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#千住暮らしのひとコマ

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千住での暮らしの実際の体験談をお届けします。
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#建築

都市の極相・まちの極相

もう何年か前の話。ぼくの目は、日光の戦場ヶ原あたりを歩いていた。ふと思う、この湿原はやがてどうなるのか。そもそもどこへ向かっていくのか、と。約2万年前の火山活動がきっかけに長い時間をかけて変化し続け、今、"たまたま湿原"であるのか。それともこれが"終わり"なのか。 stay home 生活で、また少し考えてみた。この夏の自由研究。答えはないけど。 森林の教え都市は、まちはどこへ向かっていくのか。変わりゆく街並みは、人間の活動のカタチが現象として表出したものだとしても、ある意

千住のコンポジション 〜その奥へ〜

ぼくの目が、千住のまちの空間構造について、見て、歩いて、考えてきたこと。少しまとめてみます。 江戸、東京、千住 江戸四宿のひとつとして栄えた千住は宿場町。1625年に建設され、日本橋から2里(約8km)に位置する初宿。日光街道、奥州街道へ続く江戸の北の玄関。隅田川の舟運が盛んで河岸と街道が交差するため、たくさんの人やモノが行き交った。 約400年後の現在。舟運が鉄道に変わったものの、時代の変化をまちの中に刻み続けている。品川、内藤新宿、板橋、そして千住。江戸から東京へと変

「城壁」と暮らす 2

土手を「城壁」と見立てる。千住は城郭都市だ、の続き。 ぼくの目は、隅田川の「掃部堤(かもんづつみ)」の跡である墨堤通りをなぞるように歩いていた。 いまの千住のまちを囲む荒川や隅田川の「土手」は、ケヴィン・リンチの著書「都市のイメージ」(The Image of the City)でいうところの「エッジ(都市の境界)」だろう。この墨堤は、昔のまちの「エッジ」であり「パス(道、通り)」である。歩いてみると、堤防としての役割が失われ、市街化の中でその姿を埋もれさせながらも、微地形

「城壁」と暮らす

ぼくの目は、千住の大踏切の青い桜並木をくぐった先で土手に突きあたった。 土手を「城壁」と見立てる。千住は城郭都市だ。響きがいいが中身は村に近い。千住の四方を荒川、隅田川、綾瀬川が囲んだため、洪水という侵略への防御として「堤」が築かれた。もちろん西洋のそれとは違う。 ケヴィン・リンチの著書「都市のイメージ」(The Image of the City)に、都市のイメージを構成する要素のひとつとして「エッジ(都市の境界)」がある。 千住のエッジはどれだけの人に認識されているの

千住のコンポジション 〜 序 〜

ぼくの目は、地図と頭の中にある千住を行ったり来たり。 江戸時代、千住は宿場町。江戸四宿のひとつとして栄えた。1625年に建設され、日本橋から2里(約8km)に位置する初宿。日光道中、奥羽道中へ続く江戸の北の玄関。たくさんの人やモノが行き交う、まさに千住は「通り」のまち。 今、わずかに残る建物や蔵は、その時間をつなぎとめているかに見える。 よく目を凝らしてみると気づくことがある。「通り」に面する建物、その土地のカタチ「地割り」は間口が狭くとても長い。この「通り」とうなぎの