見出し画像

視聴記録『麒麟がくる』第22回「京よりの使者」2020.8.30放送

信長(染谷将太)が今川義元を討ち果たした桶狭間の戦いから4年。京では三好長慶(山路和弘)が権力を掌握し、将軍・足利義輝(向井 理)は完全な傀儡(かいらい)に成り下がっていた。すっかりやる気を失い別人のようになった義輝の話し相手として、藤孝(眞島秀和)らの画策で京に呼ばれた光秀(長谷川博己)は、将軍の力を取り戻すため、いま勢いに乗る信長を上洛(じょうらく)させてみせると約束する。一方、駒(門脇 麦)は、新しい薬の製造をめぐって東庵(堺 正章)と言い争いになり、診療所を飛び出す。伊呂波太夫(尾野真千子)と共に訪れた大和で、駒は貧しいものたちに施しをしている僧・覚慶<のちの足利義昭>(滝藤賢一)に関心をもつ。


1.越前国の明智光秀


 斎藤道三に「大きな国を作れ(ば、世の中、平和になって麒麟がくる)。織田信長と組めばそれが出来るかも知れない」と言われたので、私としては、「さっさと織田信長に仕官して、2人で大きな国を作れよ」と言いたいが、斎藤道三はそう言うが、本人は自分が何をしたいのか分からず、熱心に本を読んでいるが、本に答えは書いてない。(実際、「桶狭間の戦い」直後、織田信長に「何をしたい?」と聞くと「妻を喜ばせるために美濃国奪取」と答え、「その先は?」と聞くと、考えていないようで、笑ってごまかされた。今、織田信長に「2人で大きな国を作りましょう」と言っても、「美濃国攻めで精一杯」と言われて終わりであろう。ちなみに、読んでいたのは、徳川家康も熟読したという鎌倉時代の史書『吾妻鏡』である。明智光秀は、歴史に学ぼうとしていたのである。)

画像1

※『吾妻鏡』(巻24)1221年 (承久3辛巳年)5月19日条
 (太文字部分が上の写真の部分)

 午の刻、大夫の尉光季去る十五日の飛脚、関東に下着す。申して云はく、「この間院中に官軍を召聚めらる。仍って前の民部少輔親廣入道、昨日、勅喚に応ず。光季は右幕下の告げを聞くに依って障りを申すの間、勅勘を蒙るべきの形勢有り」と云々。
 未の刻、右大将家司主税の頭・長衡去る十五日の京都の飛脚下着す。申して云はく、「昨日、幕下並びに黄門、二位法印尊長に仰せて、弓場殿に召し篭めらる。十五日午の刻、官軍を遣わし伊賀廷尉を誅せらる。則ち按察使光親卿に勅し、右京兆追討の宣旨を五幾七道に下さるるの由」と云々。「関東分宣旨の御使は、今日同じく到着す」と云々。
 仍て相尋ねるの処、葛西谷山里殿の辺よりこれを召し出す。押松丸(秀康が所従と云々)と称す。持つ所の宣旨、並びに、大監物光行の副状、同じく東士の交名註進状等を取り、二品亭(御堂御所と号す)に於いて披閲す。
 また、同じ時に、廷尉胤義(義村が弟)の私書状、駿河の前司・義村の許に到着す。「是れ勅定に応じ右京兆を誅すべし。勲功の賞に於いては請いに依るべき」の由、仰せ下さるるの趣これを載す。義村、返報に能わず。彼の使者を追い返し、件の書状を持ち、右京兆の許に行き向かいて云く、「義村、弟の叛逆に同心せず。御方に於いて無二の忠を抽んずべき」の由と云々。
 その後、陰陽道親職、泰貞、宣賢、晴吉等を招き、午の刻(初めの飛脚到来の時也)を以て卜筮有り。関東太平に属くべきの由、一同これを占う。相州、武州、前の大官令禅門、前の武州已下群集す。二品家人等を簾下に招き、秋田城の介景盛を以て示し含めて曰く、「皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云い俸禄と云い、其の恩、既に山巖より高く、溟渤より深し。報謝の志これ浅からんや。而るに今、逆臣の讒に依って、非義の綸旨を下される。名を惜しむの族は、早く秀康、胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し、院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし」者(てへ)り。群参の士、悉く命に応じ、且つは涙に溺れ、返報を申すこと委(つまびらか)ならず。
ただ、命を軽んじ、酬恩を思う。寔にこれ、「忠臣、国の危うきを見る」とは、此れを謂わんか。武家、天気に背くの起こりは、舞女亀菊の申状に依って、摂津の国長江、倉橋両庄の地頭職を停止すべきの由、二箇度(にかど)院宣を下さるるの処、右京兆、諾し申さず。これ幕下将軍の時、勲功の賞に募り、定補の輩、指したる雑怠無くして改め難きの由、これを申す。仍て逆鱗甚だしきが故なりと云々。
 晩鐘の程、右京兆の舘に於いて、相州、武州、前の大膳大夫入道、駿河の前司、城の介入道等評議を凝らす。意見区々なり。所詮、「関を固め、足柄、箱根両方の道路に相待つべき」の由と云々。大官令覺阿云く、「群議の趣、一旦然るべし。但し東士一揆せずんば、関を守り、日を渉るの条、還って敗北の因と為すべきか。運を天道に任せ、早く軍兵を京都に発遣せらるべし」者り。右京兆両議を以て、二品に申すの処、二品云く、「上洛せずんば、更に官軍を敗り難からんか。安保刑部の丞實光以下、武蔵の国の勢を相待ち、速やかに参洛すべし」者り。これに就き、上洛せしめんが為、今日、遠江、駿河、伊豆、甲斐、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、信濃、上野、下野、陸奥、出羽等国々へ京兆の奉書を飛脚す。一族等を相具すべきの由、家々の長に仰せる所なり。その状の書き様、
「京都より坂東を襲うべきの由、其の聞こえ有るの間、相模の守、武蔵の守御勢を相具し打ち立つ所也。式部の丞を以て北国に差し向ふ。此の趣、早く一家の人々に相触れ、向かうべき也」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920991/82

