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28与える一方の喜び③

 前回からの続き。教祖は、①「信じていない人」に対し、どのように導かれたかを考察して参ります。

↓ 前回の記事



 ご承知の通り、教祖が月日のやしろとなられ最初にされたのは、物凄い「施し」でした。中山家の財産を悉く難儀な人々に与え、貧のどん底の道を歩まれました。

 この「施し」や貧に落ち切る意味については、以前の 『千読』 (22~24号) にて一部を考察しましたが、今回は「にをいがけのひながた」という視点から思案してみたいと思います。

 
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 教祖の施しは、実に徹底されていました。人情として理解できる範囲を越えており、当時の人々には、とんでもない事と映ったことでしょう。中には、恐ろしく感じた人もあったかも知れません。

 ただ、この「とんでもない」という感情は、あくまで人間の常識を基準にしたものです。理解できない、怖く感じるということは、平たく言えば、神様のお心(価値基準)と人間の心(価値基準)に大きな差異が生じているということでしょう。

 私たち信仰者の態度は、人間の常識を基準に、神様のご行動を良し悪しと評価すべきではありません。理解できないのであれば、それは私たち人間側が届かないのであって、謙虚に神様の思召を尋ねる姿勢が大切であります。

 そうした前提に立ち、神様のお心と人間の心はどう違うのか。教祖の「施し」を手掛かりに、その一端を探ってみましょう。

 
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 五年程前になります。とても興味深い本に出会いました。
 
アダム・グラント著『GIVE&TAKE』です。



 本書を読み、私は衝撃を受けました。著者の主張とは直接関係ありませんが、この世界は、これほどまでにギブ&テイクで成り立っているのか、と驚かされたのです。

 例えば、バレンタインにチョコを貰えばホワイトデーでお返しします。出産祝を貰えば内祝い。基本的に、何かをして貰ったら何かを返す。物でなくとも、お礼の言葉やお手紙で。これが、人間関係の鉄則であり、親戚やご近所付き合い、職場でもプライベートも全て、人とのつながりはインタラクティブに形成されています。

 経済やビジネスの世界も例外ではありません。どんな商品やサービスであれ、価値提供に対して対価を支払うことで成立しています。ボランティアや地域活動ですら、個々の内面的動機は異なっていても、何かしらの目的で人は動きます。

 社会のあらゆる動きは、ほぼ全てが相互作用で成り立っている。一方通行はほとんど存在しない。ギブ&テイクで形成されていることに気づかされたのです。


 だからこそ、理解できなかったのではないでしょうか。教祖の施しのご行動が。
 残っている記録は少ないので確かなことは分かりませんが、教祖はおそらく、与えっぱなしではなかったかと想像します。
「これだけ差し上げたのだから、神様の話を聞きなさいよ」 などと、見返りを求めて施されていたとは到底思えません。
 

 こうして尚数年の間、甚だしい難渋の中を通られるうちに、初めて、四合の米を持ってお礼参りに来る人も出来た。

稿本天理教教祖伝 p42


 この教祖伝の一文から、そう読み取らせて頂くことが出来るのではないか、と考えました。
 初めてお礼に参る人が出来るまでに、立教から二十年程も歳月が経過しているではありませんか。
 いかに教祖が与えっぱなしであったか。ギブ&テイクではなく、一方通行の施しであったかを物語る一文だと思うのです。

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 ところが、ここで一つ問題が発生します。

 もし、これがお手本だとなると、我々には到底マネできないと端から諦めてしまいそうです。ギブ&テイクで、たすけあいの輪を広げていきましょう、ということなら頑張れそうですが、見返りを求めずひたすらギブでと言われると、あまりに厳しくて気が引けてしまいます。

 私は、中々分かりませんでした。一方通行のギブでは、自分がしんどくなってしまう。結局、人だすけが継続できなくなるのではないかと、施しのひながたの意味が分かりませんでした。

 しかし最近、とある出来事をきっかけに閃いたのです。「あれ? もしかしたら教祖のお心は、こういう感情に近いのかな」という経験をしました。

 とある出来事―私事で恐縮ですが、先日(2月22日)第一子の娘が産れました。人生で初めてパパ(親)になったのです。



 申すまでもなく、可愛くて仕方がありません。早くも親バカで、この子の為ならどんなことでもしてあげたいと溺愛してしまっています。

 そうなんです―。

 キーワードは〝親心〟でした。

 世の中のあらゆる動き、人との関わりのほぼ全ては、双方向に成り立っているのに対し、親から子に対する矢印は、一方通行ではありませんか。
 親は、我が子に対する愛情に見返りを求めていません。してあげたいの一心であることを体験致しました。

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 ちょっと卑近な例を失礼いたします。
 ある内閣府の調査です。子どもが生まれてから成人するまでに、親がかける費用はいくらか? もちろん貧富の差等ありますので、あくまで平均ですが……。

 2500~4000万円、と言われています。

 これは凄いと思いました。額の大きさに驚いた訳ではありません。また、調査の正当性を問いたい訳でもありません。凄いと感じたのは、親の心です。

「あなたを成人に育てるまでに、少なくとも2000万円は費やしたので、これから精一杯働いて返してね」 と言う親は、まずいないではありませんか。

 親は子に見返りを求めていない。それどころか、子に与えること自体を喜び、子の成長そのものを喜びに感じています。

 親心とは、不思議だなーと感じました。

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 さて、話を戻しましょう。
 人間の心と神様の心は、どう違うのか。

 ざっくり申すならば、人間の心とは一般に、与わること、もらう(入る)ことを喜びとします。一方、神様の心とは親の心であり、与えること、あげる(出す)ことに喜びを見出します。

 この矢印の方向性に、根本的な相違があるのかもしれません。

 まさしく教祖の施しは、与えたい、たすけたい一心の親心だったのではないでしょうか。

 このようにひながたを思案しますと、私たちは「信じていない人」に対し、話を聞いてくれたから嬉しいとか、別席を運んでくれたから嬉しいという喜び方ではなく、人だすけできること自体が嬉しい、というような、教祖のお心を目指していきたい、と学ばせて頂きました。

 貰う喜びより、尽くす喜び。これは別に真新しい思想ではありません。『新約聖書』にも、「受けるよりは与えるほうが幸いである」(使徒言行録二十章三十五節)とあるくらい古くから言われた真理ですが、未だに世相は、「いかに稼げるか」「どうすれば手に入るか」といった求める思想で席巻されています。


 まずは教祖をお手本に、喜びの矢印を方向転換していきたい。そして、我が子に抱くような愛情を、身近な人々へと広げていくことが、今の私の目標です。

 にんけんもこ共かわいであろをがな
 それをふもをてしやんしてくれ (十四 35)


(R187.4.1)


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