自分にとっての愛の正解を見つけたかもしれない
自分をなかなか好きになれない人や、人に急に嫌われてしまう昔の自分みたいな人、理想のカップル像に囚われる人にも読んでほしい。
エーリッヒ・フロムの「愛するということ」を再読した。
これは2年10ヶ月前に初めて読んだ自分へのアンサーでもある。
当時は愛を求め、愛に飢えていたがゆえに愛するということについてうまく理解や実践ができていなかったように思う。
だからこそ自分の過去の恋愛を思い出し、愛されたいと願ってちょっと病んですらいた。
あれから時間を重ねて(具体的には一人暮らしを始めて世界が広がったのが大きかったと思う)、同書を読んで全く違う感想を持った。
「あれ、これ自分はもうすでに実践しているな」
「こんな関係性を築けている気がする」
数年前と違い、愛の修練を意識せずとも身につけていたのかも。
だからこんなに穏やかで暖かい愛がみつかったのかもしれない。
愛の修練は己を愛し、他人を尊敬するための訓練
以前のわたしは、愛の修練は愛されるための訓練だと思っている節があった(本書の冒頭でそうではないと言っているのにも関わらず)。
今回本書を読んだときに思ったことはまさに見出しに書いたことで、自分が今までコンプレックスを感じて改善のために努力してきたこととマッチするように感じた。
今までの自分は、学校や会社で目立とうとし、人の話より自分の主張を通したくなり、その結果煙たがられたり急に絶縁されたりした。
その根源にあったのは自己肯定感の低さで、中学生のときは自分嫌い選手権があるなら優勝できると毎日思っていたし、普通の人と同じように生活できない自分を認められずに毎日劣等感に苛まれていた。
自分が自分のことを誰より大切にしていないから、当然頼るのは他人になってしまう。人に期待して思ったように与えてもらえるわけがない。裏切りに感じて人が嫌いになる。これが前回の自分。
人に期待をしてしまうから、誰よりも自分のことを祝って大切にしてあげようと決意したのが25歳の誕生日(前回の記事の1ヶ月後)だった。
その後すぐに一人暮らしを始めて、転職して、今までとは比にならない数の人と話した。自分が拘泥されていた考え方はただの一つの選択肢でしかなく、他の選択をした人たちの話を山ほど聞いた(特にわたしが出入りしているのはバーなので、40代以上の先輩方が多く、その選択の結果を懐かしんだり楽しんだりしていた)。
生きていたらそれでいいんだ、いつかいいことありそう、そう思えるようになってきて、長い年月をかけて少しずつ自分のことを大切にする術を身につけてきたような気がする。
自分より人を優先させること、最初は苦痛だったけど、自分が今まで言わなかった感謝の言葉で人の表情が変わったのを見た。いつも思っているだけだったけれど、口に出すことで物事が良い方向に動いていくことを学んだ。
会話の中で自分が思ったことをつい挟みたくなってしまう癖も、最初は自分が思ったことを全部言いたくて仕方がなかったけれど次第に慣れた。いつか話す機会がくる。言えなければなんでも話せる友人にあとから言えばいい。
なにより自分が会話に入らなかったことで思いもよらない展開になった。自分のリアクションや質問でその人が生き生きとしていくのが、自分が話すことより楽しく感じるようになってきた。
自分自身が自分のことを大切にできると、見返りを求めずに他人に何かをしてあげるのが楽しくなる。蟹座の女は家庭的な愛の星座なので尚更(?)
もともと人に何かをしてあげたりするのは好きだったけど、それが見返りを求めなくなると切なさゼロでほんとに楽しい。
「いつもわたしのことを気にかけてくれてありがとう」「そう言ってくれるあなたを尊敬している」
言葉もプレゼントになった。
愛するということに書かれていた愛の修練なんてすっぽり抜け落ちて、自分が生きやすくなるための努力をただしてきたつもりだったけど、自然と人の言葉や仕草に敏感になって、それを伝えられないかと考えるようになっていた。
これってフロムのいう能動性?とわたしは静かに思っている。
憧れられるカップルにある共通点
最近カップル動画をよく観るようになったので、素敵なカップルやその投稿につくコメントが自然と目に入る。
いろいろ見ていると、周囲から憧れられるくらい仲の良いカップルには特徴があると感じる。
それはどちらかがよくできた妻や旦那(もしくは彼女や彼氏)に見えても、そうさせるのは相手に愛があるからだ、ということ。
過去の恋人の話を笑って聞けるのは、自分が相手にとって最高だと信じているからだ。そう信じるためには相手からそう感じられるだけの愛や言葉を受け取っているはず。
ハプニングが起きても不機嫌になるどころかその状況を楽しめるのは、相手も自分のことを思って状況を変えようと努力する結果、笑い話や楽しい思い出を運んできてくれるってわかっているからだ。
(コメント欄って厳しくて、違和感があると「カメラが回ってなくても言ってくれるといいですけどね😅」みたいなコメントがついている)
この関係性は別に難しいことじゃなくて、相手の小さな親切に気づいたら感謝をちゃんと伝えるとか、不義理をしたと思ったら素直に謝るとか、小さなことの積み重ねが信頼につながるんだと思う。
フロムが成熟した人間しか愛することはできないと言っているのは、このあたりにも通ずる気がしている。
「私もこんな彼女になりたい」なんてコメントもよく見かけるけど、そんな人間になりたいと思うとしたら、意識してそうなろう、こう言おうと努力するのではなく、相手を真摯に愛することが一番の近道なんだろう。
真摯に愛しても心地よい状態にならないとしたら、それは相手が違うのかも。
正しい努力しか実らないのと同じように、正しい相手でないと自分の愛をうまく受け取ってもらえない。
これは成熟した人であるというよりは、自分の価値観に近いといった普通に恋人を選ぶ観点に含まれているような感じがする。
結局愛って
自分を愛せていないと他人も愛せない。愛してほしいがために愛するとしたら、それは自分がまだ幼くて誰かを本当に愛する準備ができていないのかもしれない。
全ての人を愛せといわれるとなんだか高潔なものに思われるけど、結局は誰もを尊敬して大切にすることなのではないか。
わたしもまだまだその修練の途中だ。
おまけ:藤井風と愛
目下考え中なのが藤井風のこの歌詞たち。
「怖くはない 失うものなどない 最初から何も持ってない」(帰ろう/2020年)
「何もないけれど 全て差し出すよ」(満ちてゆく/2024年)
何もないところから愛が生まれて相手に差し出す。
満ちてゆくの歌詞の中には、「愛される為に 愛すのは悲劇」という言葉もあることから、フロムにも近い考えがあるような感じがする。
なんとなくわかるけど言語化がめっちゃ難しい!
自分なりの答えが見つかったら加筆しようと思う。
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