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27.堪忍これが一つの理②

 にをいがけを思案する上で、他ではなく教祖のひながたから学ばせて頂きたい。
 前回の序章でそう述べ、とりわけ「順序」に焦点をあてて、教祖の周囲の方々の信仰度合を三つの段階に分けてみました。


 今回より、①「信じていない人」から考察を進めて参ります。


   ◆

これからの道危なきの道もあれば頼もしい道もある。危なき道よう堪忍して。この道は難しい事は要らん。堪忍はこの道を始め掛けたると言う。よう尋ねて始め掛けてくれた。堪忍互い結ぶなら、あら/\の道。堪忍というは誠一つの理。天の理と諭し置く。

 おさしづ  明治二十六年七月十二日  前のおさしづに付願


 これは、五十年のひながた前半部分の考察、と言い換えられるかも知れません。
 教祖を神様だと「信じていない人」たちに対して、どのように導かれたのか。あるいは信じていないだけでなく、憑き物だとか気の違いだとか罵り、嘲笑っていた人たちに対して、と申すこともできるでしょう。

 これを深く思案することは、誠に尊いことだと思います。私たちがにをいがけに励む上で、その対象となるのは圧倒的多数が「信じていない人」です。
 加えて、近年でも特定の宗教団体が社会的問題を起こし、世間の宗教に対する眼差しは、とても厳しくなってきました。
 お道の布教師をはじめ、精一杯この道を伝えようと尽力する者は、敬遠されたり不気味に思われたり、これは決して気持ちの良い感情ではありません。

 しかし考えてみれば、その方が教祖の道すがらに近くなったと言えるかも知れません。むしろ、ひながたを想えば、当時の中山家ほど罵られている訳ではない事に気づかされます。実は、ひながたの道に心の支えや勇気を頂きやすい昨今である、とも言えるでしょう。



   ◆


 さて、問題は具体的な方法です。

 教祖は、そうした「信じていない人」たちに対し、どのように道を伝えていかれたのか。

 ご期待を外さぬよう、はじめに一言申し上げます。

 これからの教祖の伝道方法を学べば、今後は次々にをいがけが出来るようになる、という訳ではないと思います。もちろん、具体的な方法や手段も考察していく予定ですが、この度は、最も大切なご態度から学ばせて頂きたいと存じます。


 それは、教祖は「信じていない人」たちに対し、この道を得心させるまでに、20年も30年もかけておられるという事実です。

 以下、私は文章をまとめていましたが、秋季大祭(令和5年10月)において真柱様は、誠に有難いお言葉を下さいましたので、その一部を引用させて頂きます。

私たちが教祖のひながたに思いを致すときに、教祖はあのときこのようにされたとか、このように仰せになったということを思い出して、よく参考になされることと思うのであります。それはいいことなのでありますが、まずは教祖は、五十年もの間、どんなことが起こっても諦めることなく、丹精し続けられたということを、これもひながたとして忘れてはならないことなのではないかと思うのでございます。

 真柱様お言葉 『みちのとも』立教百八十六年12月号


 私たちは「信じていない人」たちに対し、どのように接すれば良いのか。

 それはまず、この道の教えは、具体的な方法や工夫によってパッと伝えられるようなものではない、と自覚することから始まるのかも知れません。
 一生懸命努力するけど中々上手くいかない。それでも尚、親神様の御教えは間違いないと信じきり、諦めることなく、根気よく丹精し続ける。これが「信じていない人」に対する教祖の御態度であり、私たちの大前提のひながたであります。

 世間には、伝わる為のコミュニケーション講座や話し方セミナー等がありふれています。 「こうすれば伝わる」といったメソッドが記された本も、書店には山ほど積んであるでしょう。




 しかし、この道には、逆に20年も30年も伝わらないお手本があるのです。私は、なんと尊いことかと感動いたします。

 私たちが教えて頂くのは「こうしなさい」という指示や説明ではなく、どんな中でも何とかたすけたい、伝えたいと丹精し続けられた親心のお手本だったのです。


   ◆


 私自身も、日々のにをいがけに絶賛苦戦中です。

 先日も親しい人から「神とか信じてないし」と一蹴されたり、 「お前の力にはなりたいけど時期が悪いよ。家族にも怪しまれるから」と告げられたり……。素晴らしい教えを只々共感し、喜び合いたいだけなのですが、驚くほど上手くいきません。

 そして思うのです。 「この人は性格的に無理だろうな」 とか「育ってきた経緯から今後も難しいだろう」 などと。人や環境のせいにして、最後に自分を納得させる 「仕方がない」。

 しかし、ひながたを想う時、私の誤っている心を洗って頂きます。

 おそらく、伝わる伝わらないが正否ではない。ひながたに反する行いがあるとすれば、それは伝わらない理由を相手の性格や世の風潮のせいにして諦めることであり、大切なことは、相手にたすかって貰いたいと努力し続けることではないか―。

教祖は諦めることなく、根気よく、口で、あるいは筆に記して説き、さまざまな苦労の中を親神様の思召のままに身をもって歩まれて、ひながたをお示しくだされ、私たちを陽気ぐらしができるようにお導きくだされたのであります。

真柱様お言葉 前掲『みちのとも』


 真柱様は、このように仰せ下さいました。


   ◆

 ところで、この「根気」や「諦めない」という態度は、現代の私たち若者に、非常に欠けている力だと感じています。

 世代間によって、人の性格を区別することはあまり好ましくありませんが、育った年代による能力の差は、確かに存在するように思います。

 例えば、IT機器への飛びつき速度。これはやはり、私たちの親世代より若者の方が早い。個性による差より、世代間による差の方が大きいことは否めません。

 一方で「忍耐力」。 あらゆることに我慢したり耐える力。これは明らかに、現代の若者よりも親世代の方が強いと思います。確かなデータがある訳ではありませんが、便利器具が増え、他の情報も取り入れやすい今、堪える前にすぐ次の選択肢へ、ということから、私たち若者の忍耐力はどんどん低下していることを痛感しています。


   ◆


「堪える」とか「辛抱する」という感情は、一見「陽気ぐらし」とは反対の心ように思われがちです。

 しかし、果たしてそうでしょうか。

 教祖のお言葉には、

勘忍これが一つの理。

おさしづ 明治29年4月25日

とあります。

 人は、一足飛びに何もかも喜べる心にはなれません。グッと堪えたり、踏ん張る根気。これは決してネガティブ感情ではなく、陽気ぐらしへ向かう為の必要不可欠な行程なのでしょう。

 また、

「道は、辛抱と苦労やで。」

『逸話篇』「一一五 おたすけ一条に」

とも仰せられました。

 こうしたお言葉は、存命の教祖が今まさに、私たち若者へ向けたメッセージだと受け止めさせて頂きたいです。とりわけ、教えを「信じていない人」たちに対して働きかける上で、大切な「にをいがけのひながた」であると悟らせて頂きます。

堪忍はこの道を始め掛けたると言う。

冒頭おさしづ

 (R186.11)

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