(中編小説)ちび神様と夜空の花 前編
一.不思議な赤色
真夏の射すような日差しも、夏林の豊かな青葉が生い茂るこの場所までは届かない。
静寂の落ちる涼やかな雑木林の神社は、今日も訪れる者などいない――はずだった。
コトリ
控えめな音が響き、本殿の低い階段を上った賽銭箱の向こう、古びた引き戸がすうっと開く。中からひょこりと顔をのぞかせたのは、萌葱色のかすれ十字の着物を着た、小さな男の子。
彼は落ち着かない様子できょろきょろと辺りを見渡し、それから枯れ葉の積もった石階段をとことこと降り始める。十歳程の見た目にしては、歩き始めの稚児のように、どこかおぼつかない足取りだった。
とん、と下駄の音を鳴らせて石畳の地面に着地した瞬間、ふいに突風が辺りの砂利を巻き上げる。同じく風にもて遊ばれる男の子の癖っ毛に、木々の夏葉の切れ目から射し込んだ日差しが、そっと光の線を落とした。
――それはとても不思議な色だった。一見ただの薄茶色の髪も瞳も、光の下では鮮やかな赤へと移り変わる。そればかりか光の微妙な加減でゆらゆらと色を変え、まるで生き物のように無数の色が舞い遊ぶ。
けれど、それを目にする者はここには誰もいない。
男の子は下駄の軽い音を響かせながら、神社の境内をかけていく。
やがて鳥居の向こうに消えていった不思議な赤色を、覆い隠すような背の高い木々たちだけが、静かに見つめていたのだった。
***
火織町(ひおりちょう)の花火は神様の花火。
それは祖父の口癖だったけれど、絵里がそれはどういう意味だと何回尋ねても、ついぞ本当のことは教えてくれなかった。その祖父もある日ぽっくりといなくなってしまい、聞き飽きたセリフを言う者がいなくなってから優に三年が経つ。
……ああ、誰もいないと言うと語弊があった。一応いるにはいたっけ、時々思い出したように真似をするやつが。
「ぷはー、真夏のビールはうまいねぇ!」
それが誰かというと、今まさに隣で缶ビール片手にとろけている中年男性。つまり絵里の父親。
「ふやけすぎて目がなくなってるよ。あと、酔っ払うには太陽がピカピカ光りすぎだよ、おっちゃん」
タヌキのようなヘンテコなキャラクターのTシャツを着たツンツン頭の男性に、絵里は冷ややかな視線を投げる。彼は縁側に寝そべったまま絵里をにらむ。けれど無駄に長い背丈が余計にだらしなさを助長させているから、正直何の迫力もない。
「こら、父親に向かっておっちゃんとはなんだ」
「だってどう見てもおっちゃんじゃん」
つれなく返し、絵里は右手のアイスキャンディーをぺろりとなめる。ヒンヤリとした感触が気持ちいい。これぞ夏の醍醐味、ビールなんかよりよっぽど健康的。
「さすがに今日が何の日かはわかってるよね? 準備は?」
「だーいじょうぶ! 俺を誰だと思ってる!」
「いや、父ちゃんだから心配してるんだよ!」
はぁーっと大げさなため息を漏らし、絵里は縁側から両足を突き出したまま空を見上げる。ショートパンツからのぞく健康的な両足に、遠慮なく照りつける現役バリバリの夏の太陽。彼はまだ空の一番高いところで元気に仕事している。この勤勉さを、父の琢馬にも見習ってほしい。
「疑り深いなあ。心配ご無用、父ちゃんにどーんと任せとけ!」
「その根拠はどこから」
「ちゃんとあるぞ。なんたって、火織町の花火は〝神様の花火〟だからな!」
……あーでたでた。でたよ。こういう時だけ都合良く真似するんだこの人は。
「その意味知ってて言ってる?」
「いや、知らん」
「知らんのんかいっ」
突っ込みついでに手を伸ばしてチョップをいれる。すると「ううっ」とオーバーな反応をされて、一気に脱力感が襲ってくる。
「……父ちゃんなんかが火織町の花火師の頭領なんて、絶対何か間違ってるよ」
「間違ってない。親分だぞ、社長様だぞ、もっと敬え娘よ」
