中国大返し

伝説にまみれすぎた天下人

ここまでそんなに触れてきませんでしたが、戦国時代を語る上で欠かすことのできない”キングオブ出世”と言えば、そう

豊臣秀吉

です。

俗に「三英傑」なんて呼ばれる武将の一人で、農民という身分からブワァー! っと駆け上がって、ついには日本全国を統一しちゃったというサクセスストーリーは、あまりにも有名ですよね(「三英傑」ってのは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のことね)。

尾張国(愛知県西部)の農民だったけど、
「オレは武士になるんだ!」
と、織田信長に仕えるようになった秀吉。
この人とにかく、「マジすごくない!?」というエピソードをたーくさん持ってるんです。
たとえば、

ふところゾウリ話(←こんな名前ついてないけど。信長の草履を懐であたためてホメられたって話)

とか、

墨俣一夜城(一瞬でお城つくった話。あらかじめ製作したいくつかのパーツを川の上流からイカダで流し、それらを現場でパパッと組み立てるという、現代のプレハブ工法みたいなことをやって、一夜のうちにお城をつくり上げたってやつ)

なんかが有名ですが、意表をつくアイデアの話は枚挙にいとまちゃんです。

秀吉にまつわる"伝説"は、どれも「一本取られた!」って感じの、爽快でスカッ! とする気持ちのいいものばかりなんですよね。

でも、そう、

"伝説"なんですよ……。

例にあげた2つの話は、のちのち作られたフィクションの可能性が高く、ほかの有名なエピソードの中にも、「実際にはなかったかな…」という部分が結構あるんです。
さらには、武士の生まれじゃない秀吉には、信長や家康のように「出生〜少年時代」のちゃんとした記録が残ってません。
一般的には"農民出身"てことで統一されてますが、実際は農業やってたのか行商人だったのか、そこすらハッキリしてないんです。

ただ、

秀吉さんがすごいことに変わりはありません。
どれだけ伝説をふりかけた人生だとしても、事実として残ってる白ごはんの部分がしっかりしてるからこそ、ふりかけご飯はおいしいんです(ん?)。
なんと言っても全国統一を成し遂げた秀吉ですから、やっぱすごいんですね(当たり前だけど)。

では、そんな秀吉の、"伝説にコーティングされてるけど紛れもない事実"って話を、一つご紹介しましょう。
それは、彼が天下人になるキッカケになったと言っても過言ではない、
『中国大返し』
という出来事です。

一文にまとめてしまえば、

《1582年。羽柴秀吉が、岡山から京都までの距離をとんでもない速さで駆け抜けた》

って話なんですが、これが秀吉にとっての超絶ターニングポイントだったんで、ちょっと読んでみてください(このとき秀吉は「羽柴」って名乗ってます)。

前回お伝えした『本能寺の変』。
あの衝撃的事件が起こる"直前"から『中国大返し』というドラマは始まっていたのでした。


さて、「あの衝撃的事件が起こる直前…」秀吉は何をしてたのか? ってところからお話ししていきましょう。

『本能寺の変』が起こったとき、秀吉は中国地方、
備中国(岡山県西部)
にいました(以前のエピソードでもお伝えした通り)。

Heは何しに中国へ? と問われたならば、もちろんそれは
"中国地方の攻略のため"
イコール
"中国地方のラスボス・毛利氏の攻略のため"
に他ならず、秀吉さんは数年前からそちらへ滞在中だったんです。

このころの織田家ってのは、とんでもなく巨大な組織になってましてね……
信長は、
「もう各地域の大名たちと同時に戦ってやる!」
と、重臣たちを司令官(リーダー)にした、"方面軍"というドデカい軍団を、あっちゃこっちゃに送り込んでいたんです。

北陸方面軍・司令官 柴田勝家
畿内方面軍・司令官 明智光秀
関東方面軍・司令官 滝川一益
四国方面軍・司令官 織田信孝(信長の三男)
中国方面軍・司令官 羽柴秀吉

という感じで。

ご覧のとおり、秀吉が任されたの中国方面軍。それは、本能寺の変からさかのぼること5年前のことで……えーと、じゃあこっから多少ふり返ってみましょっか。
秀吉の中国(毛利)攻めがどんなだったのかを(パパっといきましょう)。


