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個人から分人主義へ(複数の自分という立場)

数年前に小説家の平野啓一郎氏によって提唱されたこの「分人」という概念は、
現代の分散化された人間の立場を言い表したものとされています。

個から複数の自己

たしかに私たちは、もはや一人しかいない分割不可能な本当の自分という個人より、さまざまな人々との関係の中でそれぞれの人と関係を結び、それぞれに対応する自分が複数いるということの方がより真実に近いといえると思います。また、好きな趣味や本や環境においてもそれぞれの本や場や分野との関係でそれが好きなそれぞれの自分がいるということもいえるでしょう。

自己確立の葛藤

今までは、他者や社会と乖離した自分ひとりの個人が本当の自分であると信じられたがゆえに、ある社会のなかで生きていくうえで演じなければならない立場や役割の自分との間で乖離が生じ、人格が分離されるように思うことがあったと思います。

そもそも本当の自己、これは近代になってから哲学者デカルトが自我を確立してから存在するようになった、いわば近代が生み出した人工物ではないのか?それは、今でも続いている現代の自己像の葛藤を生み、夏目漱石の小説からでもわかるように、明治以降の日本近代から続く自己確立の葛藤のテーマでもあったことと思われます。

多面化した自己へ

ところが、この分人の概念を想定して考えると、そういう社会のなかで人間が担う複数の枠割や姿が、もはや一個だけの自己からではなく、最初から複数の多面化した自己があると肯定されるという立場に立てれます。

会社のなかでの自分、Aという恋人といるときの自分、Bさんという友達といるときの自分、子供に接するときの自分、親に接するときの自分、地域のなかで活動する自分、ある趣味に没頭しているときの自分など、それぞれの自己を分けて肯定することができます。

たとえばここに引きこもりの人がいるとします。その人は何年も前から自分が引きこもりになって、その事実のみで自分はダメな人間なのだと自己を全否定しています。でも彼には、読書している自分や、時々田舎をひとりで散歩している時には癒されるなど肯定できる面もあるとすると、自分をひとくくりにダメ人間とするのではなく、他のこういう面では自分を肯定できるというポジティブな存在の多面性を肯定できることになります。全否定から部分肯定への道が開かれます。

関係性における自己

また、一昔前であれば自分探しの旅に出るなどと言われたものですが、こういうひとりの真実の自分というものが自己確立作業のどこかに可能性として眠っていて、それが何か冒険的な旅行や新しい経験を経るにしたがって見出されていくという概念があったと思うのですが、この分人という考えでは、自己と関係を持つそれぞれの複数の関係自体がいわば分節化した自己を形作るイメージとなっているように思います。もはや遠い旅路を経て自分探しをするというのではなく、すでに自分の足元にある複数の自己のあり方に改めて気づくということだと思います。


とかく現代の日本では、無縁社会、孤独地獄などといわれることも多いのですが、あるがままの複数の自己や、もう少し社会との接点や関係を築きそこを経由した複数の関係性のなかの自己のあり方を肯定することができれば、生きるリスクを分散化でき、この生きづらい人生の中でよりしたたかでしなやかな生き方につながるように思います。

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