『信長公記』「首巻」を読む 第49話「稲葉山御取り候事」
第49話「稲葉山御取り候事」
一、四月上句、木曾川の大河を打ち越え、美濃国加賀見野に御人数立てられ、御敵、井口より、龍興人数罷出で、新加納の村を拘え、人数を備へ候。其の間、節所にて馬の懸引きならざる間、其の日、御帰陣候ひしなり。
一、八月朔日、美濃三人衆、稲葉伊予守、氏家卜全、安東伊賀守、申し合せ候て、「信長公へ御身方に参ずべく候間、人質を御請取り候へ」と、申し越し候。然る間、村井民部丞、島田所之助人質を請取りに西美濃へさし遣はされ、未だ人質も参らず候に、俄かに御人数出だされ、井口山のつゞき瑞龍寺山へ懸け上られ候。「是れは如何に。敵か味方か」と申すところに、早、町に火をかけ、即時に生か城になされ候。其の日、以外に風吹き候。
翌日、御普請くぱり仰せ付けられ、四方鹿垣結ひまはし、取り籠めをかせられ候。左候ところへ美濃三人衆も参り、肝をひやし、御礼申し上げられ候。信長は何事もケ様に物軽に御沙汰をなされ候なり。
一、八月十五日、色々降参候て、飛騨川のつゞきにて候間、舟にて川内長島へ、龍興退散。さて、美濃国一篇に仰せ付けられ、尾張国小真木山より、濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを、今度改めて、岐阜と名付けさせられ、
【現代語訳】
一、永禄9年(1566年)4月上句、織田信長は、木曾川という大河を越え、美濃国の加賀見野(岐阜県各務原市)に進軍した。敵・斎藤龍興は、井ノ口(後の岐阜城)から出陣し、新加納の村(岐阜県各務原市)に陣取り、軍隊を配置した。両軍の間は難所(足場が悪い場所)で、馬が走り回れないので、その日のうちに帰陣した。
一、永禄10年(1557年)8月1日、「美濃三人衆」の稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就が申し合せて、「織田信長公の味方になるので、(その証拠として)人質を取って下さい」と言ってきた。それで、織田信長は、村井貞勝と島田秀満を人質の受け取りに西美濃へ遣わした。まだ人質が到着しないのに、織田信長は、突然、出陣し、井ノ口山(稲葉山、金華山)の峰続きの瑞龍寺山へ駆け上り、「これは何としたことか。敵か、味方か?」と騒いでいる時に、早くも、城下町に火をかけ、即時に稲葉山城をはだか城にしてしまった。その日は、意外にも風が吹いていた(ので延焼した)。
翌・8月2日、普請(土木工事)の分担を命令し、稲葉山城の四方を鹿垣(逆茂木)で囲んで包囲した。そこへ「美濃三人衆」が駆け付け、肝を潰すほど驚きながらも、織田信長にお礼を言った。織田信長は、何事にも、この様に、軽々と実行に移した(行動力の持ち主だった)。
一、8月15日、稲葉山城の城兵は降参したが、城主・斎藤龍興は、稲葉山城の横を流れる木曽川に船を浮かべて、河内の長島へ逃げた。
さて、織田信長は、美濃国をも支配することになったので、居城を尾張国の小牧山城から、美濃国の稲葉山城へ移し、「井ノ口」という地名を(縁起が悪い名であるし、領主が替わったことを示すためにもいいとして)改めて、「岐阜」と名付けた。
【解説】
──其の日、御帰陣候ひしなり。
これは通説では永禄9年4月のこととされていますが、どうも永禄7年4月のようです。
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