中国方面を攻めることになった秀吉さん。まず最初に注目したのが、中国地方の隣に位置する、

播磨国(兵庫県南西部)

ってとこだったんですね(「地理弱いんだよなー」という方は今すぐ日本地図を開いて、『兵庫県の"左隣り"は岡山県(中国地方)』ということを確認してくださいませ)。

播磨は、いろんな国衆がひしめきあっているものの、絶対的な支配者が存在しません。
なので、

秀吉「播磨の武将たちを味方に引き入れるぞ! そうすれば、毛利との戦いがメチャクチャ有利になる!」

と考えたからなんです。
で、この計画は、播磨の武将の中で、いち早く秀吉に味方してくれた、

黒田官兵衛(秀吉の軍師で有名)

という、スーパー頭脳の活躍もあり、見事に成功。
播磨のみなさんはドンドン織田家に従い、秀吉の中国征圧ミッションは上々のすべりだしを見せ……た…

かのように思えたんですが、

別所「んー……やっぱ毛利さんの方がいいかな!」
小寺「え、あ、じゃ、オレも毛利さんにつく!」
秀吉「おいマジか!!!!」

織田についたはずの播磨の武将が、たこ焼きを焼くようにクルクルッ! と毛利の方に寝返ってしまうじゃありませんか。
これで播磨の平定はリセット。
結局それらの武将とも戦うことになり、使うカロリーと時間のロスは膨大な量となっちまうんです。

それでも秀吉めげません。
得意の”兵糧攻め"を駆使して、次々と相手のお城を落としていきます。
この
"兵糧攻め"
ってのは、
お城を取り囲んで食糧が尽きるのを待ち、相手のギブアップを誘う作戦。
ですから、無駄な戦闘をしなくて済むし、こちらの体力も温存できて、とっても一石二鳥……

なんだけど、

これも、とにっ…かく時間がかかる(お金もかかる)。

1つの城を落とすのに数ヶ月は当たり前で、中には1年10ヶ月もかかったお城(三木城)があったほどでしたから、またもやロス、ロス、ロスです。

それに……
兵糧攻めは、何より相手にとって《最悪のロス》をもたらすんです。

ここからの数行は少し流れからズレますが、単に"こういうこと"も知っておいていただきたいという思いからの文章です。

兵糧攻めというのは、"敵の食べ物を断つ"ということですから、城にこもっている武将と農民は、”すさまじい飢餓(飢え)”と戦うことになるんです。
そこにいる人々は食糧が尽きると、飼っている牛や馬を食べ、それも尽きれば草や木を食べました。
極限の飢餓状態に体は蝕まれ、精神に異常をきたす者が続出。
助けを求めて柵を乗り越えようとすれば、秀吉軍に鉄砲で撃たれ、その地獄からは逃れることができません。
やがて、牛、馬、草、木、食べる物すべてが尽きると、城内には餓死者が頻出します。
凄絶な状況の中、かろうじて生き残った人々が飢えをしのぐために食べたのは、同じく城にこもっていた

仲間です。

人が人を食べたんです。

最終的には城主が切腹し、城の中の人たちは助け出され食事が与えられたそうですが、飢えからの反動で急に食べすぎてしまい、そこで命を落とした人もたくさんいたといいます(秀吉が三木城と鳥取城に行った兵糧攻めは『三木の干し殺し』『鳥取の渇え殺し』という名前で呼ばれています)。

これは、刀や弓矢を交える戦いじゃありません。それでも戦争はどこまでいっても戦争。直接ぶつかる以上の惨劇が、そこに、たしかに、あったんです。

英雄譚ばかりに注目が集まる戦国時代。ですが、目を覆うような残酷で残虐な行為が、武将たちによって行われたのも事実です。
名もなき人たちにも当然人生があって、望まない形で終わりを迎える多くの命があったということを、忘れてはいけない気がします。


