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実は謎だらけの「三方ヶ原の戦い」

 「三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)」は、元亀3年12月22日(1573年【グレゴリオ暦】2月5日【ユリウス暦】1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(天竜川が流れる浜松平野の西岸の台地)で繰り拡げられた武田&北条連合軍と徳川&織田連合軍の戦いです。

※「三方ヶ原」って、今の感覚では「東名高速道路(追分)~都田テクノポリス(新都田)」なんですが、「銭取」には山賊が出たようで、当時の人の感覚では、もっと南から「三方ヶ原」だったようで、「小豆餅」は、当然、「三方ヶ原」です。地理学的には「三方ヶ原の南端は浜松城」ですが、本稿で「三方ヶ原」と言ったら、「追分より北の地域」ってことでよろしくです m(_ _)m

・武田&北条連合軍30000人=武田本隊23000+山県隊5000+北条軍2000
・徳川&織田連合軍11000人=徳川軍8000+織田軍3000

 三方ヶ原を横断中の武田&北条連合軍を徳川&織田連合軍が襲ったのですが、大敗しました。一説に、武田&北条連合軍の戦死者490人に対し、徳川&織田連合軍の死者は約2倍の1080人だったといいます。

 よく知られた合戦であり、謎(論点、要検討項目)は、

 (1)武田信玄の西上作戦の目的
 (2)武田信玄は浜松城をスルーしたのに、徳川家康が出陣した理由
 (3)合戦がおこなわれた場所、経緯等の詳細

くらいしかないのだそうです。
 本稿では(3)の「合戦がおこなわれた場所」をまとめておきます。

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武田信玄の行動は、

①合代島砦に布陣。
②天竜川の浅瀬(神増付近)を渡り、三方ヶ原の麓「欠下」へ。
③欠下から三方ヶ原に登り(信玄街道)、欠下城(大菩薩山)で休憩。
④三方ヶ原を横断中に徳川&織田連合軍が襲撃(「三方ヶ原の戦い」)。
⑤合戦後、刑部砦へ。
⑥刑部砦から出陣。三河国へ侵攻し、野田城を攻める。
⑦西上作戦を断念。野田城から甲府への帰路で死没。

です。

①合代島砦

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 「二俣城攻め」の間、武田信玄がいた合代島砦(静岡県磐田市合代島)はどこにあったのか?

 合代島砦は杜山城(静岡県磐田市社山)であると考えられていました。杜山城からは浜松城がよく見えるので、武田信玄は、徳川家康を常に睨んでいたといいます。ところが、武田信玄に奪われた二俣城を取り返すために、徳川家康が兵を入れた城砦は「合代島砦、杜山城など」とあり、合代島砦が杜山城ではないことは明らかであり、亀井戸城(静岡県磐田市下野部町亀井戸)が発見されると、「合代島砦である可能性が高い」と話題になりました。

 いずれにせよ武田軍は3万人いたので、1ヶ所だけにいたとは思われず、滞在期間の長さや寒い季節であることを考えると、武田信玄は堅固な建物にいたはずで、個人的には、「合代島砦=合代島のお寺」(「長篠の戦い」の時に、武田勝頼が医王寺を本陣としたようなもの)だと思っています。

②「天竜川の戦い」?

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 武田信玄は、天竜川の浅瀬(「神増」付近)を渡り、三方ヶ原の麓(「欠下」付近)に達したそうです。(武田軍は、天竜川の浅瀬を知らなかったが、二俣城を救おうと出陣してきた徳川軍が退却する様子を見て浅瀬を知ったという。)

 今日現在(12月11日)、静岡県内で雨量が少ない状況が1ヶ月以上にわたり、静岡市を流れる安倍川が、表流水が途切れる「瀬切れ」状態になっています。当時の天竜川は、水源地の諏訪湖は凍りつき、梅雨時に比べれば水量が少なかったと思われますが、「瀬切れ」までは至っていないでしょう。というのも、天竜川に筏を何度も流し、水の手(給水路)を断って二俣城を落としたと伝わっていますから。

 「三方ヶ原の戦いはなかった説」によると、当時の三方ヶ原には家も、道も無く、一面、柴(萩のような低木)が生えていて、合戦が行える状態ではなく、合戦は武田信玄の渡河中に行われた「天竜川の戦い」だったそうです。

③欠下城(大菩薩山)


