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第3回:第一次世界大戦の終結と戦後の国際秩序

【第一次世界大戦から第二次世界大戦へ(1914年~1939年)】
第3回:第一次世界大戦の終結と戦後の国際秩序
第1回【問い】

1.テーマ:ベルサイユ体制と戦後の国際関係
・ベルサイユ体制と戦後の国際関係はどのように展開したか?
2.テーマ:大戦後の民族運動
・大戦後の民族運動はなぜ起こり、どこの国でどのように展開したか?
3.ワシントン体制と東アジア
・ワシントン体制はなぜ東アジア・太平洋地域を対象に展開したか?
・ワシントン体制の意義と崩壊に至った原因は何か。

第1回:【問題提起】
1.テーマ:ヴェルサイユ体制と戦後の国際関係 
  ・ヴェルサイユ体制と戦後の国際関係はどのように展開したか?
2.テーマ:大戦後の民族運動
  ・大戦後の民族運動はなぜ起こり、どの国でどのように展開したか?
3.テーマ:ワシントン体制と東アジア
  ・ワシントン体制が東アジア・太平洋地域を対象にした理由およびワシントン
   体制の意義と崩壊に至った原因は何か?
≪問題提起≫
1.ヴェルサイユ体制と戦後の国際関係はどのように展開したか?
第1次大戦後の世界にはヴェルサイユ=ワシントン体制と呼ばれる国際秩序が成立した。主にヨーロッパ地域を対象とするヴェルサイユ体制と、主に東アジア・太平洋地域を対象とするワシントン体制である。戦争被害の大きかったヨーロッパ諸国の国力が衰退し、その国際的地位が低下した一方、アメリカが世界の政治経済をリードする立場につき、東アジアにおいては日本の勢力拡張が顕著になった。
1919年6月に28カ国が調印したヴェルサイユ条約は、ウィルソンの「14か条」を講和の原則にし、民主主義的な新しい国際関係の確立を期待させたがアメリカが国内での批准に失敗し、連合国の共産主義に対する敵対的態度がソヴィエト・ロシアの参加を阻み、新たに結成された国際連盟も米ソを欠き、影響力を喪失しつつある英仏主導の体制では限界があった。ヴェルサイユ条約第231条によるドイツとの交渉を欠いたままの一方的戦争責任と天文学的な規模の賠償と軍部の解体などの強要は,ドイツ人に党派を超えた「反ヴェルサイユ感情」を植え付け、のちの第二次世界大戦勃発の遠因になった。1928年のパリ不戦条約も第2次世界大戦を防ぐことはできなかった。              

2.大戦後の民族運動はなぜ起こり、どの国でどのように展開したか?
ヴェルサイユ会議中に日本の植民地朝鮮で民衆が三・一独立運動を起こし、中国では北京で学生たちが五・四運動を起こした。朝鮮では日本の植民地支配(韓国併合)に抗議し「民族独立」を宣言し、中国では日本の「青島占領」と「対華21ヵ条要求」に抗議した。五・四運動の直接的原因は、中国が「戦勝国」として会議に参加したにもかかわらず、英、仏、米、伊いずれも中国の訴えを無視したことが原因である。
イギリス植民地のインドではガンジー率いる国民会議派が労働者・農民を加えた非暴力・不服従運動を起こし、影響を受けたビルマでも民族運動が起こった。イギリスは1919年、第3次アフガン戦争でアフガニスタンの独立を承認し、エジプトを正式に保護国化してオスマン帝国との戦闘に利用したが、民族自決の風潮の中で1922年イギリスはエジプトに名目的独立を与えた。フランス支配下のベトナムでは、フランスに滞在してフランス社会党で活動中のグエン・アイ・クオック(後のホー・チ・ミン)が、フランス居住の愛国的安南人を代表してヴェルサイユ会議に送付した文書で、フランス政府に対してフランス国民に保障されている諸権利を植民地の安南人に保障するよう要求した。他方、ヴェルサイユ会議に参加しなかったソヴィエト・ロシアはコミンテルンを結成し、レーニンの「民族自決権」を掲げて植民地の民族に呼びかけた。        
                   
3.ワシントン体制が東アジア・太平洋地域を対象にした理由およびワシント
 ン体制の意義と崩壊に至った原因は何か?
ワシントン会議は東アジアでの日本の動きを牽制するアメリカの外交政策として開催された。アジア・太平洋の問題の解決、国際協調体制の構築と軍縮、中国での日本の侵略の抑制が課題であった。四ヵ国条約と九ヵ国条約で太平洋諸島の領土・権益の相互尊重、中国の主権尊重・門戸開放・機会均等が設定され、日本が獲得した利権は返上させられたが、中国の半植民地的な現状は何ら変わらなかった。
国民党を結成した孫文が1925年に病没すると、国民党の実権を握った蒋介石は、二度の北伐を行う一方で第一次国共合作を崩壊させた。北伐軍が北京に迫ると日本軍部と財閥は中国内政不干渉主義を堅持する若槻内閣を倒壊させ、田中義一内閣による二度の山東出兵を行った。満州の直接支配をねらう軍部は1928年に張作霖爆殺事件を起こし、後継者の張学良は東北三省の支配権を国民政府に移譲する「易幟」(エキシ)を断行して日本と戦う決意をした。
世界大恐慌はとりわけ日本の養蚕農家に深刻な影響を及ぼした。列強がブロック経済政策をとる中で、日本は中国侵略に活路を見出し、関東軍は独断で柳条湖事件を引き起こしたが、民政党政権はもはや止める力を失っており、翌年3月には「満州国」建国を宣言してワシントン体制を崩壊させた。


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