またわけのわからないことを言い始める琢馬を軽く小突くと、やっぱり大仰なうめき声が返ってくる。……やめよう、寒い漫才に加担している気分になってくる。
火織町――火を織る町。そう名付けられた絵里の住む町は、昔は随分と栄えた花火職人たちの町だったらしい。らしいというのは、今はもう廃れてしまって職人も五人程しかおらず、観光客も滅多に来ない無名の田舎町と化しているからだ。
見所と言えば、絵里の家も含めて所々に残っている昔ながらの町並みくらい。歴史マニアには密かに人気らしいけど、生まれてずっと火織に住んでいる絵里からすれば、都会の今風な建物がうらやましい。
とりあえずエアコン。なんで今時エアコンすらないんだろう。日本家屋だって暑い時は暑いよ、だって夏だもん。
「おー、お前いいもん食ってんなあ」
背後から涼しい声がして、絵里のショートカットの髪にわしゃっと手が置かれる。面倒だから振り返らない。見なくても、父親似の図体ばかりでかい体でニヤつく大樹の姿が目に浮かぶ。
「最後の一個。お兄のはないもん」
「ふーん?」
やけに興味のなさそうな返事の後に、どかっと腰を下ろす木の軋む音がした。なんだか嫌な予感。
「あっち行ってよ、お兄が来たら人口密度があがるじゃん」
「俺よか、そっちのおっさんの方がよっぽど面積占めてんぞ」
さらっと言った大樹の台詞に本人からの反論はない。かわりに、ぐーという間抜けな寝息。
「おう、頼りがいのある棟梁様だな?」
「う……」
頭が痛い。そして不安しかない。
この荒谷家は、代々火織町の花火職人を束ねてきた家柄だ。じっちゃんこと荒谷源蔵が十代目。そして琢馬が、今となっては風前の灯火の火織の花火業の、その灯火より頼りない十一代目。
一応今日は年に一度の夏祭りで、廃れかけてるとはいえ火織名物の花火大会のはずで、花火師たちの腕の見せどころ。なんだけど、そんな日でさえ油を売っているダメ十一代目。ちゃんと頭領をこなせているのかは、荒谷家最大の謎。
「――すきありっ」
「へっ!? あー!!」
いきなり悪戯っぽい声とともに大樹の長い腕が伸びてくる。あっと思った次の瞬間、絵里は悲鳴のような声をあげていた。
だって、ない。さっきまで絵里が持っていたアイスがない。
「ああああ! お兄のばかー!」
「へっへー」
抵抗も空しく最後のアイスが大樹の口に吸い込まれて消える。悔しい絵里は大樹の頭をぽこぽこと叩き始めるが、悲しいかな背丈はつま先立ちでようやく届く程度。
「ばかばかばかばかばか!」
「いってぇな、頭叩いたら脳みそが減るだろうが」
「お兄の脳みそ減っても大して変わらな……」
「は?」
「なんでもないっ」
絵里の力なんて彼にとっては風が吹く程度のものでしかなく、段々腕も疲れてくる。諦めた絵里が、渋々踵を床に戻したその時だった。
にゃあ
突然、絵里の横から猫の鳴き声がした。
正直、あまりに静かで今の今まで存在も忘れていたのだが、そこにはトラ猫のトラが溶けたアイスクリームのごとくへたり込んでいたはずだった。
けれど今彼は立ち上がり、まん丸に見開いた目でじっと庭の外を見つめている。雑草の生えた庭の向こう、家を区切る石垣のさらに向こう、赤い影がわずかに見えた――ような気がした。
「にゃあー!」
「ちょっと、トラ!?」
突然外に向かって走り出したトラに、絵里は戸惑った声を上げる。伸ばした手もすり抜けて、トラはあっという間に石垣を飛び上がりその向こうに消えていく。
絵里は間抜けに口を開けたまま、しばらく呆気にとられていた。トラは絵里の家で一番の老体で、家から外に出ることさえ滅多にない。それどころか、糸のように細い目が開けられることさえ珍しかったというのに。
「ねえ、トラ行っちゃったよ!?」
慌てて琢馬を揺り起こすも、いつの間にか寝ていたらしい彼はとろんとした目で絵里を見る。
「ん……そのうち帰ってくるんじゃないか?」
「のんきすぎるって、どっかでへばっちゃったらどうするの!?