さて、話を戻して中国攻めの続きを……といきたいところですが、それはお次にまわしましょう。

次回は秀吉一世一代の"突貫工事"と、一世一代の"アクシデント"、"絶望"、

"決断"、です。





「青天の霹靂」って言葉は、この時のためにあったのかも

『中国大返し』のパート2です。
となれば、おさらいですね。

秀吉、中国地方を攻める。ためにも……

播磨国の武将たちを仲間にする。けど……

その武将たちが続々と裏切る。から……

結局、兵糧攻めなんかで、いーっぱい戦うことに。なったため……


ここでは全て書けないほど、長いバトルを繰り返すことになった秀吉。
その中身を…
ガバッ!
とはしょりまして、とうとう織田と毛利の勢力の境界線にあった、

備中高松城

というお城を攻めた。ってところまで話をぶっ飛ばしましょう。

この備中高松城というのは、毛利さんにとってかなり重要お城。
そこを攻めたってことは、「毛利攻めがクライマックスだよ!」ってことを意味するの

で・す・が、

やっぱり一筋縄でいかないのが今回の中国遠征。
この備中高松城が、

ヒジョォーにやっかいなんです……。

秀吉「攻めにくいんだよなぁ……備中高松城。低いところに城があって、そのまわりを沼地や湿地が囲んでるからベッチャベチャのジュックジュク。そんなとこを歩こうもんなら人も馬も足を取られて、敵の鉄砲と矢の格好の餌食よ」
黒田官兵衛「その上、城主の清水宗治はかなりのやり手……落ちにくさ満点の城ですね……」

備中高松城の堅城(守りの堅さ)っぷりに、頭を悩ませる秀吉と官兵衛。
ですが、稀代のアイデアマンと天才軍師は、とんでもない城攻め方法を思いつくんです。

秀吉「んー、どうすっかなぁー……」
官兵衛「待てよ……そうか……そういことか……なるほど! ちょ、ちょっと! ちょっと待ってください!」
秀吉「ゴチャゴチャうるせーな! どこにも行ってねーわ!」
官兵衛「この辺りの地形の特徴を思い出してください! 近くに流れる足守川、低い場所にある城、低湿地という水はけの悪い土地、そして、今は梅雨!」
秀吉「………あ!! そういうことか! あっちが守りやすいとしてる利点を逆手に取りゃいいんだ……! ちょ、ちょっと待って!!」
官兵衛「どこにも行ってません!」
秀吉「守りに適している城には、それ相応のデメリットもある…」
官兵衛「攻めることが困難なら、閉じ込めればいい…」
2人「そうだ……水だ!!!!」

こんなやり取りは妄想として、秀吉と官兵衛が思いついたのは……

1、備中高松城の近くを流れる足守川の水をせき止め、低い場所にあるお城に川の水を流し込み……

2、城のまわりに堤防を築いて、たまった水が逃げないようにしたら……

3、梅雨のおかげで、さらに城のまわりの水かさが増し……


備中高松城が水に浮く——!

という、ぶっ飛びまくった奇抜なアイデアだったんです。

秀吉「よし……堤防つくるぞぉぉーーー!!! どんどん人を集めてジャンジャン金を払え! 工事のスピードが自然と上がるくらいの報酬を与えてやるんだ! そのかわり……一瞬で堤防をつくり上げろ!!!!」

秀吉の大号令とともに超ハイスピード工事がスタート。

脂が乗ったアイデアに、大量の人員と豊富な資金が絡まった結果、なんと堤防は、

"12日間"

という短期間で出来上がっちゃったのでした。

この堤防、今まで言われていたのは、

"高さ7m、長さ3km"

という、進撃の巨人でも出たんかってくらいの規模だったんですが、これもいわゆる”秀吉伝説"の一つ。
12日間でこの規模の堤防をつくるのは、トラックをガンガン動員させる現代の土木技術でも不可能らしく、実際の堤防は、
"長さ300m"
くらいだったそうです(高さももっと低いと思われます)。

でもね、300mで十分なんです。

備中高松城ってとこは盆地で、元々水がたまりやすい。
けど、お城から南西側に進んだところに、「水越(みずこし)」っていう”水のはけ口"となる隙間がありまして、そこから水が出ていってくれてたんですね。
つまり、この水越をふさいでしまえばグングン水はたまっていき、やがてその水はお城にまで……ということだったんですが、それには300mの堤防で十分だったんです。

