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小宮友根さんの『社会学評論』掲載論文の「批判」にこたえて。

先の投稿を書き上げてから、小宮さんによる批判(批判1批判2)を読んだ。学問の徒として、非常に悲しい気持ちでいっぱいである。小宮さんがされていることは、すでに私への批判を超えて、どう表現していいのか悩むが、いわば学問への信頼そのものを揺るがす行為ではないか。すでに私個人の問題だけではなくなっているように思うので、簡単にここに記す。

1.特集公募の査読が甘いと言い続ける理由は何ですか?

まず驚いたことは、小宮さんが私の論文が掲載されていることをもって、下記のように評論の公募特集の査読は甘いのだ、ということを繰り返して述べられていることです。私はこれまでの自分の投稿経験や、ほかの学会の編集委員や査読委員として活動した経験、そして『社会学評論』そのもので査読を行った経験から言って、そのようなことはとうてい感じませんでした。SNS上でも、小宮さんのこうした発言に、異議を唱えられる声も出ていました。当然です。それは投稿者の論文の掲載の妥当性や信頼性を揺るがす行為ですから。
問題なのは、小宮さんのリサーチマップを見ればまさにいま、2021年の11月から、日本社会学会の編集委員をされていることです。この発言は、編集委員としての発言でいらっしゃるのでしょうか?まさか現役の編集委員が、このような発言をなさるとは、私は驚きました。それともこの見解は、編集委員会の見解として受け取ってよいのでしょうか(当然、そんなことはあり得ないと思います。が、しかし現役の編集委員がこのような発言するということは、そう受け取られても仕方がない、ということです)。
小宮さんもご存じのように、こうした特集の公募には、多くの投稿したけれども掲載に至らなかったという人がいます。そうした人たちにこのような発言がどのように響くのか、ご自身で(前)編集委員会が掲載した論文への信頼性を揺らがすような発言は、慎んでいただきたいと切に思います。

公募特集というのは通常の投稿論文とは別に、編集委員が設定したテーマについて会員から寄稿を募る企画です。査読プロセスは投稿論文より緩くなりますが

査読というのは完璧なことを期待するシステムではないですし、公募特集であればなおさらです。

公募特集ということで甘くなる部分を考慮に入れたとしても、編者のチェックが十分ではなかったのではないでしょうか。だとしたら残念なことです。

そもそも、小宮さんのこのような批判は、学問的な発展を望んで書かれたものなのでしょうか。言葉を選びますが、私や、私の論文の価値を貶める目的で書かれたとしか受け取ることができず、学者共同体のなかではかなり特異なかたちでの批判であることは否めないです。

2.社会学において欧米近代を言及してはいけないのですか?

批判の1に関しては、「日本の」フェミニズムやジェンダーを対象にしているのになぜ近代黎明期のフランスやイギリスに触れたのかということにこだわっていらっしゃるようですが、ご存じのように社会学は近代社会の自己認識であり、日本の思想形成、社会学の学問自体も欧米の極めて強い影響と相互行為のもとに形成されてきたことを鑑みれば、フェミニズムという思想の成立をフランス革命期にさかのぼって書くことに、異を唱えられたことに驚きました。
構成ほかの批判については、小宮さんが論文を書かれるときはぜひ、ご自身がそうされてくださいと思います。

3.ストーンウォールUKのダイバーシティプログラムの検証を御存じないのですか?

小宮さんの力点は、批判の2にあるとご自身もおっしゃっていますから、こちらに移りましょう。まず小宮さんが

しかし私が調べた限りでは、スコットランド政府が
「母親」という語がトランス男性およびトランス女性を排除するものであるがゆえに
妊娠出産政策からその語を削除した
という事実を確かなソースにもとづいて見つけることはできませんでした。

というのにかなり驚きました。2021年の10月のBBCのNolan Investigatesのポッドキャストにおいて、政府、オフコム(英国情報通信庁)、BBC等が、ストーンウォールUKのダイバーシティプログラムの過大な影響下にあることが明らかにされたのは、この問題に関心がある人ならば、割と常識に属することかと思っていたからです。

LGBT activists get word ‘mother’ axed from government policies | Scotland | The Times (リンク切れ。その翻訳として、ストーンウォールは、政府の政策から「母親」という言葉を削除させた)。

