動物は往生するか・ペットの死後のゆくえ

『仏説無量寿経』に述べられる四十八願のうち最初のひとつ、第一願についての私なりの味わいを書かせていただきます。

原文「設我得佛。國有地獄。餓鬼畜生者。不取正覚。」
書き下し「たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。」

簡単に訳せば、「私(法蔵菩薩)が仏となるときに、その国(極楽浄土)に地獄・餓鬼・畜生の者どもがいるならば、私は仏とはなりません。」

さらに意訳して、「私が仏となったときには、極楽浄土には地獄・餓鬼・畜生の者どもはいません。」

これを文字通りに受け取ると、畜生=動物は極楽浄土にはいないことになります。

例え話をします。

猫がいました。公園に捨てられていた子猫が拾われて、ある家族の元で毎日を過ごしました。気づけば10年か11年か経ったでしょうか、随分と歳を取りました。
駐車場に車が来てもなかなか気づかず、何度も轢かれかけるようになりました。若いときほどの元気も無くなり、睡眠も深くなり、みんなが気をつけるようになりました。
でもある時、ついに轢かれてしまいました。
普段から運転が荒いことを注意されていた一人が轢いてしまいました。しかし、車が近づいてくることに全く気づかないようになっていたので、誰が轢いてもおかしくない状況ではありました。人間は24時間すべてのことに気を払えるわけではありません。悲しい事故でした。
言いようのない悲しみの中お別れをしました。みんなに愛された本当に優しい猫でした。

お別れをした次の日、家族の一人が言いました。「かわいそうなことだったけど、人間を轢いたわけじゃないからまだよかった。近所の幼稚園の子どもでも轢いていたら大変だった。」


私はここに、第一願に願われた心があると思います。

人間の命と動物の命、虫の命も植物の命もすべて等しく尊い。私たちは幼い頃より聞かされ、命に上下が無いことはよく知っています。よく知っているつもりでいます。

しかし、社会通念上は命に上下が存在します。人を轢いたら過失致死ですが、他人の所有するペットを轢いても器物破損です。量刑の重さが違います。本来は人間が中心にある社会を円滑に営むための概念に過ぎないのですが、私たちは社会通念こそが全てだと見誤ってしまいます。命に上下が無いと聞かされながら、どうしても完全に理解することはできません。頭では分かっても心の奥底ではやっぱり上下をつけてしまいます。

これは仕方のないことでもあります。上下をつけなければ私たちは食事をすることもできません。自分の命を生かすために他の命を奪うことに正当な理由は存在しないから、自らをごまかして生きています。考えれば考えるほど、知識として知っているつもりでも心では命に上下をつけている自分に気づきます。

「極楽浄土に地獄・餓鬼・畜生の者どもはいません」という第一願は、「極楽浄土では、地獄・餓鬼・畜生と私たち人間を差別するようなことはありません。極楽浄土に行ったからには地獄の者とは言わせない、餓鬼の者とは言わせない、畜生の者とは言わせない。全ての命が平等にあるところだ。」と私は読んでいます。

どうしても命の上下をつけてしまう、つけなければ生きていけない私たちに、命の上下の存在しない世界を知らせてくださる願いです。

人間は救われるが動物はどうなんだろうか。こう考え始めることが既に動物の命を下に見ています。それが悪いと責める意図はありません。人として生きる以上、どうしたって仕方のないことです。

その上で、自分の命も、大切だった大好きだったその動物の命も引き受ける場所がある。命に上下なく、平等な命になる場所がある。みな永遠の命を生きる。そう知らせ続けてくれているのが第一願であります。

人間だから助ける、動物は助けない、そんな差別のないのが仏さまです。全ての命が助かる。

「設我得佛(せつがとくぶつ)。國有地獄(こくうじごく)。餓鬼畜生者(がきちくしょうしゃ)。不取正覚(ふしゅしょうがく)。」

南無阿弥陀仏



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