てなわけで、水越にフタをされた高松城は、城の中を移動するために小舟を使わなければならないほどに浸水。
水の力によって敵を封じ込める、

『備中高松城の水攻め』

は、見事な成功をおさめたのでした。

こうなると、本格的にテンパってくるのは毛利本家のみなさん。

毛利家「備中高松城がヤベぇ!!!」

と、緊急スクランブルを発して、毛利家の当主
毛利輝元
と、彼を支える2人の叔父、
吉川元春
小早川隆景
っていう毛利のビッグ3がお城の近くまで出陣してくるんですが……
陸の孤島と化した備中高松城を前に完全に白目。

毛利家「………あちゃー……」

助け出す術がありません。

そして、ついに動き出した毛利に対し、秀吉も動きだします。

あっちのラスボス出てくんなら、こっちもラスボス出すぞ、ということで信長に連絡。
それこそが、【本能寺の変】パートで紹介した

秀吉「信長さまーーー!! 毛利の家臣がいる備中高松城(岡山県)を攻めてたら、毛利軍の本隊が出てきました!……」

という、あの手紙だったんです。

(秀吉が信長を呼んだ理由については、
1、シンプルに、毛利が大軍で来たときに備えて。
2、水攻めをやったホントの理由は、毛利本隊をおびきよせるため。で、毛利家と決着をつけるために、最初っから信長を呼ぶつもりだった。
3、本当は自分たちだけでも毛利には勝てるけど、毛利にとどめを刺すという"おいしいゴール"を信長に捧げてゴキゲンをとろうとした。
などなど、これのどれかじゃない? って言われてます)

さあここからは、みなさんもうご存知の展開。
秀吉の願いを聞き届け「じゃあ備中に向かおー」と言った信長が、京都に立ち寄り大炎上。

やってきました『本能寺の変』です。

ハプニングの神様がニヒルな笑みを浮かべながら「どうだ人間」と一言呟いたようなシナリオ。
秀吉がその衝撃に触れたのは、本能寺の変の翌日の6月3日です(4日の朝って説もあるよ)。
届いた書状を目で追いながら、

秀吉「ほぉほぉ……ほぉ……ほん?」

並んだ文字が告げる内容にピタッ。

秀吉「え」

全国の武将に驚きの最高潮をプレゼントした『本能寺の変』ですが、秀吉の驚愕っぷりはその天井をブチ破ります。

秀吉「う、う………うそだぁぁぁーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!」

毛利との対決という超絶クライマックスが眼前に迫った中、自分が呼び寄せた信長が、人生最期のクライマックスをぶつけてきたんです。
驚くなという方が無理。

心拍数が16ビートを刻み、慌てふためきちらしてワナワナが止まらない秀吉。

終わった……すべてが終わった……こっからどうすりゃいいんだ???? という思考完全停止の秀吉に、

黒田官兵衛は語りかけます。

官兵衛「ご武運が開けましたな」
秀吉「……は?」
官兵衛「殿に運がまわってきたんです」
秀吉「官兵衛……テメー何言ってん…!!」
官兵衛「明智を討つんです!!!」
秀吉「!」
官兵衛「今からすぐに京都方面に向かい、明智光秀を討ち、信長様の仇を取るんです!」
秀吉「オ、オレが……?」
官兵衛「そうです! そして、秀吉様……あなたが次の天下を取るんです!!!」
秀吉「………オ、オレが!!!?」

と、こんなやり取りがあったなんてよくいわれますが、実際のところは謎です。

しかし、確実に言えることが一つだけ……。
腹をくくった秀吉のここからの行動、そのスピードが、
"異常"
なんです。





音速、光速、迅速、爆速

パート3だね。
おっさらいだ。

毛利さん(中国地方)を攻める秀吉。

備中高松城を水攻めにしちゃう。

そんなとき『本能寺の変』が起こってテンパりまくり。

でも、「光秀倒すぞ!」と決心する。


秀吉「今から行ってやるから待ってろ光秀ぇぇー!!」

と、明智光秀をぶっ倒しに行くと決めた秀吉。ここから世紀の大移動、『中国大返し』がスタート! する! という…!