「妹よ、こういう時うちの親父は頼りにならない。とゆーわけで出番だちび猿」
「へ、私!?」
ていうか猿じゃない! そう絵里が大樹をにらむが早いか、大樹が手に持った何かを絵里の前にぶらつかせた。
「へ~じゃあこれは俺のものでいいのかなあ~」
「え、何……あー! アイスの棒当たってるー!」
「おっと、最後に持ってたのは俺だぜ。ただじゃあやれねぇなあ」
時代劇の悪代官みたいな台詞。表情だって悪人さながらの不敵な笑み。
絵里の中で、炎天下の暑さと甘いアイスキャンディーが喧嘩する。天秤はあっちに傾きこっちに傾き、そして結局、
「お兄の意地悪!!」
捨て台詞とともに彼の手からアイスの棒を引っつかむ。ポケットにねじ込みながら庭に飛び降りて、靴を引っかけながら緩やかに助走。そして伸ばした手が石垣に届いた瞬間、ぐいっと力をこめて小柄な体を宙に浮かせた。石垣の上に着地して家の前の道路を見下ろすと、遠くを走り去って行くトラの姿が見える。
「すげえ、やっぱ猿!」
「だから猿じゃない!」
叫んで、ジャンプ。真夏の乾いたアスファルトから両足に衝撃が伝わってくる。
その間にトラはもう道路の曲がり角にさしかかろうとしていた。絵里は全力で堅いアスファルトを蹴り飛ばす。
そのまま絵里は日本家屋の立ち並ぶ通りを走り抜け、トラが曲がったはずの角を強引に急転回。しかしその先には、真夏の太陽が照りつける無人の道が続くだけ。
「トラー! どこ行ったのー!」
あの老体のどこにあんな力が残ってたんだろう。それも、なんでこんな急に。
途方にくれた絵里が足踏みを繰り返していると、少し離れたところで「うわあっ」という高めの声が聞こえる。
とっさに、声が聞こえた路地へと飛び込んだ。家々の間の石畳の坂道を駆け上がった先に、何かにまとわりつくトラのでっぷりとした体が見えてくる。そして仁王立ちになったトラの陰に隠れた、もう一つの何か。
「トラ!」
絵里が声を上げた瞬間、トラが地面に着地する。直後、トラの向こうにいたそれとはっきりと目があったのだ。
――瞬間、言葉を忘れた。
大きな丸い瞳の、十歳くらいの小さな男の子だった。時代劇から抜け出たような、萌葱色のかすり十字の夏着物。華奢な体に不釣り合いの、少し大きすぎる下駄。
そして、くりくりと絵里を見つめる大きな瞳と短い髪の色は、
(赤……?)
一見茶色のようにも思った。けれどその瞳も髪も、日の光に照らされる度にゆらゆらと色を変える。水彩のような鮮やかな赤にも、夕暮れ時の深い茜色にも、夜闇の提灯の優しい緋色にも見える、そんな不思議な色。
そしてその色は、彼の萌葱色の着物にとてもよく映える。
「きみは……」
「ヌシ、この猫の主人かの?」
言いかけた絵里の声をさえぎって、男の子が口を開いた。年相応の、幼い舌足らずな高めの声。しかしその物言いは妙に尊大で、絵里は最初何のことを言われているのかもわからなかった。
「え、ヌシって、私?」
「決まっておろう、今この場におるのはヌシ一人じゃぞ」
なんなのだろうこの子は。そう思ったけれど、不思議と腹は立たなかった。どう聞いてもちぐはぐなはずのその口調は、どうしてかよく似合っているようにも思えたのだ。
「うちの猫だけど……」
「ふうむ」
男の子は考え込むようにトラを見下ろしている。そのトラはしきりに男の子に体をこすりつけては、時折甘えるような鳴き声をあげる。やっぱりおかしい、トラは滅多に他人に慣れないはずなのに。
ふいに、男の子が何かに気付いたようにはっとした表情になった。
「そうじゃ! 源蔵は元気かの?」
「え、源蔵て、じっちゃんのこと? じっちゃんなら三年前に死んだけど」
そう答えると、男の子の瞳がひときわ大きく見開かれた。不思議な色に覆い隠されて少し表情が読み取りにくい。でも、多分驚きの感情だったと思う。
「そうか……もうそんなになるのか」
男の子の目が遠くを見るようにすっと細められる。その仕草もまた、幼い見た目に不釣り合いなものだった。
「ヌシは、随分と長生きしたのじゃのう」
