ、木下藤吉郎差し遣はされ、麓を放火候。然る間、城中の足軽百騎ばかり罷り出で、相支へ候。藤吉郎見計らひ、どうと切りかゝり切り崩し、頸数五十余討ち捕る。信長公、御褒美斜ならず。

【現代語訳】7月19日、信長公は嫡男・奇妙丸の具足初めに同行して、父子で江北方面へ出陣した。その日(7月19日)は赤坂に宿陣し、翌日(7月20日)横山城に至り、7月21日、浅井長政の居城・小谷山城まで押し寄せ、雲雀山と虎御前山に兵を登らせ、佐久間信盛、柴田勝家、木下秀吉、丹羽長秀、蜂屋頼隆に命じて城下町を破壊させ、難なく敵を城の水場まで追い詰めて、数十人を討ち取ると、柴田勝家、稲葉良通、氏家直通、安藤守就らが先手として陣を敷いた。 
 翌日(7月22日)には、阿閉貞征が立て篭もる居城・山本山城へ木下秀吉が遣わされ、山麓を放火させた。すると城内から100人余りの足軽が出てきたので、応戦した。木下秀吉は、頃合を見計らってどっと切りかかり、打ち崩して50余の首をあげた。織田信長からは、多大なる褒賞を受けた。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/98

※『明智軍記』(巻第4)「北近江江度々働事付従遠州注進事」には、奇妙丸の初陣だとは書いておらず、7月下旬に出陣し、8月26日に帰陣したが、また10月上旬に出陣したとあります。

『明智軍記』(巻第4)「北近江江度々働事付従遠州注進事」
 同7月下旬、信長朝臣、多勢を卒し、江州浅井郡へ打入給、方々敵城を押へて、小谷の近所、雲雀山に本陣を居られ、浅井下野守久政、同・備前守長政と日々夜々に迫合て、小谷の町口少々放火し、数日滞在の間に、苅田被仰付、稲共悉く佐和山、横山、長浜三箇所の城々へ取入させ、敵の人民を悩し、方々民屋を焼払、8月26日に帰給ひ、9月中は休息有て、10月上旬に、又、北近江へ発向し給ひ(後略)

3.徳川&織田軍 vs 武田軍


徳川&織田連合軍と、武田信玄との戦いは、次のようであった。

『二〇一五年 徳川家康公顕彰四百年記念事業 浜松部会記念誌』
・浜松市出身の百田夏菜子さんが表紙の本

三方ヶ原合戦 二俣城を攻略した武田信玄は、十二月二十二日早朝には浜松方面へ進軍した(軍勢三万)。神増(かんぞう)付近で天竜川を渡り、秋葉街道を南進し、欠下付近(東区)で三方原台地へ上ったという。軍勢の一部は新原付近(浜北区)で三方原台地へ上ったという言い伝えもある(休兵坂伝承)。大菩薩山で陣を整え、追分から祝田(ほうだ)坂に至った付近で追撃した徳川勢(軍勢一万一千)との間で合戦となった。すでに夕暮れ時であった。石合戦から始まり、初めは互角の戦いであったが、やがて徳川勢が総崩れとなり、敗走した。家康も命からがら玄黙口から浜松城に逃げ帰った。追撃した武田勢は犀ヶ崖付近に本陣を構えた。夜半には徳川勢の夜襲もあり、混乱した武田方には犀ヶ崖に落ちて死傷した者も多かったと伝えられる。

「三方ヶ原の戦い」は有名な戦いであるが、実は謎だらけである。

【参考記事】「実は謎だらけの「三方ヶ原の戦い」」
https://note.com/senmi/n/nb6558b10af98
【参考記事】「三方ヶ原の戦い【詳細編】合戦場を歩きながら考察!なぜ家康は無謀な戦いを?」
https://bushoojapan.com/bushoo/takeda/2020/02/04/104134

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