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『明智軍記』(第7話)

 戦国未来@金欠です。

 この連載は「読者様より先にゆかりの地へ行き、ガイドする」というものですが(本当?)、前回の「石川県の明智光秀のゆかりの地」には資金難で行けませんでした。今回も金欠で織田氏の本貫地・織田庄(剣神社とか)には行けませんでした。サポートを得られない文章しか書けない自分の不甲斐なさに腹が立ちます。
 次回は豊臣秀吉ゆかりの地の紹介になります。執筆にあたり、金欠で再訪していませんが、以前、取材した時の写真があります。

1.織田信長の織田氏について


 広く普及している「織田氏系図」は

平清盛…常昌─常勝─教広─常任─勝久─久長─敏定─信定─信秀─信長

ですが、現在、「織田氏平氏説」は否定されており、「織田氏は、織田(「おだ」ではなく「おた」)荘の荘司の藤原氏」か、「織田氏は、剣神社の宮司の忌部氏」だと考えられています。
 『明智軍記』の記述から家系図を制作すると、

常昌─常勝┬教信─常信【岩倉・伊勢守家】─□─□─□─敏信─信安
       └教広─常任【清洲・大和守家】─□─□─□┬宗信─□─定信─広信
                                                                                  └信定→

         →信定【勝幡・弾正忠家】┬信秀┬信長
                          └信光└信行─信澄

となりますが、一次史料をもとに、制作すると、次のようになります。

藤原信昌┬常松┬教長─淳広【勘解由左衛門家】
    └常竹├□─□─郷広─敏広【伊勢守・兵庫助家】
           ├□─□─久長─敏定┬寛定【近江守家】           
                   │        └寛村【大和守家】
        └□─□─良信─信定─信秀【弾正忠家】─信長

2.織田信長の正室・帰蝶について


『美濃国諸家系譜』の「斉藤道三系図」では、斉藤道三の子供を

義龍 新九郎
龍重 勘九郎
龍定 喜平治
女子 織田右大臣信長北の方「桔梗の御方」
女子 菊亭右大臣藤原晴季室 (注)今出川晴季
女子 筒井法印藤原順慶室
女子 金森五郎八源長近室
女子 三木休庵室 (注)姉小路頼綱
利治 斉藤新五郎
女子
斉藤勘十郎。織田信長&信忠父子に仕える。此の伝、不当也。
常在寺五世住職・日饒上人
常在寺六世住職・日覚上人

の13人(斉藤勘十郎は誤伝だから12人)としています。
・通説では「利治」が末子です。
・「明智光秀の正室は斎藤道三の娘」だといいますが、「明智光秀」ではなく、明智光秀の弟とも言われる「筒井順慶」の間違い? それとも、「明智光秀の前室は斎藤道三の娘で、継室は妻木範煕の娘」?
・「帰蝶」は五女とも養女とも言われますが、この系図では長女で、名は「桔梗」です。

 帰蝶は、突然、史料に現れなくなるので、「離婚した」、あるいは、「死んだ」と考えられています。(『信長公記』には、離婚したとも、死んだとも書かれていないので、生き続けたと思われます。)
 「離婚して母の実家・明智城にいたが、斎藤義龍に攻められて、落城の直前に自害した」とする伝承や、「奇蝶は、妊娠していたが、離婚して母の実家・明智城に住み、落城直前に救い出され、生駒屋敷に匿われると、織田信長の子を生み、生駒吉乃の子として、奇蝶の「奇」を取って奇妙丸(後の織田信忠)と名付けた」とする小説がありますが、どちらも信じられません。
 「明智城にいたのは、帰蝶ではなく、帰蝶の妹」とも言いますが、これも信じられません。
 「明智城にいたのは、織田信長の元正室・斎藤帰蝶の妹ではなく、明智光秀の正室・妻木煕子の妹・御妻木であり、斎藤帰蝶には子がいなかったので、避難先の生駒屋敷で生まれた御妻木の子・奇妙丸(後の嫡男・織田信忠)を養子にした。それで、御妻木と明智光秀は、織田信長に対して発言権があった」と考える方が、まだ小説ネタとしては面白いかと。
 あと、帰蝶に子がいなかった理由は、織田信長が「帰蝶の前夫が死んでいる。彼女は斎藤道三が送り込んだ刺客で、すぐにでも殺される」と考えて床を共にしなかったからだとか。聖徳寺の会見後、斎藤道三の殺意は消えたと言いますが、その時には、もうその気になれなかったとか。

★原文&現代語訳(大河マニアックス様)
https://iiakazonae.com/1234/

★解説(武将ジャパン様)
https://bushoojapan.com/bushoo/oda/2020/01/30/142349

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