小宮さんに「デイリーメールの記事RTしてる場合じゃないですよ」と馬鹿にされるので、紹介しにくいですが、こちらにも書いてあります。↓

How Stonewall influenced the BBC: Broadcaster's trainers used graphic of 'genderbread person' in presentation to staff amid involvement in controversial scheme

歴史的な史実に関しては、基本的には注は必要ないとされていますが、確かに近年の出来事であり、この問題に不案内な人のためには、URLを掲載してあげることが親切ですよね。そうですが、とにかく2万字という字数の制約がありましたので、こういった長いURLを記載する余裕はなかったのです。普通に検索すれば出てくるレベルのニュースだからと思いました。

そして小宮さんは次のように述べます。

あたかもいつでもどこでも特定の言葉を使うことを禁じる言葉狩りが行なわれているかのような描写をおこなうことにおいて、「○○という言葉自体が差別であると批判されかねない」というのはトランス差別の紋切り型なのであり、論文の記述はそれをなぞってしまっています。

ですが、妊娠や出産の文脈において「母親」という言葉自体が差別であると言っているのは、ストーンウォールUKであり、私の主張ではありません。私はそれにたいする判断を保留しており、事実として「差別と言われかねない」と表現したまでです。それとも小宮さんは、こうしたストーンウォールUKの方針を、「言葉狩り」だと思っていらっしゃるのですか?

4.一部のおかしな人たち?

トランスジェンダーは「アンブレラターム」であり、トランスセクシュアル性同一性障害はもちろん、クロスドレッサートランスヴェスタイト、異性装) 等を包括的に含む概念である。トランスセクシュアルは身体違和からの身体変容を希望するが、トランスジェンダーは、生まれたときに割り当てられた身体のままでいたいひとたちを含んでいる」と私が書いたことに対して、

上の引用で太字にした部分は、段落の内容にまったく関係ありません。運動史の記述の中になぜ突然トランスジェンダー概念の解説が挟まるのか不明です。……そのようにして歴史を無視した比較をすることで「トランスジェンダー」を一部のおかしな人たちのように印象づけようとするのは、やはりよくあるトランス差別のやり口なのです。

ここは全く理解できません。「トランスジェンダー」という言葉は、日本では「狭義のトランスジェンダー」と「広義のトランスジェンダー」といった欧米の文献では見ることがない(私の不見識なんでしょうか?)独特の用法が定着しています。ここで論を進めるために、きちんと現在では海外でも合意を得たと思われる用法に改めて言及したのです。そしてこの国連でも使用されている用語法に対して、「一部のおかしな人たちのように印象づけようとする」という小宮さんの意見に非常に驚きました。「一部のおかしな人たち」ってどの部分を指すのでしょうか?申し訳ありませんが、むしろ小宮さんのほうが、トランスジェンダーを差別をされているのではという疑念をもちました。

さらに

同性愛解放運動やトランスライツ運動が70年代以降に起こったという歴史観にもおおいに疑問がありますが

の個所ですが、それをいったら、女性運動が70年代に起こったと書くことも同様に、それ以前の歴史を捨象しているとも言えます。女性運動のあとに、ゲイ解放運動、トランスライツ運動が、社会的に認識されるようなうねりになっていったという順番を指摘する個所ですが、それに小宮さんは賛同されませんか?

5.ジェンダーの構築性について

すでに述べたように、バトラー等によって、セックスは構築物であるとされた。セックスが社会的につくられているのであれば、そこから自由になる権利が要求されるようになるのは、ある意味で当然の流れかもしれない。……アイデンテイティが社会的構築物であるという指摘は、その再編成を帰結し得る。「変更不可能な強固なジェンダー・アイデンテイティ」の物語から、「変更可能で柔軟なジェンダー・アイデンテイティ」(男でも女でもないノンバイナリーか、「昨日の自分は『女より』だったけれども、今日の自分は『男より』」といったジェンダー・フルイドまでを含む) の物語へと移行したようにみえる。(p. 427)

千田有紀「フェミニズム、ジェンダー論における差異の政治」

こうした私の文章に対して、

 こうした記述を読むと、まるでトランスジェンダー(とりわけノンバイナリーの人やジェンダーフルイド)の人が自分たちのアイデンティティについて、「変更可能で柔軟な」ものだと主張していると書かれているように見えます。

