正信偈17「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽憶念弥陀仏本願 自然即時入必定唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」

正信偈 17
 
顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
 
私たちは一人ひとり、誰にもとってかわることのできない命を生きています。ひとり生まれ、ひとり死んでいくこの私の代わりはいません。「社員は会社の歯車だ」「いくらでも代わりがいる」という嫌な考え方も社会の中に存在しますが、それはその会社内での役割に過ぎません。あなたには所属による役割がありますが、役割はあなたではありません。例えば私はお寺の坊主、幼稚園の教員、家に帰れば子どものお父さんと複数の役割を持っています。しかしこの中のどれか一つをとってみても私自身は表せません。役割=ラベルを自分自身だと思い込んでしまうと、自分が分からなくなります。
 
『バカの壁』で有名な養老孟子先生は

何かをしたから、おかげでこういう結果になった。こう考えたがる人間の性向を、私は「ああすれば、こうなる」型の思考と呼ぶ。これこそ、脳化社会の基本思想である。

いちばん大事なこと―養老教授の環境論

と書かれています。私はこの考え方は科学由来のものだと考えています。 “設定されたある条件下で特定の行動をした場合、一定量の結果が得られる” これが科学の根本です。ある行動をしたらある結果が得られた、これをいくつもいくつも集めて、その統計の中で最も確からしい結果を抽出するのが科学です。雨雲があったから、雨が降った。雨雲があったけど、雨が降らなかった。何回分も集まったデータを基に考えたら、どうやら雨雲があると雨が降りやすいことが分かった。科学ですね。科学の考え方は確かに私たちの社会生活を豊かにしましたが、それと同時に、私自身ということは分からなくさせてしまいました。誰にも代わることのできない命を生きていることを忘れさせ、同一化、均一化された量産型の命を生きていると考えさせてしまいます。自然どころか人間さえも管理する社会です。管理する側にとっては個なんてない方が楽なのです。個を忘れた人はラベルを自分だと思い込みます。そうすると、自分には代わりがいるんだ…となっていくんですね。科学の考え方を自分の思想にしてしまうことで起きる苦しみです。科学はあくまでも思考の種類の一つでしか在りません。
 
助かる主体はこの自分です。体でも魂でもありません。ラベルを外していったところの自分が助かるのが仏教です。本来は助かる方法も無数にあると思います。人はみんな違うんだから、人の数だけ助かり方もあるんでしょう。そんな数多くある助かり方の中から、お釈迦さまが人としての有限の命でタイムリミットのある中で説くことができたものがお経になっています。龍樹菩薩はこの助かり方を整理して、陸路を歩いて進むような難しい道と、水路で船に乗って進むような簡単な道との二つがあると分けました。どちらも到着するところは同じです。じゃあ自分はどちらの方法を選ぼうかという話ではありません。誰にも代わることのできないただ一人の私が助かるためにはどちらの道を往くのか、自己の存在を見つめていくとおのずと分かっていくのでしょう。

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