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正信偈講座5 「普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照」

正信偈 5
 
普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
 
あみだの仏さまにはいくつも名前がありますが、その中でも、光にちなんだ名前が多くあります。無量光・無辺光・無礙光・無対光・炎王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光という名前を十二光(ジュウニコウ)と言います。「名は体をあらわす」という言葉がありますが、あみだの仏さまは名前がそのまま体、本体である仏さまです。理屈で考えても理解しがたいことです。だって、私たちは自分の名前と体が別にありますから。
 
法蔵菩薩が仏となるときに、理屈で私たちを助けることができるのならば、理屈になったでしょう。しかし、法蔵菩薩は言葉になりました。「南無阿弥陀仏」という言葉です。言葉になれば極悪人を助けられる、その結論に至るまで、法蔵菩薩の頭脳をもってしても五劫かかっています。私たちが、なんで言葉なんかで助けられるんだ、言葉は言葉じゃないか、なんて考えてみても、十分な思索とは言えませんね。ただひとつ確かなことは、法蔵菩薩は分かったということです。だから、名前がそのまま本体である、言葉の仏さまになっています。
 
それで、光にちなんだ名前が多いということですが、光というのは、いつも闇を打ち破ります。光の無いところは闇です。そして、大きい光はどこまでも届くということがあります。太陽の光は遠く離れたこの地球まで届いています。地球が自転して夜になっても、月に反射してわずかに届いていますね。
 
私たちの想像を絶するほど大きい光には、届かないところはありません。そして、届いたならば、すべての闇を覆い隠します。あみだの仏さまも、大きい光のように、この世界中に届いています。あなたがどこにいようと、必ず届いています。
 
親鸞聖人の師匠である法然上人という方のうたに、「つきかげの いたらぬさとはなけれども ながむるひとの こころにぞすむ」とあります。仏の光(つきかげ)はすべてのところに至り届いていて、また、それを眺める人の心にも映っていると、つまり、あみだの仏さまは、光のようにあなたのもとに届き、その光に気づいたときには、あなたの心は既に照らされていたんだと分かる、初めから自分の闇は仏の光に覆い包まれていたんだと気づかされる、という味わいであります。
 
極悪人を助けるために仏となった仏さまです。極悪人の闇くらい、そのままに包んでしまいます。あなたの闇も、既に光の中です。

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