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フランス語を使うと世界がフラットになり、日本語を使うと世界が垂直になる

先日、フランス語で小説も書く水林章という作家の記事を読む機会があった。

彼によれば、日本語という構造自体が、対人間関係でお互いが平等な関係に位置していなく、
日本語を使うこと自体、人間関係を上下、強弱、敬卑の関係でとらえている特徴があると書いていた。

さらに日本語の特徴は相手により自分がワタシ、オレ、アタシ、アタイ、ワシ、パパ、先生、先輩後輩などと相手により変幻自在に変化する人間に変わることで、日本語の本源的特徴は二人称的世界だという。
そこには、欧米語のような あなた You、 Vous というような相手によって変化しない普遍的な私は存在しないし、お互いを同輩者、つまり上下関係のない対等な市民である人権宣言で保証されたような、基本的人権に裏打ちされた個人としての私がない、ということのようだ。

そして、日本語とは、相手を自分より年上か年下か、自分の身分・地位より上の人か下の人、自分より社会的に強い人か弱い人か、そういう上下関係、強弱関係で人間関係をとらえているというのだ。

結果として日本語世界にあるのは、自分と対等な基本的人権の主体である同輩者間の関係ではなく、階層的構造をなす上の人(社会的上位者、支配者)・下の人(一般人)、親分・子分、先生・弟子、先輩・後輩のような垂直的な関係なのだそうだ。

翻って、私も日本語とフランス語を使い分けているが、日本語で目上の人や地位の高い人と話すとき、日本人が相手に感じるほどの上下・強弱関係を意識することは薄く、それでも敬語を織り交ぜるはするが、打ち解け具合にもよるが、どちらかというとより無規定でフラットに近い言葉選びをしているような気がする。それは日本社会ではなくフランスで生きている感覚があるから可能なのかもしれない。そういえば日仏ハーフの息子が話す日本語も、フランス語の方が強いのでとにかくフラットな日本語を使う印象がある。
ただし、私は書き言葉はかなり敬語を意識して書いていることは事実である。

逆に、フランスは階級社会といわれるが、フランス語を使ってフランス人と話すときは、相手がだれであろうと、使う言葉自体が敬語丁寧語謙譲語みたいに変化することはく、誰にでも比較的フラットに話せている。そういう意味では、相手によりコロコロ変わることなく、とにかく楽ではある。

水林章氏は、日本語という言語構造自体にパワハラを生み出しやすい傾向があると喝破している。

私は、日本語の構造自体をそこまで悪者の温床であるとまでは考えていないが、その日本語の構造は、たしかに相手次第で自分という個を変化させて、相手の社会的背景を考慮したり、自分のわきまえを複眼的に変化させる豊かさがある柔軟性に富んだ言語だと思うのだ。

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