という批判をされますが、誤解です。ここは「社会」のレベルでの社会規範を分析して述べている個所であり、バトラーによってジェンダー規範の構築性が明らかにされたあと、その構築された「社会規範」を揺るがすことが許容されてきたと述べているだけであり、男女にとどまらない自己の呈示のありかたが社会的に許容されるようになったという事実を述べているにすぎません。それは「物語」という言葉を使用していることからも明らかであり、社会学者であれば普通そう受け取るしかないと思うのですが(と書くと、「自分は社会学者ですがそう読めませんでした」という小宮さん擁護が出てくるのを予期はしますが)、なぜアイデンティティに苦しむトランスジェンダーのひと自身が、私のアイデンティティは「変更可能で柔軟な」ものなんですよ、などと主張する必要があるのですか? それなら問題はすでに解決しているではないのでしょうか? そしてなぜ、そんな荒唐無稽なことを、私が主張するなどと考えられるんでしょうか?

6.「一部のフェミニスト」はまともではない?

……女湯に関しては、 裁判所や医療による認定を介在させない性別変更(=セルフID) が犯罪者によって悪用されるという懸念と、ペニスがついているからといって女性扱いしないのは「ペニスフォビア」だという主張との間で、激しい応酬がSNS を中心になされている。

千田有紀「フェミニズム、ジェンダー論における差異の政治」

こう書いた私の個所に関して、小宮さんは以下のように批判されています。

「ペニスがついている」トランス女性を女湯に入れないのは「ペニスフォビアだ」という主張をトランス女性がしているように読めます。けれどそんな主張が「激しい応酬」を構成するような量でおこなわれているという事実は私の知る限りではありません。また、「セルフIDが犯罪者によって悪用される懸念」についても、実際にはそれだけでなくトランス女性そのものを潜在的犯罪者とみなすかのような差別的言説も数多くあるのですが、そのことには触れられていません*3。要するに、「対立」を紹介するにあたって双方の主張に対してチェリーピッキングがおこなわれ、「一部のフェミニスト」がまともに見えるような印象操作がおこなわれているように見えます。

まず、「ペニスがついている」トランス女性を女湯に入れないのは「ペニスフォビアだ」という主張をトランス女性がしているように読めます。という点ですが、ここで私はトランス女性を主語にはしていません。

私がその後に取り上げている清水晶子さんご自身が「埋没した棘」という論文で、トランス女性のペニスを「棘」になぞらえて、女湯での女性と棘との関係を考察されていらっしゃるのではないかと思います。それに対しては、SNSで多くの批判がなされたと思います。また小宮さんも「ペニスへの恐怖」についてSNSで発言されていらっしゃいます。こうしたSNSでの応酬の過程で、「女根」「ガールディック」などという言葉が、日本でも出てきたのではないかと私は認識しています。

「トランス女性そのものを潜在的犯罪者とみなす」言説も確かに存在するでしょう。しかしここは、セルフIDをもしも認めたときにおこる懸念と、風呂の性別の区別は、性器ではなくジェンダー・アイデンティティ(性自認)で行うべきだという言説の論理の対立を述べたところです。
そして小宮さんの「一部のフェミニスト」がまともに見えるような印象操作がおこなわれているように見えますという文章が主張することは、「一部のフェミニスト」がまともではないということでしょうか? 驚きました。「一部の〇〇」がまともに見えるような印象操作が行われている、という文章の〇〇に、ほかのマイノリティを入れることは可能でしょうか?驚愕します。小宮さんのこの記述は、それこそ差別だと言われかねないのではないでしょうか? 通常でしたら、「まとも/まともでない」といった判断は(「まとも」という言葉の対になる概念が差別的であるので、それこそ通常の社会学者なら言説のレベルでも使わないと思いますが)、せめて「言説」のレベルにとどめるべきだと思います。

7.そういうところ?

