左派的思考と右派的思考/エコーチェンバーについて
はじめに
本文の主眼である「左派」「右派」は知覚の順序についての話であり、いわゆる政治的な定義から出発しない。したがって、本文はいわゆる政治的なトピックを固有名詞を挙げて論じる類のものではない。適宜「~的思考」と補って読んでいただければ幸いである。
本文の目的は、盲目的エコーチェンバーと左派の意外な親近性を指摘すると共に、右派的な想像力の可能性について再考するものである(優劣をつけるものではないということは、最後まで読んでいただければわかるはず)。
つまり知覚、認識の話である。
ここでは、『ジル・ドゥルーズの「アベセデール」』の「G(左派)」からそれらの語の定義を導き出している。
ドゥルーズは住所の例を提示するが、大まかにまとめると以下のようになる。
フランスにおける住所の表記は「自分の番地→通り→市→フランス」という順序である。つまり、認識の順序は「私→世界」である。
日本はその逆で、「日本→都道府県→市→町…」という順序である。つまり、認識の順序は「世界→私」である。この知覚が左派である。
これを受けて、本文では「私→世界」を右派とする。
左派的思考と普遍,理想
左派的思考は大枠から出発する。世界という枠から思考を出発させるとき、これは普遍を措定して思考を出発していると言えないだろうか。
私からではなく、世界から始める。または私個人からではなく、人間一般から始めるといった知覚のしかた。
そこでは必然的に、例えば「人間とは○○である/べきである」といった普遍的な像が必要となる。言い換えれば理想像が。
端的に言えば、左派的思考とは「○○である/あるべき」といった演繹的な知覚のことなのではないだろうか。
〈普遍〉とその危険
〈普遍〉としたのはつまり、留意されるべき単語だからである。
それが大前提として即自的に措定されている以上、本当に普遍かどうかはわからないからだ。
「かくあるべき」という理想像を追求することの重要さは、ここでフォローするまでもないだろう。
しかし、その「かくあるべき」は危険性を孕んでいる。
バリャドリッド論争でもジャコバン派でもいいが、歴史上にその危うさを示唆してくれる事象は閉口するほどに転がっている。
つまり、「人間は○○である/あるべき」という前提から出発した場合、「○○でないなら人間ではない」という結論が導き出されてしまう場合だってあるのだ。
右派的思考と共同体
対して、右派的思考は自分から出発する。少し踏み込んで言えば、身近な共同体から出発する。
「私の周りはこんな人が多い」「私はこんな集団に属している」という素朴な感覚。
私の知覚は、例えば私から講義へ、学科へ、学部へ、大学へ…または、自分が所属するサークルから他のサークルへ…そして母国から外国へと向かっていく。
そこで我々は、共同体によって様々なコンテクストがあることを知るだろう。「同じ文芸サークルでも毛色が違うな」「あの国は我々と全く違う習俗を持つんだな」…。
「あの共同体は私の属する共同体とは違う考え方をするんだな」という知覚。そしてそこで生きている人を思うこと。
僕がここで導き出したい右派的思考は、以上のような知覚である。
左派的思考とエコーチェンバー
一見すると、エコーチェンバーという単語は共同体主義的な右派に親和性があるように思える。これがいかに左派と繋がるのだろうか。
エコーチェンバー効果自体はある種当たり前のことである。本文では、主体がエコ―チェンバーを認知できていない状態を「盲目的エコーチェンバー」と呼称する。
さて、エコーチェンバーと盲目的エコーチェンバーとではどういった認識の差が生まれるのか。
エコーチェンバーならば、「共同体的認知」が行われているのではないだろうか。つまり、「TLを見ると一見全人類が猫を飼っているように見えるが、そういえばFF構築を猫好きで固めたんだったな…」という、自己が置かれる立場から思考がはじまるのである。
逆に盲目的エコーチェンバーの場合は、猫まみれのTLを見て「全人類が猫を飼っている」と思い込んでしまうし、「猫を飼っていない奴はおかしい」という思考に及ぶ危険性すらある。自己の立場を見失い一般化してしまうのである。
こうして考えると、身の回りの環境を無意識のうちに一般化/普遍化してしまうという点で、盲目的エコーチェンバーは左派的思考が孕む危険性だと言うことができよう。
おわりに/両輪のように
本文は盲目的エコーチェンバーを検討するという観点から描写したため左派的思考に批判的な視線が向いているが、勿論、右派的思考にも瑕疵はある。「共同体たくさんあるし真実とか普遍性とか無いや…」と、虚無主義に陥ってしまう可能性である。
とはいえ、盲目的エコ―チェンバーが問いただされて久しい今、共同体から出発する思考は再考されてもいいと、僕は思う。
というか、いずれかが必ず正しい結論を導くわけではないゆえに、つまりどちらの思考もバランスよくすればいいんじゃないかと思う。
この二つの思考方法は相補的なものだろうから。
普遍と個別を行ったり来たり。抽象と具体を行ったり来たり。
意外とそれは、人類が得意なことなのかもしれない。
いや、得意であるべきだ。
なんて。
さいごに
どこに入れたものか…となったので、本文を書く上で着想を得た言説を最後に引用したいと思います。引用部分最後がとっても示唆的です。
「全体主義的民主主義の理論は常に人間に力点をおいている。ここにまた、左翼の全体主義──この研究の対象である──と、右翼全体主義との間の区別点がある。左翼の全体主義は人間、その理性および救済を出発点としてきた。また究極的にはいまでもそこから出発している。これに対して右翼全体主義諸派は集団個体、すなわち国家、民族あるいは人種から出発する。前者は、階級あるいは党を絶対目的の水準へ高める場合においてもなお、本質的には個人主義的、原子論的かつ合理主義的傾向をもつのである。階級や党は結局は機械的に形成された群団にすぎない。右翼全体主義者は、歴史的、人種的および有機的な個体をのみ相手とする。それらは個人主義および合理主義とはまったく縁のない概念である。それゆえに左翼の全体主義的イデオロギーは常に普遍的信条の性格をとりがちとなり、反面、この傾向は右翼の全体主義にはまったく欠けているところである。左翼全体主義にとっては、理性が統一する力であり人類は個々の理性者の総和であると予定しているからである。右翼の全体主義では、かような統一がないものとされ、また人間的価値の普遍性を否定している。」
『フランス革命と左翼全体主義の源流』
(著.J・L・タルモン 訳.市川泰治郎 鳳書房 二版1968.3/25 p8)
参考文献
ドゥルーズ/パルネ『ジル・ドゥルーズの「アベセデール」』
(ピエール=アンドレ・ブータン監督、國分功一郎訳監修、KADOKAWA)
『フランス革命と左翼全体主義の源流』
(著.J・L・タルモン 訳.市川泰治郎 鳳書房 二版1968.3/25)