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20.難儀なる者の味

 これから神様のお言葉を頼りに、ひながたの道を思案していきたいと思います。
 中でも「おさしづ」を通して、貧に落ちきられた思召を探求していきます。


   ◆

おさしづ 明治二十三年六月十二日

 元々は難渋でなかったけれども、有る物やって了うた。難儀不自由からなけにゃ人の難儀不自由は分からん。

( 午後六時 梶本松治郎身上伺 )


 このたび取り上げるお言葉は、上記のおさしづです。

※梶本松治郎先生は、初代真柱様の兄。以前から教祖は、梶本家にお屋敷へ入り込むよう仰せられていましたが、お断りされていました。しかし神様は、このお言葉を通して再度入り込むようすすめておられるようです。

 元々、中山家は非常に裕福な家でした。広い土地を持ち、沢山の奉公人を抱えた大所帯だったのですが、教祖が月日のやしろとなられてから、財産を悉く施し、貧に落ちきる道を歩まれたのです。

 元々不自由でなかったのに、わざわざ不自由になって、難儀苦労の中へ飛び込まれました。



 一体、どうしてでしょうか。


 神様は、

貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。
(『逸話篇』「 四 一粒万倍にして返す」)


と仰せ下さいました。
 まず自分たちが、難儀不自由を経験しないことには、難儀不自由している人の気持ちが分からないだろう、と。


 これは、逆に申しますと、

難儀なる者の味が分かる。

ということが、非常に大切であることを教えて下さっているのかも知れません。


 もっと現代風の言葉に近づけるなら、

「苦しんでいる人の気持ちを分かるため」
「相手の身になって考えられるように」
「共感できるように」


などと言い換えられるでしょうか。


 私自身、辛い時やしんどい時、知人に悩みを相談すると、
「それはホント大変だね。」
「そんな中よく頑張ってるね。」
と、親身になって共感してくれることで、心が救われた経験は幾度もあります。

 解決策やアドバイスを貰った訳ではありません。辛さを慮ってくれることで、心は十分救われたのです。


 人だすけの道は、まず「共感する」。

 親身になって寄り添い、相手の痛み、辛さを分かろうとする姿勢が大切だと教えて下さっているように思うのです。


   ◆


 ただ、理屈は簡単ですが、これは口で言うほど簡単ではありません。


  ひとのこゝろといふものハ
  ちよとにわからんものなるぞ
(十下り目 一ツ)


と教えられますように、ちょっと努力しただけで分かるようなものではないのです。


 では、どうすれば相手の苦しみを共感できるようになるのでしょうか。

 それはやはり、同じ苦労を経験するに勝るものはないでしょう。たとえば空腹の苦しみであれば、空腹の苦しみを経験した人ほど共感できるものです。

難儀不自由からやなけにゃ人の難儀不自由は分からん。
(上記 おさしづ)


 難儀している人間をたすける為に、まず自ら、難儀な道を歩んで下さった。ここに、ひながたの親たる教祖の親心を拝させて頂きます。


   ◆

 でも、ちょっと疑問に思いませんか?


 じゃあ、自身が苦しみを経験しない限り、共感することは出来ないのか……と。
 まず自分が辛い思いをしないと、人だすけは不可能なのでしょうか。



 私は、もちろん出来ると思います。

 想像力を高めれば、共感することはできるでしょうし、困っている人を目の前にして、「かわいそうだ」「気の毒だ」と同情し、手を差し伸べることはできるはずです。


 ただ……。


 実際に苦労を経験した人と、そうでない人とでは、その共感の「深さ」が違うと思うのです。


 もちろん、どちらも寄り添うことは出来ますが、一方は、どこか客観的な同情で、自分の身に応えるほどの同情ではありません。
 しかし、同じ苦しみを味わったことのある人の同情は、相手の苦しみがそのまま自分の心の痛みとなり、何とかたすかって貰いたい、放っておけないという同情です。


「深さ」が違うと思うのです。


   ◆


 以前、広島の地で布教に歩いていた頃、自分の「おたすけ心」の無さに落胆したことがあります。
 日々の布教で、出会いを頂けることはそう多くないはずのに、せっかくご縁を頂いた方にさえ、 「この人をたすけたい」という気持ちが湧いてこない……。


「自分は、なんて冷酷な性格なのか……」
「自分は、おたすけ人にはなれない……」


と自信を失くしていました。


 ところが有難いことに、この感情は間違いだったようです。ひながたの道と前述のおさしづを思案することで、気づかせて頂きました。


 人間は、人の苦しみが分からなければ、人をたすけたいという気持ちが湧かない。

 逆に申しますと、

 人の苦しみが分かる(共感できる)からこそ、たすかって貰いたいという気持ちが湧いてくる。

 

どうやら、性格が悪いからおたすけ心が無いという訳ではなく、ただ、相手の苦しみ、辛さを共感できていないだけだったのです。



   ◆


 世界だすけの第一歩は、

難儀なる者の味が分かるように。

 わざわざ貧に落ちきり、難儀な道を歩んで下さったのは、私たちにこれを教えて下さるひながただったのかも知れません。


 そう思うと、苦労の道中は、本当に有難いことですね。

 辛い時、しんどい時は、ついそれを解決することばかり考えてしまいますが、

「この苦労に値打ちがある。いつか、誰かの為になれる土台づくり。先の楽しみだ」

と、ありのままを受け入れ、たんのうさせて頂きたいです。

 なかなか、難しいですけどね。

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