そう呼びかけながら男の子がそっとトラの頭をなでる。するとトラはますます嬉しそうにゴロゴロとのどを鳴らすのだった。
そして、さっと男の子は絵里へと向き直る
「して、ヌシ!」
「は、はい!」
なぜか反射的に気をつけの姿勢になってしまった。しかし男の子は気にした様子もなく、余裕たっぷりに小さな胸を張る。
「頼みがあるのじゃ。久方ぶりに出てきたはいいが、すっかり町の様子がわからんくなっておってのう」
彼の不思議な瞳が、日差しの下で揺らめく赤が絵里を射貫く。見つめていると奥深くまで吸い込まれてしまいそう。けれど目を離すことができない。
「源蔵の孫なら丁度良い。ヌシはたった今からワシの道案内人じゃ!」
一方的に命令して、しかも案内しろと言ったくせに男の子は自分ですたすたと歩き始める。その背に慌てて絵里は追いすがった。どうしよう、何をどう言えばいいんだろう。何から突っ込んだらいいんだろう。何もわからない、何も――、
「待ってよ、きみ、名前は!?」
ぐるぐる回る思考の中から最初に出てきたのは、そんな言葉だった。風が通り抜けて、男の子がくるりと振り返る。路地裏の控えめな日差しに照らされて、短い癖っ毛の上で無数の赤色が遊ぶ。
ふわりと、笑ったように思った。
「カヤリ――カヤリじゃ」
***
二.夕刻の残り火
「ほう! ほうほう! これはたいそう美味いのう!」
そして、カヤリと名乗った不思議な男の子は、こうして絵里の横でソフトクリーム片手に頬をほころばせている。
「そんなにおいしい?」
「とてもとても美味じゃぞ! この世にこのようなものがあるなぞ知らんかったわい!」
知らなかったなんて、いったいどこのド田舎から来たんだろう。そう思ったのだけど、カヤリがあんまりに嬉しそうなので何も言わなかった。かわりに絵里は、本日二本目のアイスキャンディーをぺろり。
(こうしてると、仕草は普通の男の子なんだけどなあ……)
絵里はうーんと首をひねりながら、隣にちょこんと座ったカヤリを見やる。
木の匂いの香る、小さな木造家屋の何でも屋さん。その軒先のベンチ。そこでソフトクリームを頬張るカヤリの顔自体も、同じようにすっかりとろけている。絵面だけはどこにでもありそうな光景だけれど、その髪と目は不思議な幾つもの赤色にくるくると色を変える。
どこかで見たような懐かしさを覚える、けれど初めて見る色。
「ねえ、カヤリって、どういう字を書くの?」
「字なぞない。ただのカヤリじゃ」
なんとなく、そんな答えが返ってくるような気はしていた。
聞き慣れない名前。見慣れない容姿。ちぐはぐな口調。――本当に、どこから来たんだろうと思う。
「今からこの町を案内せい!」というその勢いに押されて、あれから絵里は言われるままに町中を案内して回った。よくわからないから、古い日本家屋の建ち並ぶ通りとか、昔ながらの小物屋だったり時計屋だったりとか、青々と茂る田んぼのあぜ道とか、都会から来た人たちが喜びそうなところから案内してみた。けれど、そんなものにはカヤリは全然興味を示さず、ふむふむとうなずきながら眺めているだけだった。
一番反応があったのは、最近できたこの町唯一のコンビニに行ったときだ。まず自動ドアに大興奮して、出たり入ったりを十回は繰り返して店員さんを不審がらせた。そして店内の涼しさに驚き、置いてあるちょっとした携帯機器だったりお菓子だったりの商品にいちいち目をくりくりさせ、最終的にレジの機械に触りたがって中まで入ろうとするから無理矢理手を引いて退散してきた。
よほどの田舎から来たのだろうか。それともいっそ外国とか。
「なんじゃ人の顔をまじまじと見て。何かついとるかや?」
「な、なんでもないよ」
で、その後どうしたのかというと、散々はしゃいだのは自分なくせに、今度は疲れた休みたいと盛大にゴネ始めた。だからこうして仲良くよろづ屋の軒先に収まっている。
お兄から奪った当たり棒がようやく活躍。カヤリのソフトクリームは、仕方ないので絵里のなけなしの小遣いから。