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 武田信玄は、「欠下」の「大菩薩の坂」で三方ヶ原に登り、「欠下城」(八幡大菩薩が祀られていた大菩薩山の山頂)で休憩(昼食)し、三方ヶ原を横断しました。

 「欠下城」は、上の地図では、「二俣街道」(現在の「飛龍街道」)を南下してきた武田信玄が西に直角に曲がった地点(水色の線は東名高速道路)の山上にあり、城の北部は、東名高速道路の建設で削られました。なお、この大菩薩山(城山)は私有地で、立入禁止ですので、標識は、上の写真のように、大菩薩山(城山)の東麓にあります。

 武田信玄が三方ヶ原を横断した道(欠下~追分~祝田)の「欠下~追分」部分を「信玄街道」、「追分~祝田」部分を「鳳来寺道」(「半僧坊道」「金指街道」とも)と呼びますが、当時、三方ヶ原に道は無く、柴刈のために台地に登る「大菩薩の坂」「祝田坂」だけがあったといいますが、三方ヶ原で徳川家康は鷹狩をしているので、人馬が入れないわけでもなさそうです。

④「三方ヶ原の戦い」


 三方ヶ原を横断中の武田&北条連合軍を徳川&織田連合軍が襲撃した合戦を「三方ヶ原の戦い」といいますが、どこで行われたのか不明です。

・上述の天竜川説(池田利喜男)
小豆餅付近説(旧陸軍参謀本部『日本戦史 三方原役』)
祝田坂上説(高柳光壽『戦国戦記1 三方原之戦』)
大谷東坂上説(鈴木千代松『三方原の戦いの研究』)
都田丸山南説(岩井良平『三方原の戦と小幡赤武者隊』)

の5説があります。

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 現地の案内板の地図は、武田信玄は、欠下から追分まで「信玄街道」を往き、追分から「鳳来寺道」に入り、祝田の坂を下っている時に徳川家康に襲われたことを示しています。武田信玄は、根洗い松(一本松)に本陣を置き、物見は根洗い松に登って戦況を見ていたそうです。

古文書には、戦場について、
・浜松城から北へ1里
・浜松城から北へ3里
とあり、「1里」が正しければ「小豆餅~大谷東坂上説」が正しく、「3里」が正しければ「祝田坂上~都田丸山南説」が正しいことになるでしょう。

 当時、三方ヶ原の道は、上の地図の「鳳来寺道」はなく、南端を縦断する「本坂道(姫街道)」と北端の都田を通る道があり、武田信玄は、「小豆餅~大谷東坂上説」では南端の道、「祝田坂上~都田丸山南説」で北端の道を通ったことになります。

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※『日本戦史 三方原役』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771076

■小豆餅~大谷東坂上説


 当時、「三方ヶ原」には、家も、店も、何もありませんでしたが、金原明善が三方原用水を引いて、茶畑が出来ました。現在は、住宅地やジャガイモ畑(「三方原馬鈴薯」というブランド名の白いジャガイモの耕作地)になっています。建物の建設前に土地を掘り起こして何が出てきたかと言うと、
「何も出てこなかった」
 現在、「三方ヶ原の戦い」の遺物とされるのは、小豆餅で見つかった刀の鍔1個だけであり、「三方ヶ原の戦い」は小豆餅付近で行われたと考えられます。

 三方ヶ原には「小豆餅」「銭取」という地名があります。これは「三方ヶ原から浜松城へ引きあげる途中の徳川家康が茶店で小豆餅を食べたが、武田軍が迫ってきたため代金を払わず逃げた。これを茶店の老婆が追いかけ、家康から代金を取った」という伝説による地名で、小豆餅を食べた場所が「小豆餅」、代金を払った場所が「銭取」だというのですが、これは後世の付会であり、実際は、「三方ヶ原の戦い」での死者を弔うために小豆餅を供えた場所が「小豆餅」で、山賊が住んでいて銭を取った場所が「銭取」です。小豆餅を供えたということは、「三方ヶ原の戦い」は小豆餅付近で行われたからでしょう。

 現在は、浜松市出身の高柳博士の「祝田坂上説」が通説となっています。(石碑も小豆餅から三方原墓園に移されました。)

 郷土史家・鈴木千代松氏は、三方ヶ原を隈なく徹底的に歩き回り、「何もない」とされてきた「三方ヶ原の戦い」の遺物を2つ発見しました。大谷東坂上の武田信玄本陣「おんころ様」と徳川家康本陣「精鎮(しょうちん)塚」です。

 「三方ヶ原の戦い」の前、徳川家康は、武田&北条連合軍の視察に行かせました。ところが見つかってしまって「三箇野川の戦い」となり、徳川軍の援軍が加わって「一言坂の戦い」に発展したといいます。

 ──この「三方ヶ原の戦い」の前哨戦と同じことが起きた? 