※鎌倉幕府の運命を決めた北条政子の最期の言葉(演説)
 皆の者、心を一つにして聞きなさい。これは私の最期の詞(ことば)です。(遺言だと思って聞きなさい。)我が夫・源頼朝が、朝敵を滅ぼし、関東に幕府開いて以来、皆の官位は上がり、禄も増えましたよね。その恩は、山よりも高く、海よりも深いはず。しかし、今、報恩の志が薄れていませんか? 朝廷に讒言する者が現れ、朝廷から理不尽な幕府討伐命令が出されてしまいました。名をとる者は、朝廷側についた藤原姓足利秀康、三浦胤義(三浦義村の弟)らを早々に討ち取り、3代にわたる源氏将軍の恩に報いて下さい(鎌倉幕府を守って下さい)。但し、この中に朝廷側につこうという者がいるのであれば、今、申し出なさい。

 明智光秀が指でなぞっていたのは、有名な北条政子の演説「其恩、既高於山巖、深於いて溟渤(其の恩、既に山巖より高く、溟渤より深し)」ですね。

 そこに「京よりの使者」である細川藤孝(コロナ感染発覚!)が来て、「足利義輝が呼んでいる」という。
 ──京に行けば、やるべきことが見つかるかも?
と、京へ行き、足利義輝に会うと、「織田信長を上洛させること」が自分がやるべきことだと分かった。やるべきことが見つかり、心躍る明智光秀であったが、彼の前には山があることに気づいた。望月東庵には、「(「千里の道は一歩から」という。)一歩、一歩、歩んでいけば、いずれ山頂に立てる。その山は高い方が広い範囲を見渡せるから良い」と言われた。「大きな国を作る」という大きな夢を持つことは必要だが、まずは一歩前へ。(東庵の家に入る時、「ごめん」の一言が言えない明智光秀、東庵から離れ、背中を向けて語る明智光秀──失礼極まりないが、これがコロナ禍の演技というものであろう。)

 さて、細川藤孝が越前に来た時、妻・煕子が鯛の踊り焼きを出したので、「まだ質草があったのか」と明智光秀は驚いた。(黒髪を切って売った痕跡は見られなかった。)

