正信偈講座13 「一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願仏言広大勝解者 是人名分陀利華」

正信偈 13
 
一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願
仏言広大勝解者 是人名分陀利華
 
南無阿弥陀仏を言うことは、南無阿弥陀仏を聞くことです。自分の口で言いながら、そのまま自分の耳に入ってくる。自分の声を聞きながら、あみだの仏さまのはたらきを聞く。言い換えれば、あみだの仏さまが私の声を通して、そのはたらきを聞かせてくださっている。南無阿弥陀仏と自分で言っているように思いますが、その実はあみだの仏さまが言っているのですね。自分で南無阿弥陀仏と言おうとしたときには、既にあみだの仏さまが言わせている。「聞信(モンシン)」というのは聞いたままが信じるさまということです。自分の口から出た南無阿弥陀仏を自分の耳で聞いて、そのときにはもう信心がある、何故ならば自分で言った気になっている南無阿弥陀仏はあみだの仏さまが先にはたらいたものだからです。つまり、お念仏してから信じるのではなくて、お念仏したときには既に信じているのですね。お念仏を言いながらも私の心にはまだ疑いがあるとか、そういうことは妨げになりません。あみだの仏さまがいつも先にはたらいていますから、お念仏が出たならばそのはたらきが既に届いた証拠です。こういうことを「聞信」と言います。
 
「分陀利華(フンダリケ)」とは、昔のインドの言葉で「美しい白い蓮の花」を指します。我々凡夫の中でも、南無阿弥陀仏と出逢った人は分陀利華だと言うんですね。どちらかというと花よりはその下に積もる泥のような私たちですが、南無阿弥陀仏は泥をも花にします。美しい花は、見る人の心を美しくします。あなたがお念仏する姿は尊く美しく、それを見る人の心にも作用します。
 
お念仏の花を咲かせましょう。そして、お念仏の花畑を広げていきましょう。

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