その前に。

まずやらなければならないのは、毛利さんとの交渉です。

戦いを有利にすすめてる秀吉が急に帰り仕度なんか始めちゃったら、「トラブルがあったんですよー」と教えてあげてるようなもの。「どうやらあいつらピンチだぞ!」と後ろから追いかけられて、攻撃されて、ギャー! となるのは目に見えてます。

だから秀吉、備中高松城の清水さんに、

「切腹してもらえるかな。そのかわり城内の人たちは助けるから」

という交渉を成立させ、毛利家とは、

官兵衛「いったん戦うのやめにしましょう!」

と、仲直り(講和)の準備をすすめるんですね。

安国寺恵瓊(毛利側の交渉人。お坊さん)「承知しました。では講和でお願いします」
官兵衛「でね、仲直りの条件は、
1、備中、備後、美作、伯耆、出雲、の5カ国をもらう。
2、備中高松城ももらう。
3、毛利から人質ももらう。
で、大丈夫です!」
恵瓊「で、大丈夫です!!?」

お前仲直りの意味知ってる? ってくらいメチャ上からのトーン。
「領地も城も人ももらうぞ!」なんて、毛利さんにとっては驚くほど不利な条件です。

しかし、"戦いを有利にすすめていた"のは秀吉たち。

長いこと織田と戦ってきた毛利さんたちの体力ゲージはほとんど残っておらず、
「仲直り"してあげる"」
と言われれば、どんなにキツい提案でもオッケーするしかなかったんですね(で、実際オッケー。清水さんの切腹も毛利との仲直り交渉も、本能寺の変の前からやってた説があるよ)。

これで、後ろから攻撃される心配のなくなった秀吉は、

秀吉「これより!!」

全軍に向け、

秀吉「謀反人明智を討つべく、上方(京都付近)へと向かう!!!」

運命の指令を下し、近畿方面へと数万人が駆け抜ける奇跡の大移動、『中国大返し』が開始されたのでした。


明智を討つという判断も、敵(毛利)への対応も超スピーディーでしたが、実際に移動を始めた秀吉軍のスピードがこれまた速い。
なんと、たった3日の間に……

秀吉「まずは姫路城へ帰るぞ!! 走れぇーーーーーーーーーー!!!!」

備中高松城→沼城(岡山県東区)→姫路城
という約100kmの距離を移動しちゃうんです(姫路城は官兵衛のお城だったんだけど、秀吉にあげたのよ)。

馬に乗った武将もいれば、徒歩の兵士もいるし、道具を運ぶ部隊なんかもいて、姫路城への到着は時間差あってバラバラです。
それでも全員が1日平均30キロ以上のRUN。
馬に乗ってても足腰ボロボロ、歩きの兵士は下半身ごとモゲてもおかしくありません(モゲはしないでしょうが)。
だけど……

秀吉「よし! 準備できた!!」
兵士「まさか……」
秀吉「しゅっ……発だぁーーーーーーーーー!!!!」
兵士「ちょ、えぇぇぇーーーーーーーーーー!!!!!!」

姫路城にはたったの2日滞在しただけで、またすぐに出発。
今度は、
姫路城→明石
へと移動です。
で、しばらくすると……

秀吉「よぉし!!!」
兵士「やめてやめて"出発"はやめて……『しゅっ…』て言わないで…」
秀吉「………は…」
兵士「(ホッ)」
秀吉「走れぇーーーーーーーーーー!!!!」
兵士「そっちかぁーーーーーーーーー!!!!!!」

今度は明石を飛び出し、
明石→兵庫(神戸市)
兵庫→尼崎
という40〜50キロの道のりを、ダダダダダー! 少し休憩。ダダダダダー!って感じで、またたくまに走破してしまうんです。

なんとも驚異的な光速移動。
ですが、
秀吉の凄まじさは移動の速さだけにとどまりません。

秀吉「おい! この手紙を中川さんに届けて!!」

爆走しながら、近畿地方にいた信長の家臣たちと手紙のやり取りをして、

使いの者「中川さんからの返書です!」
秀吉「ごくろう!!」

爆走しながら、その武将たちを、味方に引き入れるんです。

このとき、織田家の家臣たちは、「信長様が襲われたらしい!」という超ド級の緊急事態に、
「オレはここからどう動けばいい!? とにかく情報が必要だ!」
となってるんですね。
しかも、
畿内(京に近い国々)といったら、光秀くんが担当している地域。
もしも、
そこにいる武将たちが光秀につけば、ムチャクチャにやっかいです。
なので秀吉は、そこの武将たちが光秀に味方するのを防ぎ、逆に、光秀を倒そうとする自分たちに協力してもらえるようソッコーで連絡を入れたんですね。
ただ、その手紙の内容は、