 徳川家康は、石川隊に武田&北条連合軍の視察に行かせました。ところが見つかってしまって「小豆餅の戦い」となり、徳川軍の援軍が加わって「大谷東坂上の戦い」に発展したのではなでしょうか?
 主戦地は、大谷東坂上を含む「本坂道(姫街道)」沿いではないでしょうか?

『明智軍記』
 12月22日、大君、手勢を卒し、味方原と申す所へ出向ひ、魚鱗、鶴翼に備へて、敵の様子を見計らひ候処に、早雄(はやりを)の家来の者、下知をも待たずして、敵の堅甲(けんかふ)の処へ切って懸るの間、先手の輩、止む事を得ずして備へを乱し、武田と一戦に及び候故、総軍、是非無く、雌雄を決すと雖も、終に利、之無く、内々、御合力に候、平手監物清澄を始め、手の者には、本多肥後守、榊原摂津守、鳥居四郎左衛門、松平弥右衛門以下、戦場にして命を落とし候。其の外の者共、余多疵を蒙り晩景に及びて浜松城に引き返し畢んぬ形部(をさかべ)と申す所に屯して、猶、大君の領知を犯し、越年せしめ候。

※味方原:「三方ヶ原の戦い」での敗戦後、徳川家康は「味方ヶ原」と表記を変えた。「曳馬」を「引間」に変えたようなものである。
※平手監物の諱は「汎秀(ひろひで)」。「清澄」は初見。

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■祝田坂上~都田丸山南説


 当時、三方ヶ原には道はなく、武田信玄は、三方ヶ原北端の「休兵坂」(赤佐氏(後の奥山氏)発祥地・赤佐→小野氏発祥地・小野(尾野)→瀬戸方久の屋敷があった瀬戸→井伊直親の屋敷や菩提寺があった祝田と結ぶ井伊氏領の道)を通ろうとしたという伝承があります。ようするに、「二俣城攻め」に加勢に来た山県隊が通った道を逆行しようとしたのです。ただ、この道は瀬戸谷が険しかったので引き返したところ、徳川家康が襲ってきたので、武田信玄は、三方ヶ原が一望できる三方ヶ原北端の「丸山」(静岡県浜松市北区新都田1丁目の「都田丸山緑地」。昔は松茸の産地として有名)に本陣を置き、「三方ヶ原の戦い」はその南麓で行われたといいます。

 ──追分から丸山まで道はないはず。どこを進軍した?

大久保彦左衛門『三河物語』
 信玄は、上方に御手を取衆の多くありければ、三河へ出て、それより東美濃へ出て、それより切って上らんとて、味方が原へ押し上げて井の谷へ入り、長篠へ出んとて、祝田へ引き下ろさんとしける処に、元亀3年壬申12月22日、家康、浜松より3里に及びて、「打ち出させ給ひて、御合戦を成さらるべし」と仰せければ、各々年寄共の申し上げけるは、「今日の御合戦、如何に御座有るべき候哉。敵の人数を見奉るに、3万余と見申し候。其故、信玄は、老武者と申し、度々の合戦に慣れたる人なり。御味方は僅か8千の内外御座有るべき哉」と申し上げければ、「其の儀は何は共あれ、多勢にて我が屋敷の背戸を踏み切りて通らんに、内に有りながら、出て尤(とが)めざる者哉あらん。負くればとて出て尤むべし。その如く、我が国を踏み切りて通るに、多勢なりというて、などか出て尤めざらん哉。兎角、合戦をせずしてはおくまじき。人は多勢、無勢にはよるべからず。天道次第」と仰せければ、各々「是非に及ばず」とて押し寄せけり。
 敵を祝田へ半分過ぎも引き下ろさせて、切ってかからせ給ふならば、やすやすと切り勝たせ給はんものを、はやり過ぎて、早くかからせ給ひし故に、信玄、度々の陣にあひ付き給へば、魚鱗に備へを立て、引きうけさせ給ふ。家康は鶴翼に立てさせ給へば、少勢という手薄く見えたり。(後略)

