プロットのない人生を送るということ。

4月の末にライティングの案件をいただいて、ショートストーリを書くようになり、”プロット” に沿って書くということを覚えた。

今までは、小説を書くときもnoteを書く時も、頭の中に全てがあって(今思うとそれがプロットなのだけど) 書き出すということをしていなかった私にとって、”プロット”に沿って書く”ということは、とても新鮮で 同時に、それが実はとても楽なのだということに気がついた。
それでも私はnoteを書く時には、あえてプロットを書き出さないことにしている。するりと逃げてくテーマを捕まえて、ことばを紡ぐ、その感覚が好きなのだと思う。

そうしてふと、

人生のプロットについて考えた。どうしてということもなく、思い浮かんだだけなのだけど、考えてみたくなった。

人生のプロット。
言い換えると、レールとか計画とか、多分そういう言葉。
乗せられてきた とか 立ててきたとか。そういう文章。
”人生”という言葉に対して、”プロット”という言葉を使う時、それは他の言葉と何が違うのか一瞬分からなくなった。ただ言い換えただけじゃないかなと。

そして考えて、私なりの感覚を掴んだ。
それは、「枠組みだけ決まっていて自由に書ける」ということ。起承転結は決まってきて、そこからはみ出すことは通常出来ない。でも私がしている仕事では、その枠組みの中で流れに沿っていれば何をしても良くて、むしろ話を膨らませること・出来事を増やすこと・登場人物を増やすことは良いことで。

それを考えた後に、プロットの中で動くということは、 ”自分で書いていく” という能動的な感覚で、私にとって ”人生を生きる” 感覚に近いのだと思った。
与えられた環境に抗えないこともあるけど、「もっとなにかがあるはず、話を膨らませられるような何かが。」と探す感覚は、プロットという枠組みの中で書く事に近い。

人生にはプロットが存在しないから。

でも人生という物語にはプロットが無い。終わりを知ることもなく、大きな出来事や転換点も予期することが出来ずに始まる。止めない限りは書かなければいけない。書く手を休めることは出来ても、ペンを投げることは簡単じゃない。インクで書かれたそれは消すことも出来ない。紙ごと丸めて投げたくなる。

だから せめて、インクを補充してくれるひとを、投げた紙を拾って しわを伸ばしてくれるひとを願ってしまう。
Sena.

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