秀吉「いま京都から戻ってきたやつが確かに言った! 信長様も信忠様(信長・長男)もご無事だって!! ピンチを切り抜けて膳所(ぜぜ。滋賀県大津市)に逃げたんだ! 福富(って武将)がすげー頑張って何事もなかったみたい! とにかく本当によかった!」

最初っから最後までウソです(これは中川清秀さんて武将に送ったもの)。

信長も信忠も亡くなってますし、福富さんという武将も亡くなってるんです。
さらに秀吉、

秀吉「北陸(方面軍)の柴田勝家さんも京に向かってるってよ!」

なんてことも言ってるんですが、これもウソ。

「筆頭家老(家臣のトップ)の柴田さんも光秀を倒そうとしてるんだから勝ったも同然よ!」的なことを言いたかったんでしょうが、そんな話は一切入ってきてません。
もう、ウソウソウソ、ウソつきまくり。とにかく、ニセ情報を拡散させるだけさせるデマ王子・秀吉。
しかし、手紙を受け取った武将たちは思うわけです。

武将「信長様や信忠様が無事かもしれないんだったら、光秀はただの裏切り者だ。だったら光秀を倒そうとしてる秀吉に味方しなきゃ!」

と。

結果、近畿地方に到着した秀吉のもとにはたくさんの武将が駆けつけ、信長の三男・織田信孝も秀吉側についてくれたもんだから、
「この秀吉! 織田の家臣を代表して信長さんの仇を取ります!」
という、大軍団が完成(4万とかいわれてたりするよ)。
そこから秀吉は、超激しい大移動をしてきたにも関わらず、それを物ともせず、いやむしろその勢いのまま、

秀吉「勝負だ、光秀ーーーーー!!!!!」

間髪入れず、光秀との決戦に望みます。

一方、自分に味方してくれると思っていた武将にことごとくそっぽを向かれた上に、

光秀「え、秀吉がすぐそこに!!? 早すぎて速すぎない!!?」

と、お目目がまん丸な光秀。
明智のみなさんは、満足のいく準備もできないまま大軍と戦うことになります(光秀軍は1万6000とかかな)。

ぶつかる前から明暗のわかれた2人は、ついに、山崎(京都府乙訓郡)ってとこで激突。

『山崎の戦い』(以前は『天王山の戦い』なんて呼ばれてたよ)

という合戦で、やっぱり……というのも光秀さんに申し訳ないですが、
秀吉軍が、圧勝をおさめたのでした。

備中高松城を出発したのが、6月5日。『山崎の戦い』が行われたのが、6月13日。
秀吉はなんと、車も電車もない時代に、
"たった9日間(移動だけで言えばもっと短い)で、約230キロの距離"
を駆け抜けたってんだから、ざわめきが止まりません。

『本能寺の変』が起きたとき、目の前の敵との戦いなどで、その場を離れることができなかった各地域の織田家重臣たち。
そのスキマを縫うように、スルスルーっと抜け出した奇跡のスーパーリターンによって、秀吉の実力と存在は、まわりの武将から広く認められることになったのでした。


以上が、『中国大返し』の大まかな流れでございます。
中身のよくわからない逸話持ちの秀吉ですが、この『中国大返し』という”奇跡"は、まぎれもない事実として彼の経歴に燦然と輝くと思ったらこれが本当なのかというとまだ油断しないでくださいみなさん。

『中国大返し』が"奇跡"かといわれると、実はね……

次回です。





伝説を操作した天下人

大返しの最後です。
で、おさらいです。

秀吉、毛利を攻めてたら『本能寺の変』。

光秀を倒すため驚異的な速さで『中国大返し』。

『山崎の戦い』で光秀をやっつける。


お伝えしたように、『中国大返し』というのは、「奇跡の!」とか「神業!」なんて表現が惜しみなく使われる偉業で、"不可能を可能にする男秀吉"の、トリッキーな魅力がこれでもかと詰め込まれた出来事だったんですね。

