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視聴記録『麒麟がくる』第二回「道三の罠」2020.1.26放送

 光秀(長谷川博己)に心を開いた望月東庵(堺 正章)と駒(門脇 麦)は、ともに美濃に向かうことになる。しかしその行く手には、美濃の侵略をもくろむ尾張の織田信秀(高橋克典)の大軍が迫っていた。
 多勢に無勢の中、籠城を決め込む斎藤道三(本木雅弘)。光秀と道三の嫡男・高政(伊藤英明)は反対するが、それは敵を欺く道三の作戦だった。

<トリセツ>
斎藤道三軍×織田信秀軍 加納口の戦い(井ノ口の戦い)
天文十六年(1547年)、織田信秀が美濃へ侵攻。
織田軍が斎藤道三の本拠・稲葉山城(現在の岐阜城)のすぐ下まで攻め寄せたといわれています。
斎藤道三と美濃の守護・土岐氏との関係は?
美濃国は、本来は守護である土岐氏が治める国ですが、この時代は守護代・斎藤家の名跡を継いだ道三が勢力を拡大し、美濃の実権を握っています。
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/2.html

 今回の『麒麟がくる』は、とっても良かったです!!
 これぞ大河! これぞ戦国大河! 鳥肌モノです。
 中でも、もっくんの「特茶で送り人」が良かったです。(「伊右衛門」がSNSのトレンドになるくらい)表情といい、声といい、最高でした!

 あと『真田丸』では「国衆」という言葉が話題になりましたが、この『麒麟がくる』では、明智光秀の連呼で「侍大将(さむらいたいしょう)」が早くも定着しましたね。

1.加納口(「井ノ口」とも)とは?


「加納口」(「井ノ口)とも)は、現在の岐阜県岐阜市になります。

『土岐累代記』「濃州稲葉山由来之記」
【原文】 夫れ当国稲葉山は、不双の勝跡。所謂和歌の名山也。当山三つの名あり。金華山、一石山、破鏡山とも申すなり。此所に謂和歌凡そ二十一首。万葉集に見へたり。仁明帝の御宇、中納言行平卿、勅命に依て、陸奥国より金華石を引せらる。此石、濃州に着す。其の頃、又、俄に、勅詔有て、行平を京に召上らる。行平、彼石を捨て上洛せらる。後に、此石、召て山ノ神と崇めて、金大明神と号す云々。行平卿、此時、歌を詠せらるる事、世に知る所也。夫れ大明神は、人皇十一代垂仁天皇第八之皇子・五十瓊磯城入彦命を祭る所也。清和天皇御宇、貞観元己卯年二月、正一位因幡社と勅願を賜る。蓄奥ノ院峰権現は、陰神にして、五十瓊磯城命の后と云ふ。又、峰ノ権現は、垂仁天皇を祟るとも云ふ。所謂「岐山」と号す。麓の里を「岐阜」と号する事は、往古よりの称号にて、明応より永正迄の旧記に多くのする所にして、后世、織田家の名付ると云ふ事、信するにたらず。但、一説に、往古は「加納」を沓井、吉田と号し、「岐阜」を今泉、忠節、井ノ口、宗田と云ひしを、織田家入城の時に及んで、沓井、吉田、合て「加納」と云ふ。今泉、宗田迄を「岐阜」と称すと云々。
【現代語訳】 当・美濃国(岐阜県南部地方)の稲葉山は、並ぶものがない名勝地である。和歌に詠まれた名山(歌枕)である。当・稲葉山には3つの別名がある。それは「金華山」「一石山」「破鏡山」である。(注:現在は「金華山」と言います。)ここで詠まれた和歌は約21首あり、『万葉集』(巻18- 4097番歌)に、
 〽天皇(すめろき)の御代栄えむと
      東なる陸奥山に金花咲く (大伴家持)
とある。これは、「陸奥国より金(くがね)を出せる詔書を賀(ことほ)ぐ歌一首並びに短歌」(第45代聖武天皇が天平15年(743年)、東大寺に大仏を建てると宣言した。金が不足で無理と思われた天平21年(749年)、陸奥国守・百済王敬福から900両(13kg)の砂金が献上されて完成した)であり、実は、大友家持(『万葉集』の編者)が、天平感宝元年5月12日、越中国守の館で詠んだ和歌であって、美濃国の金華山とは関係ない。(注:日本最北の万葉の地・金華山黄金山神社(宮城県石巻市鮎川浜金華山)に歌碑がある。)
 第54代仁明天皇の御宇(833-850)、公卿で歌人の在原行平(818-893)は、仁明天皇の命令で、陸奥国から金華石を運んで美濃国に着いた時、急な仁明天皇の命令で、この金華石を置いて上洛した。後に、この金華石を「(金華山の)山の神」として崇(あが)めて、「金(こがね)大明神」と名付けた。(注:『尾濃葉栗見聞集』に「同朝臣、陸奥国金花山よりこがね石を当山に運び来てより以来、稲葉山の一名を金華山ともいへり」とある。金大明神は、現在の伊奈波神社で、丸山にあったが、天文8年(1539年)、斎藤利政が稲葉山城を築くために山麓に遷座した。)在原行平は、この時、
 〽立別れいなはの山の嶺におふる松とし聞かは今かへりこむ
と詠み、『百人一首』に掲載されて広まっているが、この和歌は、在原行平(因幡国の国守)が帰任する時の別れの和歌であり、この和歌も美濃国の金華山とは関係ない。
 〽みねにおふる松とはしるや稲葉山
    こがね花さく御代のさかえを (一条兼良『藤川記』)
(注:『美濃国第三宮因幡社本縁起事』に「『我、則ち、この所に住すべし』とて、金の大明神と現示給ふ。『金山』に於ひては、因幡大菩薩垂迹の地たるに依り、『稲葉山』と号す。亦は、元3尺6寸の金石として、頓(とみ)に36丈の山と成るの故に『一石山』と称す。亦は、奥州に於ひて召さるる時、鏡を破るの故に『破鏡山』と名(なずく)る也」とある。)
 この金大明神は、第11代垂仁天皇の第8皇子・五十瓊磯城入彦命(いにしきいりひこのみこと)を祀っている。第56代清和天皇の御宇(858-876)の貞観元年(859年)2月、「正一位因幡社」という勅願を賜った。奥ノ院「峰権現」のご祭神は、陰神(女神)で、五十瓊磯城命の后だとも、垂仁天皇だともいう。
※伊奈波神社公式サイト http://www.inabasan.com/
 「稲葉山」「金華山」「一石山」「破鏡山」を「岐山」ともいう。山麓の里を「岐阜」と称するのは、昔からのことだと、明応から永正まで(1492-1521)に書かれた書物にあり、後世の「織田信長が名付けた」という話は信じがたい。ただ、一説に、昔は、今の「加納」は「沓井」「吉田」に分かれ、今の「岐阜」は「今泉」「忠節」「井ノ口」「宗田」に分かれていたが、織田信長が稲葉山城に入城した際に、「沓井」と「吉田」を合併して「加納」、さらに「今泉」「宗田」までを合併して「岐阜」と呼ぶようにしたともいう。

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