「ヌシ! なんなのじゃこれは!」
どこからかカヤリの舌足らずな大きな声があがる。振り向くと、いつの間にかカヤリの姿は絵里の隣から忽然と消えていた。かわりに店先の展示台の上をきらきらした目でのぞき込んでいて、見れば他のおもちゃと一緒に携帯ゲーム機が置いてある。
「何やらボタンがたくさんあるのじゃ! 押したら動くのじゃ! なんなのじゃこれは!」
「そっか、コンビニ知らないとゲーム機も知らないんだ……」
「なんじゃ!?」
「え、えーっとね」
ゲーム機といってもこの町はちょっと時代の流れに取り残されていて、二世代くらい前のもの。ゲーム店がないこの町の子どもたちの嘆きを聞き入れて、よろづ屋のおばちゃんが仕入れ始めたのだ。
「これはゲーム機だよ。これとこのボタンを、こうやってこうしてこうすると……」
「ほおお!?」
カヤリのただでさえ大きな瞳が、それこそ倍くらいにまん丸になる。くるくる動く瞳に会わせて、吸い込まれそうな赤色もゆらゆらと揺れる。まるで、彼の感情に合わせているみたい。
夢中でゲーム機をいじり回し始めたカヤリに少し呆れながら、絵里は店内の棚に目を向ける。
(相変わらず、すごい店だなあ)
いつからあるのかわからない埃をかぶった食器たちの横に、スマホの充電器があったかと思えば、ラムネボトルグミやらプリンチョコやらの駄菓子が並んだかと思えば、表には今時のゲーム機たち。他にも多種多様の日用品あり。
店主の言い分はというと、みんなの要望を素直に聞いていたらこうなった、らしい。
「絵里ちゃん、あの子誰なんだい? 外人さんっぽいけど、知り合いの子かい……?」
そのちょっと素直すぎる気もする、今も昔もなんでもござれ、よろづ屋火織のおばちゃんは絵里に向かって不審げな表情を隠さない。
「いやあ、私もぜんっぜんよくわからないんですけど……」
素直に本音を言ったら、ますますおばちゃんの眉毛がくいっと曲がった。
「あ、おばちゃん! 提灯ちょうだい提灯!」
「ああ、今日の夏祭り用だね。はいよっと」
追求されたところで何も答えられないので、絵里は慌てて話題を変える。実際に用があったのは事実だ。火を灯すための手持ちの提灯は、年に一度の夏祭りの必需品。
「――今日は、夏祭りなのかや?」
いきなり背後で声がして、絵里は思わず飛び上がってしまった。ゲームに夢中になっていたはずのカヤリが、いつの間にか絵里の真後ろにいる。さっきまで子どもらしくクリクリ動いていた瞳は、今は絵里をじっと見つめて離さず、似つかわしくない深淵の奥深さに息をのむ。思わず、気圧されそうだった。
「そ、そうだよ。今晩は年に一度の夏祭り。火の神様のお祭りだよ」
火織町の花火は神様の花火。その意味は今となっては定かではないが、確かに火織町には神様がいた、らしい。火の神様だということしか伝わっていないその名もなき神は、今もひっそりと町外れの神社に祀られている。
「火の神様のお祭っていっても、ちょっと使われる火の数が多いかな? ってくらいで、大したことしてないんだけどね。カヤリ、夜になったら見にいく?」
「……いや、良い。どうせそこまで保たぬじゃろう」
「え?」
何気ない提案は、やんわりと否定の言葉で押し返された。
少し苦笑したような表情は、深みを帯びた瞳の赤と相まって、どこか儚さというか線の薄さのようなものを感じさせる。
絵里はそれを、寂しそうだと思ってしまった。――どうしてこの子は、時々年に似合わない遠くを見るような目をするのだろう。
「ヌシ、ワシは最後にあそこに行きたいぞ!」
ふいに、打って変わって明るいカヤリの声がする。この変わり身の早さにもしばしば戸惑う。
そんな絵里の気も知らず、カヤリはもう外に向かってすたすたと歩き始めていた。
そして見た目にちぐはぐな、とっても偉そうな尊大な態度で振り返る。
「花火師たちの工房じゃ。連れて行くがよい!」
