モーサヤ1-3章:あなたの呼ばれる名〔質問を尋ねる〕
わたしのこのシリーズの記事では、わたしの毎日の聖文研究のプロセスを紹介しています。「わたしに従って来なさい」の読書ペースに合わせて、先週からモーサヤ書に入りました。この記事では、先週学んだモーサヤ書1-3章で、わたしがどのように聖文を学んできたかを分かち合いたいと思います。
さて、これまでのモルモン書の記録はニーファイから弟ヤコブに受け継がれ、さらにそれが代々その息子に受け継がれてきた流れの中で記されてきたものでした。その記録は余白の少ない小さな版であったために、特に重要だと思われる預言や説教の要点がまとめられていました。しかし、このニーファイの小版と呼ばれた記録を最後に受け継いだアマレカイは、自身に子供がいなかったため、当時ニーファイ人を治めていたベニヤミン王に版を渡します(オムナイ1:25,30)。
モルモン書のモーサヤ書以降の大部分は、王たちの統治に従って記された記録を預言者であったモルモンが編纂したものです。そのため、モーサヤ書以降は、これまでのように重要な預言や説教とあわせて民の歴史記録が多く含まれることになります。このモーサヤ書の冒頭の記録は、王位の継承というニーファイ人の歴史の中でも重要な場面であると同時に、ベニヤミン王が最後に息子たち、全国民それぞれに語った王としての最後の言葉、説教です。
わたしが個人で聖文を学ぶ時には、次のようなステップを踏むことが多く、一つのパターンとなっています。
まず、聖句を1章から数章のブロックに分けて一通り読む
それから、それらをより小さなまとまりに分けて概要や背景を整理する
一貫しているテーマを探す
それらのテーマやトピックについて理解を深められるように、関連聖句や同じテーマを教えている預言者の説教などを調べる
学んだことや理解が深まった福音の教義や原則を整理しまとめる
それらの教義や原則を自分自身に当てはめる
「自分自身に当てはめる」とは例えば、
自分自身や自分の生活との関連について深く考える
自分の人生で、学んだ原則が現れている経験を思い起こす
学んだことで、自分の心や行動、生活を変えたいと思うことについて検討する
学んだことで、自分の思いや心にわいてくる印象や促しに注意を払う
などです。この1から6を時には何度も行ったり来たりしながら、時にはたった1節の短いフレーズに焦点を当てて深く探ってみること、もっと広い視野で全体を眺めながら検討するという風にズームイン・ズームアウトしながら学ぶことが多いです。
わたしにとってこの「学ぶ」という言葉には多くの意味や要素が含まれています。それは、「読む」「調べる」「探す」「分析する」「比較する」「関連付ける」「思い起こす」「書き出し、記録する」「深く考える」「反省する」「決意する」「思い巡らす」「注意を向ける」「試してみる」「覚える」などです。これらの言葉の多くが表しているように、わたしにとって学ぶこととは、聖文を開いている時やノートを開いている時に経験するものだけを指すのではありません。
そして、これらの学ぶプロセスのほとんどすべてに共通しているのが、「質問」によってガイドされている経験であるということです。
さて、ベニヤミン王の最後の説教の記録に入っていきます。
ベニヤミン王は自分の老いが進んでいることを悟って、国政の第一線から退くことを決意しました。そして、最後に全国民を一か所に集めて、自分の王としての最後の言葉を伝えられるようにすることを計画しました。
ベニヤミン王には大きく2つの目的がありました(モーサヤ1:10-12参照)。
息子モーサヤに王位を継承することを民に宣言する
民に、「戒めに背かなければ決して消されることのない」「ひとつの名を与える」
「名は体を表す」ともいうように名前というのは、わたしたちが何者であるかを表す重要なアイデンティティー、識別子です。しかしわたしたちは時に、自分やほかの人、世間から与えられる名前や「レッテル」によって自分という存在を誤って認識してしまったり、本来の自分とは異なる自分を演じてしまうことがあります。
この、ベニヤミン王が民に「ひとつの名を与える」ことを目的に民を集める布告を出したということを読んだとき、わたしは2つの説教を思い出しました。
1つは末日聖徒イエス・キリスト教会の中央日曜学校会長会のチャド・H・ウェッブ兄弟が何年も前に教会の青少年や独身成人を教える教師たちを前に教えたことで、もう1つは預言者、教会の大管長であるラッセル・M・ネルソン大管長が教会の若人に向けて語られたものです。それぞれの説教から該当する部分を読み返してみたいと思いました。以下に引用します。
わたしたちも自分の肩書、役割、呼び名、人となりの要素を書き出せば300とまではいかなくとも何十と書き出せると思います。そして、それらの自分が何者であるかを表す要素には、より重要なものもあれば、それほど重要でないものもあります。主を見る人、接する人によってイエス様も異なる認識のされ方をしましたが、それらのレッテルによって自分の使命や役割、存在の本質を見失うことは決してありませんでした。
ウェッブ兄弟が引用されたアイリング管長の言葉のように、他の誰かではなく、「自分が」何者であるかという問いに自分でどう答えるかが最も重要なことだと確認できました。
もう一つ、ネルソン大管長の教えからです。
ネルソン大管長は、わたしたちの永遠の可能性を実現し、それに力を加える識別子を示されました。
自分が何者であるかをどう認識するかが、わたしたちのこれからのものの見方、振る舞い、心の持ち方に影響を与えます。
これらの重要な原則を心に思い起こしたところで、次の質問をもって改めてモーサヤ書を学び始めます。
ベニヤミン王が民に与えると言った名前とは何だろう?
ベニヤミン王はなぜ、民にそのことを伝えたいと考えたのだろう?
民が「自分は何者であるのか」という問いに答えるとしたら、ベニヤミン王が与える名前はその答えにどのような影響を与えるだろう?
ベニヤミン王が教えたことは、わたしが「自分は何者であるのか」という問いに答えるのをどのように助けてくれるだろう?
今日の記事はここまでです。次回から、ぐっとベニヤミン王の説教に踏み込んでいきたいと思います。
聖文を調べるときに、わたしや読者の皆さんが単に言葉を追うような学習ではなく、自分の心を探り、自分と神様・イエス様との関係を見出すような経験ができますように。
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