街道ウォーク 日光街道 その7
日光街道 その7 幸手宿→栗橋宿
日光街道その7は、幸手→栗橋を歩きます。
距離は16,8Km、所要時間3:58時間 19,974歩、消費カロリー1401kcal
幸手宿→南栗橋
旧日光街道を進みます。しばらく歩くと内国府間(うちごうま)の交差点、こちらで国道4号線と合流となります。
内国府間村は幕府領だった所、左手の長い参道を進むと村の鎮守の「八幡神社」があります。御神燈は新旧6基も供えられており、社殿もシンプルながらもスマート。
この先は桜の名所「権現堂堤」、中川の手前の堤には「明治天皇権現堂堤御野立所」碑。堤防沿いは公園になっており、散策路も整備されています。
50kmが一つの節目なのですが、日光街道も無事ここまで歩いてきたことに感謝しながら、中川の手前を左方向へ進み「常福寺」へ向かいます。
本尊は薬師瑠璃光如来、目くしゃれ薬師といわれ、目や歯の痛みにご利益があるそうです。加齢とともに、目と歯の不具合は大なり小なり発症します。私も例外ではありませんので、お賽銭を納めてお参りしていきます。
街道に戻り、土手には多くの自然が残る中川の「行幸橋」を渡ります。左手の旧日光街道方面へ進み、東武日光線を横切って進むと「高須賀大杉神社」、時代を経た石仏石碑が数多く立ち並び歴史を感じる神社でした。
街道を「筑波道追分道標」まで進みます。1775年に建てられたもので、右つくば道、左日光道と刻まれています。昔の旅人も頼りにしてたことでしょう。今も昔も、街道も人生も道標は大切ですね。
内国府間から外国府間に入り鎮守の「雷電社湯殿社合殿」が見えてきました。こちらも青面金剛像をはじめ古い石仏が多く祀られており、古くからの歴史が続いている地区であることが分かります。
街道は小右衛門村に入りました。「小右衛門一里塚跡」で昭和初期に移築された弁天堂が建てられています。塚の形態と広さは当時の規模。お隣には真言宗「真光寺」があり一里塚を管理されているようです。
国道4号線から一段下の小路を進みガードをくぐります、左に行けば南栗橋駅です。「蔵が2つある古民家」を見ながら更に進み「新幹線のガード」をくぐり、国道と合流となります。
南栗橋→栗橋駅
街道は栗橋宿の南側近くまでゆっくり右にカーブして続きます。「会津見送り稲荷」の赤い鳥居が右手に見えてきました。
会津藩士が大事なものを忘れてしまいます。困っている時に助けてくれた老人は実はキツネの化身であった。そのことが、後で分かり稲荷様を祀ったと地元で伝えられているそうです。
街道には「木柱の道標」が建てられており、焙烙地蔵は左とあります。祠がありました、「焙烙地蔵」は関所を無断で通過して火あぶりの刑に処された人を供養するため、憐れんだ人々が建てたもの。
日本橋から七番目の宿場、「栗橋宿」。本陣、脇本陣、旅籠屋25軒があった街道は真っすぐ続きます。右手の「小林畳店」さんは「御宿場印」販売所になっています。
街道沿いの真宗のお寺「顕正寺」には市の指定有形文化財、鎌倉時代の作といわれている「木像阿弥陀如来立像」がいらっしゃいます。
お向かいは1617年開山の浄土宗寺院「浄信寺」。秀忠公が日光参拝途中、利根川が増水となりました。その際、舟橋の安全を身体を張って確保した梅澤太郎右衛門の墓があります。
八福神の「寿老人」が祀られています。くりはし八福神とは久喜市観光協会が主催する七福神に吉祥天を加えたふるさと巡礼企画。ルートマップも用意されているので新春に改めて巡ってみるのもいいですね。
すぐ奥には1615年開基、浄土宗の「深廣寺」。こちらの市指定文化財「六角名号塔」は高さ3,6メートルもある大きな供養塔。6面に南無阿弥陀仏と刻まれ、その数21基もあります。
二代住職「単信上人」が伊豆より大石を船で持ち帰ったもので1654年より1656年に建立されたとあります。これだけ並ぶと壮観ですね、それも江戸時代に伊豆から運ばれたと聞くと有難みも増します。こちらにもいらっしゃいました、八福神は「恵比寿様」。
街道を利根川土手付近までやってくると「栗橋関所跡」。石碑があり、利根川を越す房川渡に設置されたことから、対岸の中田と併せて「房川渡中田関所」と呼ばれたとあります。
「入り鉄砲に出女」って習った記憶と厳しかった歴史の先生の事は今でも思い出します。
利根川土手に上っていくと、栗橋宿の総鎮守「八坂神社」の広々とした境内が見えてきます。狛犬が守りを固め、鳥居の扁額には亀、その先には更に狛鯉が社殿を守っています。
利根川の波間に鯉と泥亀に囲まれた神輿が流れてきて引き上げてみると、元栗橋に祀られている八坂神社の神輿だったという由来があるそうです。
神社のすぐ先から利根川の雄大な眺め、遠く筑波山も見ることが出来ます。一言、大きい、さすが日本三大河川。
土手脇の階段を宿場の方へ下ると、「関所番士屋敷跡」があります。定員は四人で二組に分けて、午前六時から午後六時まで五日間交代で勤務していたそうです。発掘調査はされていますが、屋敷跡は残っていません。
すぐそばの「経蔵院」は貞観年代の慈覚大師の創建。義経の愛妾、静御前は奥州にいる義経を慕って旅に出ましたが途中で悲報を聞きます。落胆のあまり病気になり、この寺で養生に努めましたが生涯をとじることとなりました。
この本尊は乾漆地蔵菩薩立像で、頭部と両足以外は和紙と漆で作られた日本で三体だけという貴重な市の有形文化財となっています。
本日はここまで、最後に栗橋駅前にある「静御前の墓所」へ向かいます。病気になりこの地で死去したと伝えられている静御前。侍女が遺骸を葬りましたが、墓のしるしの無いのを哀れんだ関東郡代、中川飛騨守忠英が「静女之墳」の墓碑を建立したと考えられているそうです。
京都神泉苑での雨乞いの舞で見事に雨を降らせた静、褒美に後鳥羽上皇から「蝦蟇龍」(がまりょう)の錦の舞衣を賜ったとあり、は古河市の光了寺に保存されているそうです。
境内には江戸の歌人坐泉作を村人が1806年に建立した「舞う蝶の 果てや夢みる 塚のかげ」という歌碑があります。
NHKの大河、「義経」(2005年)では義経は滝沢秀明、静は石原さとみさん、まだ記憶に新しい「鎌倉殿の13人」(2022年)では義経は菅田将暉、静は石橋静河さんが見事な舞を披露してくれました、時代を感じます。
目の前には手造り和菓子屋「三笠屋」の看板。さすが墓所の前だけあって、静まんじゅう、最中静御前があります。最中はゆずと栗の二種で久喜市商工会からの推奨状のお墨付き。
栗橋駅前は銀色に輝くモニュメントがありモダンな造り、JRと東武鉄道の2路線が乗り入れています。駅構内に入ると義経と静御前がようこそ久喜市へと出迎えてくれます。
次回は下総国の古河城下、江戸から9番目の古河宿へ向かいます。戦国時代は古河公方の本拠地でもあった古河は見どころも多そうで楽しみです。
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