***
少し町を外れたところにある火織花火工房は、多分火織町で一番大きな建物だと思う。切り出した石を積み上げた壁は、薄汚れてはいるものの、横長の堂々とした造りと相まって長年の風格を感じさせる。もっとも、何十人も職人を抱えていた昔とは違い、今はごく一部の部屋しか使っていないらしいけど。
そんな歴史ある花火工房の外は、本番当日の特殊な活気と緊張感に満ちていた。
「あれえ、絵里ちゃん。珍しいねえ」
「高木のおじちゃん!」
入り口付近には軽トラックが二台乗り付けていて、職人の男たちが花火大会で使う機材を積み込んでいる真っ最中だった。そのうちの一人が絵里に声をかけてくる。
「どうしたの? お父さんに用事?」
「えーっと、用事ってほどじゃないんですけど。うちのバカ親父ちゃんと仕事してるかなあ、なんて」
まんざら嘘でもない。数時間前まで縁側の住人と化していたあの呑気者も、さすがにもう来ていると信じたいが。
そんな内情を全部知っているわけではないと思うけど、高木のおじちゃんは察したように軽快な笑い声をたてる。
「あはは、琢馬さんなら中にいるよ、呼ぶ?」
「いや、来てるならいいんです」
そうかい、とおじちゃんはうなずいてから、絵里の後ろに無言で立っているカヤリに気付いて目を瞬かせた。
「きみは――」
「ヌシは、ここの職人かや?」
おじちゃんの問いに答えもせず、カヤリの質問が飛ぶ。おじちゃんがますます戸惑う気配がする。ああだめだ、見ていられない。
「そう、だけど」
「そうかや、なら邪魔するでの」
おろおろしている絵里の横も、呆気にとられているおじちゃんの横もすり抜けて、カヤリはすたすたと歩いて行ってしまう。おじちゃんにすみませんと頭を下げて、絵里は慌ててその背に追いすがった。
軽トラックにはすでに、たくさんの打ち上げ筒がところ狭しと並べられていた。その隣に、投げ入れ用の火薬が詰まった箱が置かれる。
火織の花火は、今時流行らない手打ち上げだ。着々と電子化が進むこのご時世、後を継ぐ人が減っているのは多分そのせいもあるんだろう。
「カヤリ、待ってよ!」
呼び止めても、癖っ毛の小さな姿は少しも歩く速さをゆるめない。次々と機材を運び出している職人たちの不審な視線をものともせず、カヤリはどんどん工房の入り口へと突き進んでいく。
そして絵里が追いついた時にはもう、カヤリは鉄扉の開け放たれた入り口をくぐっていた。
「カヤリ」
薄暗い室内の中で深みを帯びた赤色の向こうに、石壁の小さな部屋が広がる。壁いっぱいに備え付けられた木組みの棚には使い古された工具が並び、中央の机には新聞紙や花火玉皮が無造作に置かれている。そして、つんと鼻をくすぐる火薬の臭い。
懐かしさを含んだ心地よさが広がる。昔はよく祖父の源蔵や琢馬の後を追いかけて、絵里も工房に遊びに来ていた。昔気質の源蔵は「工房に女が来るもんじゃない」と顔をしかめたが、決して追い返そうとはしなかった。
「……かわらんの、ここは」
ぽつりと、部屋の空気に紛れてしまいそうな、カヤリの微かな声がした。
その背中はどこか寂しそうで、声をかけることをためらったその時。
「あれ、絵里?」
部屋の奥の扉が開いて、やたらと背の高いつんつん頭の男性が顔をのぞかせる。通路の広さにおさまりきらないその巨体に、サイズの合わない青縞の作業着がなんだかおかしい。
父ちゃん、と絵里が呼びかけるよりも早く、カヤリが深い赤色の瞳を見開く。瞳の奥で驚愕の色が揺れる。
「源蔵……?」
「え?」と琢馬の顔が戸惑いにゆがんだ。それを見たカヤリはすぐに首を振り、ふうっと長いため息をつく。
「ありえぬな……さては息子か。よう似ておるものじゃ」
おかしなカヤリの言動にすっかり琢馬は困惑している。泳いだ視線が絵里に向かうが、絵里も絵里で曖昧な笑いしか返せない。そしてそんな状況でも、カヤリはまったく気にしていないのだった。
「して、息子よ!」
「は、はい!」
泣いても笑っても親子は親子なのか、どこかで聞いたような会話だ。
「この工房も随分と寂しゅうなったものじゃな。先行きは大丈夫なのかや?」
