何でもない時間
先日、日付が変わるくらいの時間にウォーキングをしていたら雷雨に遭遇した。
そんな夜中に…ウォーキング?
と思われるかもしれないが、仕事も不規則でなるべく人と遭遇することなく気分転換に散歩したいとなると必然的にこんな時間になる。
あまり人に合わずに歩いていると、物事の整理がしやすいし、考えを膨らませるのに良かったりする。
おまけに体格がよいので、そんな男を襲ってくる人はいない。
いつもの感じで天気予報を確認せずに、夜の静まり返った街に出て暫く歩いていると、案の定遠くの西の空に稲光が見えた。
いつものコースの半分くらいの位置のため自宅に到着するまでに雨に降られてしまう。
どこかで雨宿りするか…
いつも通る大きな公園の屋根のあるスペースに逃げ込んだ。
ほどなくして雨が降り始め、北の空で夜の稲妻を見ながらやり過ごす事にした。
子供の頃から稲妻を見るのが好きだった。
夏に大きな入道雲が山の方から迫ってきて、夏の日差しでコントラストの高かった風景が何とも言えない灰色の景色になると窓辺へ駆け寄り、大きな雨粒がアスファルトに斑点模様つくる中、稲妻が空を走るのを待っていた。
稲光と鳴り響く轟音が交互に繰り返されて、「さっきのは遠かった」「今のは近かった」などと家族向かって話していた。
灰色の空に現れる雷が、理科の教科書で見た人体に張り巡らされた血管のようで綺麗だなと思っていた。
久々に雷雨を体験している。
屋内での仕事が多く、終わって外に出ると道が濡れていて「雨が降っていたんだ」と後で気付くことが、ここ数年続いていた気がする。
少し振り込む小さな雨粒も心地よかった。
そんなところで何も考えずに過ごしていると、よからぬ考えが湧いてくる…
生命はどんなものも、生まれたらいつか最後を迎える
それならこの生きているというのは死んでいく途中なんだろう
明日も生きている確率は不慮の出来事を考えると50パーセントで
今もこうして生き続けているのは、その半分の確立の偶然じゃないのか
もしそれが少しでも生きている確率が過半数を占めると
それは慢心ではないのか
偶然の中で自分は数十年近く最後を迎える途中を過ごしている
その偶然が続いたから、過去のひと時をを思い出せる
これからもこの偶然が続けばいつかまた自分の幼かった頃のことを思い出すのかもしれない
幸運という言葉が一瞬過ったが無視をした。
そんな思いは自分勝手かもしれない。
いつも真ん中の中心点を漂っていたい。
なるべく揺れないように…
立ち上がって帰路につく事にした。
弱い雨がまだ降り注いでいたけど気にせず歩いた。
背にした東の方角から雷の小さな音が聞こえる。
街頭に照らされたアスファルトがキレイだった。
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