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今後は、何らかの判断を求めるかもしれない宣言。

ご無沙汰しています。実は、アメリカに来ています。非常に尾籠な話で恐縮なのですが、アメリカに来て驚いたことは、ここ数年、ずっと悩まされていた下痢と腹痛がぴたりと止まったことです。

ご飯を食べてしばらくすると、ときには水のように(ごめんなさい)流れていく下痢のせいで、外食が難しく、また持病の薬を飲むタイミングを考えたりして、社会生活もままなりませんでした。それによってまた慢性的な疲労感も甚大で、メールの返事を書くのもままならず、また腎臓にも大きな負担がかかっていたようでした。

こういう状態が、日本から離れることでぴたりとやんだのです。歩いても寝込まない。大学に行っても大丈夫。ウォシュレットのないアメリカで生きていけないと思い詰めていたけれども(ポータブルウォシュレットまで、日本から持参しました)、それも必要ない。何よりも日本と、学問をめぐる現状について話したら、いきなり下痢が復活し、いまの現状が私の心身を蝕んでいることを、はっきりと自覚しました。私は私の身体に責任をもって、労わらなければならないと感じました。いままで、嫌がらせには屈しないと思ってきましたが、嫌がらせされていて平気な人はいないのです。当たり前ですが。図らずしも、自分自身の身体から教えられた格好となりました。

このツイートで「トランス差別主義者」と認定されてから(トランスと女性は対立させられてなどいない、トランスを排除しようとするフェミニストがいるだけだ、お前自身が反省しろ、他人事みたいに言ってんなこの糞TERF)、謝罪しなかったということで(申し訳ないけれどもいまでも、間違ったことを言っているとは思っていないから、学者としてそれはできない)、ネット上で非常な嫌がらせを受けてきました。

私がフェミニズムとトランスをめぐる問題の収拾を願って『現代思想』に書いた「女の境界線を引きなおす」は、当然「女」のなかにトランスジェンダーも入れなければというタイトルですが、それすら曲解し、「女の中からトランスを排除しようとする論文だ」と猛攻撃を受けました。そう受けとった人は、論文を読み取ることができていないか、悪意のある人だと思います。セルフIDの尊重に関して、トランスはセルフIDなど主張していない、それはTERFの陰謀だという説に多くの人が同意して私を叩いてきたのですから、いったいそれでは何が賭け金となっているのか(表現が古い)、目を白黒させた、というところが実情です(そして多くの人は、私の論考を読んでいないと思います)。

『社会学評論』の「ジェンダー研究の挑戦」の公募特集で、私の論文が採択されました。この論文も、学会誌という皆がアクセスすることのできない状態の論文に対して、論拠を全くあげることなく、「差別だ」という批判をいただきました(正当な批判として、社会学評論の編集部に抗議論文を出すという若手研究者がいらしたようですが、それはぜひどうぞご自由にお願いします)。

お名前を出すのもためらってきましたが、ひとつは森山至貴さんによるものです。

何が「大きな問題」なのか「載ってはいけない差別的な記述」とはなんであるのか、森山さんが明らかにされていないため、私にはまったくわかりません。「どのレベルの問題として考えるべきかはまだ考えが整理できていません」という状態で、他の研究者に対して「差別」という言葉をぶつけるのは、尚早ではないでしょうか? 以前の私の『現代思想』に対しても、

「きわめて直感的な物言い」で「もう少し丁寧に考える必要がある」といいながら、私の論文を批判されていらっしゃいました。私の立場のどの部分がトランスフォビックなのか、ご教示いただけると幸いです。何度も繰り返しますが、「差別」や「フォビア」という言葉はとても重い言葉であり、軽々しく使えるものではないと思いますので。

森山さんも前出の小宮さんも、ご本人はLGBTの立場から(トランス当事者ではないと思いますが、わかりません)、もしくはLGBTを代弁する立場から、「トランス排除的フェミニスト」に対して批判はすべきであり、正義だと思われているのかなと推察します。

しかし立場を変えてみれば、仮にも常勤職を得ている男性教員という立場の方が、女性である私に対して、フェミニズムの論題に対して、SNSで論拠をあげずに、何度も(これ以外にも)あてこすったり、学者生命を脅かすような「差別」という言葉を投げつけてくることの持つ意味を、今一度立ち止まって考えていただきたいと思うのです。これこそまさに、インターセクショナリティの課題だと思います。

森山さんと小宮さん、そのほかの社会学会に属される方もですが、今後このような論拠を上げない批判、もしくは「差別主義者」といったラベルを貼るだけの「嫌がらせ」(言葉が強くてすみません)をなされるのでしたら、学会内での判断をお願いしようと考えています。四六時中、嫌がらせをされている状態で、自由な議論や学問などが可能かどうかを考えていたただきたい(もちろん、ご自身は「嫌がらせ」だとは微塵も思われておらず、正しいことをしているとお考えだと思うのですが。そしてそのように嫌がらせによって私に学者を辞めさせるのが目的だと、SNSで活動家の方たちが書いておいでです)。具体的には、私個人からも、まず倫理委員会に訴えて判断を仰ぐ、というようなことになるでしょうか。

いままでこうしたことだけは、学者としてどうだろうかと自問してきました。がしかし、対話が成り立たず、SNSにおいて(小宮さんには「ナチ」扱いされましたし)、論拠もあげることなく、「差別」というレッテルを張るという行為を続けられるのであったら、私自身が健康に生き延びるために、何らかの措置を行わなければならないのだろうと考えています。

同じ学会の方で倫理委員会がある場合はよいのですが、そうでないケースの場合は、司法による判断となるしかないのだろうか、とも考えています。もちろん、繰り返しますが、議論や、論拠を上げた批判自体は大歓迎なのです。

双方とも、学者として本当にやりたくはありません。しかし私自身が、現状を放置すべきではないという決意を固めましたので、ここに宣言させていただく次第です。







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