ただね………という話に移りましょう。

「本当に不可能なことだったの?」
と言われれば、

「ううん、そんなことはなかったんだよ」

という返答になってしまうかも。

前回も出てきた通り、『中国大返し』の1日の最大移動距離は、約30キロって言われてるんですね(35、36、37キロくらいがMAXかな)。

現代人が普通に歩くときの速さは、時速4キロ。早歩きで、時速5〜6キロくらい(平均ね平均)。
となると、30〜35キロの距離は……

普通の歩行(時速4キロ)では、8時間〜9時間、
早歩き(時速5キロ)だと、6時間〜7時間、

くらいの時間があれば歩けるって計算です(小休憩入れるともうちょいかかるけど)。

当時の人の平均時速はわかりませんが、現代人とそこまでの差はないと思うので、約30キロをこのくらいの時間をかけて歩いてたとすると……爆走というよりは、

7〜8時間のウォーキング

って感じ。
もちろん、長時間のウォーキングは本当にキツいし、連日だし、メッチャクチャ大変なことってのは重々承知の上でですが……

"不可能"、ではなかったみたいです。

でもだよ(なれなれしくてすみません)、

それならどうして『中国大返し』が、「奇跡!」とか「神業!」と言われて、もてはやされてきたのか?

その答えは、これまでの『中国大返し』が、

「備中高松城から姫路城までの約100キロを、たった"1日"で走り抜けた!」

という、まさしく"神業設定"だったからなんですね(底抜けにヤバい)。

何万人が1日で100キロを走破……
絶対に不可能とかではないでしょうが、そのあとにもまだ長距離を移動をして、最後には明智との大決戦が待ってるんです………兵士全員がアベンジャーズなら余裕だと思います。

にも関わらず、
この説が信じられてきたのは、ある手紙に
「1日で100キロ走った!」
ということが書かれていたからで、しかもそれを書いたのが何を隠そう

"秀吉本人"

だったからなんですね。

「なるほど、本人が言ってんなら…」となるのは、ストップ秀吉くん。
なんてたって情報操作の申し子・秀吉です。
それに、手紙を書いたときの"状況"や"心理"を考えると、どうもマユツバ三度塗りくらいでちょうどよさそうな案件なんですよ。

その手紙ってのがね……

『山崎の戦い』から約4ヶ月後に、秀吉が織田信孝(信長三男)さんの家臣に宛てたもので、
「この手紙を信孝さんに見せといて!」と頼んだ、、

というものなんですが……。

実はこのとき、
信孝は秀吉のことを嫌うようになっていて、2人の関係がこじれまくってた時期なんです。

そういったベースがある中、その手紙を読んでみると……

秀吉「(なんやかんや書いてて…)で、6月7日に27里(約106キロ)を一昼夜(24時間)で走り抜けて姫路城へ入ったんです! よし、これでちょっと休憩だーなんて思ってたら、大坂(大阪)にいる信孝様が、明智に囲まれてるってのを8日に聞いてですね! 信孝さまが切腹させられたら大変だー! って、そこからまた昼も夜もなしに走って……」

という感じのことが書かれてる(超現代語訳してます)。
つまりこれ、

「オレ、織田家や信孝さんのためにこんなに頑張ったんすよ! だからオレを悪く思うの違うくありません!?」

という、秀吉による超絶アピールのための手紙だったんです。

と、なると、「1日で100キロ」ってのは、

「こんなに大変な思いをしたのはあなたのためよ!」

ということを強調するため、話を盛って書かれた可能性大の文章。
いくら本人談とはいえ……いや、逆にこのシチュエーションの本人談だからこそ、ちょっと信じられないかな? というのはわかっていただけたんじゃないでしょうか。

しかしだな(偉そうにごめんなさい)、

そうなってくると、最後に残る疑問があります。

「1日100キロはムリでウソだって言うけど、秀吉が『本能寺の変』を知ったのは翌日か翌々日でしょ? 京都から岡山まで200キロ以上あるのに、お知らせ届くの早すぎじゃない?」

という問題です。
たしかに、秀吉の元には1日2日後に「信長死亡」の速報が届いてます。
それに、ここの経緯は詳しいことがわかってなくてですね……

……あれ?

もしかして秀吉は、信長が死ぬことを事前に知っていたんじゃ……?

つまり、本能寺の……

本能寺の変の黒幕は……!