「えーっと……職人ももう五人しかいないし、新しい人も入らないし、結構厳しい、かも」
なんでそんなこと聞くんだ、と顔に書いてある。それでも答えてしまうあたりが琢馬らしい。
カヤリはそれに「そうか」とだけ返し、無言のままきびすを返す。すれ違いざまにのぞき見た不可思議な瞳は、見通すことのできない深紅色。
「いずれ消えゆく定め、か。……ワシと一緒じゃな」
「カヤリ?」
呼んだ名前に反応はない。
今までのやたらと尊大で偉そうな態度はすっかり鳴りを潜め、案内しろ! とも、行くぞ! とも言われなかった。
ただ無言でカヤリはその場を去って行く。小さな背中がよりいっそう小さく見えたのは、果たして気のせいだったのだろうか。
***
「カヤリ、カヤリってば!」
追いかけて追いかけて、何度も名前を呼んだ末に、ようやくカヤリは立ち止まった。
小さな肩は、まるで強すぎる日の下でしおれてしまった花のよう。何か声をかけたいのに、発する言葉さえわからない。もどかしい。
「カヤリ」
「――これは、なんじゃ?」
背を向けたままカヤリが尋ねてくる。一拍おいて、道路の両脇に規則正しく並んだ和紙張りの灯籠のことを言っているのだと気付く。和紙には川の流れや鳥の絵が涼やかに描かれ、曲がり角に消えるまで等間隔で丁寧に並べられている。
「これは、今日のお祭のための灯籠だよ。夕方になったら全部に火が点るんだよ」
すでに日は傾きかけており、暑さも幾分ましになったような気がする。数え切れない炎たちが祭り会場への道を形作るまで、あと少し。
「この灯籠の火と、あとお祭に行く人たちはみんな火のついた提灯をもつの。それで、他の電気は全部消すんだ。たーっくさんの火が町中を照らして、とっても綺麗なんだよ」
ようやく絵里はカヤリの隣に並んだ。絵里の手にもまた、よろづ屋で買った提灯が握られている。
小さな少年は、大きな瞳で道の先をじっと見つめている。「そうか」と、深いため息にも似た声がした。
「ずっと、火は点り続けておったんじゃな」
揺らめく赤は深く濃く、ずっと遠くを見るよう。
「神などおらんでも、火は絶えることなどないのじゃな」
すっと、隣に立っていたはずのカヤリが絵里に背を向ける。続く小さな足音は徐々に絵里から遠ざかっていく。
「ヌシ、そこを動くでないぞ」
「え?」
「これ、振り返るのもなしじゃ」
そう言われて、絵里は身じろぎもできない。息を潜めてじっとしていると、くすりとした笑い声が風に乗って届く。
「今日の礼じゃ。最後に楽しかったゆえな」
その瞬間、握り混んだ提灯の取っ手から、右手にじわりと熱さが伝わってくる。驚いて目の前に掲げたその中、薄い和紙で囲まれた中央で、鮮やかな赤い炎が弾け飛んだ。
生き物のようにうねって激しく燃え上がったのは一瞬のこと、やがて丸いやわらかな火に変わって絵里の手の中で灯りを灯す。
その炎はゆらゆらと揺れる度に、意思があるかのように表情を変える。鮮やかな赤色。沈んだ紅色。深い深い緋色――まるで、カヤリの瞳のよう。
(綺麗)
息をするのも忘れて見とれていると、後ろから偉そうなカヤリの声がした。
「それぐらいしかできぬが許せ。守りをつけたゆえ風程度では消えぬが、これから来る夕立には気をつけるのじゃな」
その声は、どこか遠くから聞こえるかのようだった。
「では達者でな――夕立が過ぎれば、もう二度と会わぬじゃろう」
真横を強い風が通り抜けていく。
徐々に遠ざかっていく声。残響を残して、やがてその気配はぴたりと止んだ。
はっとして絵里が振り返った時には――そこにはもう誰の姿もない。
「カヤリ」
呼びかけには少しの反応もなかった。まるで夢を見ていたのかと思うほど、そこにはいつもと少しも変わらない町の風景が広がっている。
ただ、握りしめた絵里の手の中で、カヤリに似た鮮やかな炎だけが静かに無数の赤色を散らしていた。
西日も陰り始めた夕刻の中、絵里はいつまでも立ち尽くしていたのだった。
カヤリ。きみはいったい、何者だったの。
どうしてそんなに、寂しそうな顔をしていたの?