【大意】武田信玄は、畿内に同志が多くいたので、三河国へ出て、そこから東美濃へ出て、そこから上洛しようと思って、「味方が原」に登って井伊谷へ入り、長篠へ向かおうとして、味方ヶ原から祝田へ下ろうとした時の元亀3年壬申12月22日、徳川家康は、武田信玄が浜松城から3里(12km)までに迫った時点で「出陣して合戦する」と言ったので、家老衆は、「今日、合戦をするべきだろうか? 敵はざっと3万人で、敵将の武田信玄は、何度も合戦の経験がある巧者であるのに、こちらは8000人前後しかいない」と申し上げたが、徳川家康は「何はともあれ、屋敷の裏口を通り抜けようとする者を見つけたら怒るのと同じで、両国を横断中の敵を見て「大軍だから」と見過ごすわけにはいかない。そもそも勝敗は兵数にはよらず、天道次第」と言ったので、「大将がそう言うのであれば、是非に及ばず(良いも悪いもない、仕方がない)」と言って浜松城から出陣した。
 敵が祝田へ半分以上下りてから、坂の上から襲撃すれば、簡単に勝てたものを、意気込んで、襲撃するタイミングが早すぎた。百戦錬磨の武田信玄は、魚鱗(縦長)に備えさせ、「奥はどこなのか、どこまで続くのか」と恐怖感を与え、徳川家康は、本坂道に沿って鶴翼(横長)の陣型にしたので、薄っぺらい壁のように見えた。(後略)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906666/112

《武田信玄の西上作戦》

甲斐国→駿河国→遠江国(味方ヶ原→祝田→井伊谷)→三河国(野田→長篠)→美濃国(東美濃→岐阜城)→京

※ルイス・フロイスによれば、西上作戦の口実は「延暦寺の再興」であり、織田信長を討った後、上洛して将軍・足利義昭に織田信長討死の報告をする予定だったという。

《元亀3年12月22日の武田信玄の行動》

合代島砦(朝食)→欠下城(昼食)→合戦→刑部砦?(夕食)

 杉浦国頭の地誌『曳馬拾遺』(1713)に「12月22日に此の原に打ち出でて、信玄の本陣は丸山に据ゑられ、先手は追分の程まで屯す」とあります。つまり、武田&北条連合軍(本陣:丸山)は、丸山から追分まで南北に長い「魚鱗の陣」で、徳川&織田連合軍(本陣:小豆餅)は姫街道上(上の絵図では小豆餅坂上)に並んだ東西に長い「鶴翼の陣」だったのでしょう(両軍で「┴」のような感じ。)

 祝田坂を下っている時に襲おうと思ったけど、祝田坂の道幅がせまく、大渋滞となり、徳川軍が追分に到着すると、武田信玄はまだ三方ヶ原の台地上にいて、しかも、最後部はまだ信玄街道にいて、徳川家康は驚いたことでしょうね。

■戦死者の墓


 両軍併せて1000人以上が亡くなっています。
 仏教には「怨親平等」という言葉があります。「怨」は相手、「親」は自分であり、死ねば敵味方の違いはなく、同じ墓に入れるというのです。実際、死者は、首を切られ、防具や武具は奪われて売られるわけで、首のない死体を見ても、どこの誰であるか、敵なのか味方なのか判断できないので、大きな穴を掘って一緒に埋められ、塚となります。これを「千人塚(戦人塚)」といいいますが、発掘の結果、「千人塚」(静岡県浜松市東区有玉西町)は、戦国時代の墓ではなく、古墳時代の「千人塚古墳」(直径49.0m、高さ7.2mの円墳)だと判明しました。
 つまり、戦死体がどこに埋められたのか、今も不明なのです。個人的には、あまりにも数が多く、穴を掘るのが大変なので、「犀ヶ崖」に捨て、供養として「遠州大念仏」を始めたのではないかと思うこともありますが、当時の人々は、戦死体を粗末には扱わなかったので、武田軍の戦死体は「おんころ様」、徳川軍の戦死体は「精鎮塚」に埋められたのかもしれません。(それとも、権現谷とか、富塚か?)