ってことはないでしょうね。

秀吉は毛利攻略という大プロジェクトの真っ最中。ですから、
「緊急のときのために、信長⇄秀吉っていうホットラインは準備してたんじゃねーの?」
なんて言われてるんです。

安土城⇄姫路城。
だったり、
京都⇄岡山。

この間のポイントポイントに使者をスタンバイしておいて、リレー方式で手紙をつないでいけば、お知らせはすぐに届きます。
人や馬の数、走る速度によっては、200キロ以上離れた場所に、1日2日でお知らせを届けるのも、全然可能だったんですね。

(一般的には、「秀吉が『本能寺の変』を知ったのは"超偶然"だった」ってのが有名。
〈秀吉の陣地に怪しいやつが迷い込んできたので、調べてみると密書(秘密の手紙)を発見。その密書は、明智光秀が毛利へと送ったもの。読んでみると、信長が本能寺で討たれたことが書かれてあって、秀吉マジびっくり〉
って感じなんですが、創作の可能性が高いんです。たしかにちょっと都合良すぎだしね)


というわけで。
もろもろのことを踏まえて、『中国大返し』&秀吉からは、いったい何が学べるでしょう?

"9日間で230キロを駆け抜けたスピード"
もメチャクチャすごけりゃ、それを可能にした
"「判断力」と「対応力」のスピード"
も尋常じゃありません。
「何事も成功するにはまずスピード」ってことを身をもって教えてくれた秀吉さんですが、もひとつスゲー部分をあげるとするならば、

「人の心を考え抜いた秀吉の演出力」

だと思います(例によって個人的意見ね)。

秀吉にまつわる話は、「伝説にコーティングされてる」なんて言い方をしましたが、彼自らが話を盛って、伝説を創りにいった節も大いにあるんですね(当然、後の世の誰かさんの創作もあります)。

もちろん、すべてのウソが通用してるわけじゃありません。

たとえば、このあと秀吉は、「関白」(天皇をサポートする貴族のトップ)って職業に就任するんですが、そのタイミングで、
「うちの母ちゃんがさ、宮仕え(皇居の中で働くこと)したときに妊娠して、尾張に帰ってきて産んだのがオレ」
と言って、
”あたかも自分が天皇の血を引いてる感”
を出したときは、「いやうそつけ!」の総ツッコミが入ってますから(まず母ちゃんが宮使えしたってのがウソ。「オレは関白にふさわしい!」ってのをアピールしたかったみたい)。

でも、
ウソを使って自分に有利な状況を作り出したり、現代の僕たちに数々の伝説を信じ込ませる種をまいた"秀吉のディレクション"って、ゾッとするほどえぐくないですか?
良く言えばファンタジー、悪く言えばただのハッタリだけで様々な状況を一変させるなんて、プライドの高い、生まれながらの武士には決してマネできない芸当だと思います。
しかも秀吉さん、天下を取ったあとも身分の低い人たちに気軽に話しかけて、まわりを感動させたなんてエピソードもあるくらいですから、とにかく"人の心を動かす"ことに長けてたんですね。

よく、"人たらし"(みんなから愛される的な意味)という言葉で表現される秀吉ですが、本来"人たらし"は「人をだます」という意味なんです。
なんだか真逆の意味を含んだ単語になっちゃってますが、ウソをつくにも人を喜ばすにも、とにかく相手の心を読み取ろうとしたって部分で、あらためて秀吉を表すのにピッタリの言葉なんじゃないかなと思ってます。

相手がどんな状況で、何を思い、求めていてるのかを考えるというのは、今も昔もホントに大事な作業。
ここをおろそかにしちゃうと、どんなコミュニケーションもアイデアもまったく意味をなしませんが、徹底的に相手の立場に立った考え方を追求すれば、恋に仕事にあらゆる人間関係、うまくいくことが多そうですよね。
あ、秀吉のマネはやめた方がいいです。ウソつくとシンプルに嫌われっから(というわけで個人的見解でございました)。


さて次回。
これぞ、手軽な超現代語訳という本領を発揮します。
その後の秀吉とまわりの状況を、"カット"しまくりでお届けしたいと思いますので、みなさんに伝えたいのはただ1つ。

あとは自分で調べてね。

では!






本当にありがとうございます!! 先にお礼を言っときます!