 明智光秀の子は、長女が岸、次女はたま(玉、珠)である。たまは、細川藤孝がお気に入りのようだ。(ちなみに、岸は、明智左馬助の嫁になり、たまは、細川藤孝の嫡男と結婚して細川ガラシャとなる。「美しいのお。将来、息子の嫁にしたいのう」くらいのリップサービスをしてもいいかと思ったが、この時の身分の差を考えると、冗談でも言えないようだ。)

2.改元問題


 弘治4年2月28日、正親町天皇が即位し、「永禄(えいろく)」に改元された。改元は、足利将軍の発議によって行われるのであるが、この「永禄改元」において、正親町天皇は、京都から離れた朽木谷に追放されていた将軍・足利義輝に改元の発議を求めず、しかも通告すらせず、三好長慶との相談の上で改元した。足利義輝は激怒し、以後、半年間にわたって「弘治」の元号を用い続けた。さらに足利義輝は、六角義賢の支援を得て挙兵するが、六角義賢の支援の打ち切りにより不利になり、結局、11月27日、六角義賢の仲介で三好長慶と和解すると入洛し、12月28日には、伯父(母・慶寿院の兄)・近衛稙家の娘(近衛前久の姉)を正室に迎えた。足利義輝にとって関白・近衛前久は義弟(妻の弟)である。

近衛尚通┬近衛稙家 ────┬女子(足利⑬義輝正室)
               └女子(慶寿院)└近衛前久
       ‖───────┬足利⑬義輝
        足利⑫義晴      ├覚慶(足利⑮義昭)
             └照山周暠


 「辛酉革命」と「甲子革令」──「辛酉」は、天命が改まり、王朝が交代する革命の年で、「辛酉」の4年後の「甲子」には、天意が改まり、徳を備えた人に天命が下される革令の年である。(中国では、天子は天命によって決まると信じられていた。「天子に徳がなくなれば、天命が別の人物に下り、その人物が天子になる」という中国の政治思想を「易姓革命」という。)
 「辛酉」の年(永禄4年)に将軍が(足利氏から三好氏へ)変わり、4年後の「甲子」の年(永禄7年)に三好氏の前に麒麟が現れる?──日本では、こういった政変を防ぐ目的で、「辛酉」「甲子」の年には改元が行われてきた。永禄4年(1561年)は「辛酉」であったが、将軍・足利義輝が「永禄改元」を根に持って改元の発議をしなかったので、改元されなかった。(この天皇に背いた時点で、足利義輝には麒麟を連れてくる資格が無くなったといえる。)永禄7年(1564年)は「甲子」であったが、またしても将軍・足利義輝が改元の発議をしなかったので、仕方なく、「永禄改元」の時と同様、三好長慶が改元の申請を上奏したが、改元が契機となって足利義輝と三好長慶が再び争い、京都が戦場になることを恐れた正親町天皇は、改元を見送った。

3.三好長慶


    足  利  政  権           →豊臣政権→徳川政権
  (細川政権→三好政権→織田政権)

 ドラマでは、「足利義輝が、三好長慶の傀儡(かいらい)であることに不満をいだいていた」とする。足利将軍は、権力を持つが、武力を持たないので、管領や戦国大名が付いて補佐(後見)するのは当然で、第10代足利義稙には大内氏や細川氏、第12代足利義晴には六角氏が付いていた。ただ、足利政権の後期には、「戦国時代」という時代背景もあり、後見人である細川氏、三好氏、織田氏がそれぞれ政権を築いていたとする考え方もある。
 足利義輝が、若気の至りで何でも自分でやろうとせず、改元の発議や、戦国大名の仲裁といった政治のみ行って、武力行使は三好長慶に任せていれば、長生きできたし、足利義昭を擁しての織田信長の上洛も無く、歴史は大きく変わっていた。
 三好長慶は、足利義輝を京都より放逐し、三好政権を樹立したという。畿内の支配者として君臨し、「天下=畿内」であれば、「天下人」であったといえ、世の中は安定していた。
 永禄3年(1560年)、三好長慶は、居城を芥川山城から飯盛山城へ移し、芥川山城を息子・三好義長(義興)に譲渡した。そして、永禄7年(1564年)7月4日、三好長慶は、飯盛山城で病死した。享年43。三好義継が若年のため、松永久秀と三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)が後見として三好氏を支えることになる。

あなたのサポートがあれば、未来は頑張れる!