半田(はんだ):「秦田(はただ)」の転訛であり、秦氏の居住地で、機織りが盛んだった地域。式内・朝日波多加神社(旧・有玉畑屋村本祠山鎮座。「波多」「畑」は「秦」)があったという。「半田山古墳群」や「千人塚古墳」を含む「千人塚平古墳群」といった三方原東端の古墳を一括して「三方原古墳支群」といい、163基の存在が確認されていたが、現在確認できるのは20基である(浜松医科大学は、70基の古墳を破壊して建てられた。)

富塚(とみつか):語源は「塚に富む(古墳が多い)」というが、なぜか古墳は数基しか確認されていない。多くの塚があったはずなのだが・・・。

⑤刑部砦

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 戦いが終わり、徳川家康は浜松城に帰城し、武田信玄は刑部砦へ入って越年しました。刑部砦が刑部のどこにあったかは不明です。
刑部村前山(浜松市北区細江町中川前山。姫街道脇の石碑の北側一帯のミカン畑)の小陣屋と気賀村堀川~油田の大陣屋をあわせて「刑部砦」という(『浜松御在城記』)。
・「刑部村の上油田」にあった(『野田実記』『菅沼記』など)。
陣座ヶ谷にあった(地元の伝承)。
陣内平にあった(高山新司説)。
・単純に考えて刑部城のこと。(当時の刑部城は上油田まで続いていたが、現在はショートカットされた姫街道で三方ヶ原と分断され、城山が独立峰に見える。)
など諸説あります。

 いずれにせよ、3万人も入れないので、武田&北条連合軍は各所に散らばりました。武田勝頼は三岳城に入ったそうです。

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《織田軍》
・「信長公御家老の衆、佐久間右衛門、平手甚左衛門、水野下野守大将として、御人数遠州浜松に至り参陣」(『信長公記』)
・「佐久間右衛門尉、平手甚左衛門を両将とし、林佐渡守、水野下野守、毛利河内守、美濃三人衆、都合三千の人数を遣はされ」(『総見記』)
(注)「美濃三人衆」の氏家卜全(氏家直元)は、元亀2年5月12日に討死しています。

※研究書『浜松御在城記』
信玄、富塚の内、権現谷に陣取る。百姓の妻子、乱妨取り仕るに付き、百姓、自焼して退き申し候。平口原へ引き取り、陣屋を建てられるべく支度の処に、是をも百姓、自焼して迯(に)げ申し候に付きて、24日、刑部の内、前山に引き取り、前山、陣平2ヶ所に(気賀堀川の陣平と当国2ヶ所)、陣屋を建て(陣平は大陣屋、前山は小陣屋)、三方ヶ原、小豆餅、大反、小反の間にて迫り合ひあり。後は三岳峰迄引き入れ、陣城を構へて、信玄、越年せらる。


 武田信玄が当日(22日)の夜に泊まったのは、刑部砦ではなく、浜松城近くの犀ヶ崖に設営した本陣だといいます。
 また、徳川家康が本陣を置いたので「権現谷」(静岡県浜松市中区和合町)と名付けられた場所(上の絵図参照)だとも。権現谷の人たちは、武田&北条連合軍の「乱妨」(乱取り。略奪や強姦)に耐えられず、家々を自焼して(自ら村に火を放って)逃げたので、武田&北条連合軍は三方ヶ原を横断(逆戻り)して、欠下城付近の平口原(静岡県浜松市浜北区平口)へ戻ったのですが、ここでも村民は自焼して逃げ、24日になって、ようやく刑部砦に入ったそうです。
 刑部村では、5年前の永禄11年(1568年)に徳川家康による大虐殺「堀川城の戦い」が行われ、庶民は徳川家康を恨んでいましたので、武田&北条連合軍を大歓迎したそうです。(大歓迎されたので、体調のこともあって長居(越年)したのかもしれませんね。)

※堀川城の戦い:城兵=庶民2000人を1日で1000人殺し、残り1000人については、執拗に半年間捜索して700人を捕らえ、打首にし、首を晒した。この700の首は、刑部砦の麓の円頓寺(浜松市北区細江町中川前山寺屋敷。現在は廃寺)に埋められ、供養された。

 武田信玄は、当日(22日)、祝田坂を下って宿泊所・刑部砦に入ろうとしたとするのが「祝田坂上説」ですが、徳川家康の本陣を奪って宿泊所としたのであれば、「大谷東坂上説」が正しそうです。
 三方ヶ原(浜松城から北へ3里の場所)を掘り返しても遺物が出ないのは、そこで合戦が行われなかったから、合戦は浜松城から北へ1里の場所で行われたからでは?

「三方ヶ原の戦い」は、まだまだ謎は多いぞ!

※参考記事:「三方ヶ原の戦い【詳細編】合戦場を歩きながら考察!なぜ家康は無謀な戦いを?」
https://bushoojapan.com/bushoo/takeda/2020/02/04/104134

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