主張されるべきは、トイレや風呂が「公共的に」整備され、何人も排除されず、万人に開かれていなければならないということであり、同時に「プライバシー」や安全が確保され、どのような身体もが、なにものにも脅かされるべきではないこと、そのイシューのために女性とトランスジェンダーは手を携えて連帯可能であるし、連帯すべきということではないか。(p. 429)

千田有紀「フェミニズム、ジェンダー論における差異の政治」

という文章に対して小宮さんは、

書かれていること自体はごもっともなのですが、その中でさらっと「女性とトランスジェンダー」と書いてしまう、そういうところです。

と述べます。私もいろいろと考えて言葉を選びました。もし私が「女性とトランス女性」という言葉を使ったなら、「シス女性とトランス女性」と書くようにと小宮さんがおっしゃるのはまだわかるのですが…。ここで排除されているのは、小宮さんのような「シス男性」だけだという意味です。すみません。女性にはトランス女性も含みますし、トランスジェンダーにはトランス男性も含むのです。ここのいったい何が、「そういうところ」なのでしょうか?

8.差別とキャンセル

以上、トランス差別のクリーシェと同型になっているところをすぐ気がつく範囲で指摘しました。細かく見ればもっといろいろ言いたいことはありますが、たかだか3頁ちょっとの文章にいくつもこうした点があるのです。しかも、著者の時代診断にはなぜそう判断したのかの根拠がほとんど示されていないため、読者は著者のその診断の真偽なり是非なりを事実を辿って検討することができません。読者が検討できない形でトランス差別的なクリーシェがなぞられているのは、学術論文として問題があると私は思います。

以上、小宮さんが挙げられたすべての論点に対して応答しました。私は小宮さんの論点のすべてに反論しましたので、「差別云々」、特に以下の記述を取り下げてくださると幸いです。

ただ、結果的にこうなったことによって、日本社会学会(の中のジェンダー研究者)にはトランスジェンダーに対する偏見や差別的感情があるのではないかという疑いが読者に生じたとしても無理のないことだと私は思います。私だってそんな疑いを持ちながら学会に参加するのは嫌だと感じますから、トランスジェンダー当事者の研究者(特に若手の研究者)にとっては学会参加が恐怖と感じられてしまうかもしれません。だから、この論文の記述に学問作法上の問題と倫理的な問題を感じる日本社会学会会員もいるよということを、まずは急いで表明しておきます。

私も、このような、私には「まとも」とはとうてい思えない(失礼)、批判という名前を借りた中傷を、「シス男性」の学会の編集委員から行われて、本当に学会参加が恐怖です。

今、朦朧ととしています。本当に、この文章を書く時間があれば、やりたいこと、やらなければいけないことがたくさんありました。文字数を見たら、小さな学術記事の1本は超えています。

この文章を書いていて、一番感じたのは、虚しさです。2年かかって書いた論文に対してこうした批判をする小宮さんも、また違った時間の使い方があったんじゃないでしょうか。そしていま小宮さんのブログを改めて見たら、近年のエントリーはすべて私への批判ばかりでした…。その情熱が意味するものは、いったい何でしょうか? 今までは、研究者は論文で勝負するものだと思い、いちいち反論してきませんでしたが、今回はさすがに看過できませんでした。

研究者に対して、「差別」という言葉を使うことはとても重いことです。もし使うのであったら、使う側にも責任があるということを忘れないでいて欲しいと思います。論文作法がなっていないと言った、研究者の基本的な能力を疑うような指摘に関しても同様です。

小宮さんの指摘する「構成上の問題」は、小宮さんが論文を書かれるときにそのように書かれれば良いのであって、これは私の論文なのです。また例えば、6章で「トランスジェンダーフェミニズムの関係をめぐってこれまで論じられてきたことが紹介され検討されるべきだったはずです」は、少なくとも小宮さんの問題意識に基づく判断であり、他の章とのバランスを考えたら困難ですし、おかしなことであるのは、ご理解いただけませんでしょうか? またスコットランドの件を小宮さんがご存知なかったことをもって「論文の通常の作法」が守られていないとここまで繰り返されても、困惑します。

読者である研究者があまりよくないと思う論文は後続の研究において参照しなければいいだけで、学問というのはそういうものです。

本当にその通りですね。しかし、そのことをあえて持ち出して、私の論文を参照すると差別に加担するかのような筆致で、私や私の論文を「キャンセル」しようとするのはやめていただきたいです。そして真にそう思うのであったら、私の批判に拘泥するのではなく、まさに小宮さん自身が、生産的に議論を積み重ね、あらたな論文を書かれるのがよいのではないでしょうか?今後のご活躍を祈念します。


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