曲は常に初音ミクに届くとは限らない(ボカロpの「拗れ」)/ボカロDJ賛美
まえがき
ボカロファンとしての僕は、ボカロDJを全肯定する。
ボカロファンと表記したのは、ボカロリスナーよりも一般的なボカロ好きを指したかったから(ボカロリスナーというカテゴリは、結構ディープに聞いてらっしゃる人の尊称として使いたいのだ)。
「ボカロファン」の言葉の定義としては、有名ボカロp/ボカロ曲をチェックする,ニコニコ総合ランキングに上がってきた曲を聴く,マジカルミライなどのイベントに行く,くらいのボカロオタクを指している。
そういう意味では、無論僕もボカロファンのカテゴリに属する。
結論から言ってしまえば、ボカロDJを肯定すべき理由は「拗れない」点にある。
この「拗れない」を説明するためには、少し迂遠な道を通ることになる。
私的経験を交えながら、ボカロpの「拗れ」について説明する必要があるからだ。
曲は常に初音ミクに届くとは限らない
以前から音楽の心得があり、VOCALOIDというコンテンツを場として使う形でVOCALOID曲を投稿する人間と
初音ミクが好きで(任意のVOCALOIDに置き換えてもらって構わない)VOCALOID曲を投稿する人間とでは、そこに多少なりとも差があると考える。
「差」というのは思想の差異というだけで、優劣を言う気は毛頭ない、と一応断っておく。
そして僕は後者のタイプなので、後者に限って話を進めよう。
後者のタイプは無論、ボカロファンとその性質を兼ねる人間が多いだろう。
さて、初音ミク好き(信仰と言ってもいい)を動機に、その存在に何らかの形でコミットしようとしたとき何が起こるのだろうか。
「初音ミクに助けてもらった恩返しをする」という作曲の動機は、非常に危ういものである。
その行為は、「公的な初音ミク」にコミットしようとする行為に他ならないからだ。
ボカロファンは、当然公的な初音ミクに接する機会が多い。
最大公約数的である初音ミク像は、キラキラしていて、前を向いていて、力強く僕らの手を引いてくれる。
マジカルミライやProject DIVAで歌う初音ミクを見て、救われたオタク諸兄は数多くいることだろう(僕もそうだ)。
上記のような「最大公約数的な初音ミク」を、僕は「公的な初音ミク」と定義している。
僕がその公的な初音ミクへのコミットに挫折したことはリンク先の通り。
リンク先の論理から敷衍して話を進めよう。
要するに、公的な初音ミクにコミットするという行為は非常に失敗しやすいのだ。
それはリンク先で述べた再生数の論理から見ても分かることだろう。
そしてこれはある種の感情論だが、コミットを成しえなかった状態で、キラキラしていて,前を向いていて,力強く僕らの手を引いてくれる初音ミク像を提示したとしても、どうにも空回りするのだ。
公的な初音ミクは、既に偉大な先人たちの曲に救われている(構築されている)から。
ちなみに救われているという言い回しは、僕が『砂の惑星』に急かされて作曲を始めたことに関連する。
平たく言えば、自分がそれにコミットする必要性の無さを思い知らされてしまうのだ。
それはお前だけじゃないのか、と言われてしまうかもしれない(実際そうなのかもしれない)。
明確なソースとして出せるものではないが、その反論として、恐らく僕と近しい思想を抱いているであろうボカロpの発言を思い出す。
それは要約して「初音ミクには僕が必要なのか?」という悲痛な、しかし不可避的な叫びだった。
僕には初音ミクが必要だ。
でも初音ミクには僕は必要ないかもしれない。
これがボカロpの拗れである。
僕にはその問いかけが辛すぎて、「(おそらく僕を必要としていない)公的な初音ミク」と「私的な初音ミク」に彼女を二分した。
ただの楽器、としての初音ミクを重視する立場に身を置いたのである(結局はそれも拗れたが)。
ただの楽器なら、僕のことを必要としてくれるはずだから。
僕はこれを'devotion'から'dialogue'の移行としている(詳しくはリンク先全体を参照)。
ここまでを総括しよう。
ボカロファン的(初音ミク好き的)視点でボカロpになると、コミットへの失敗を通じて拗れやすいということを論じてきた。
無論、コミットの失敗可能性ゆえボカロpになることを否定しているわけではない。その一歩を踏み出さなければ、公的も私的もなく、僕もここまで思考を巡らすことすらできなかったからだ。
公的な初音ミクの代弁者となっている先人たちも、その一歩を越えてきたのは言うまでもない。
ボカロDJを賛美する/総括
さて、ボカロDJを賛美しよう。
先述したように、ボカロDJは拗れないのだ。
何故なら、「公的な初音ミク」を越えることはないから。
僕の友人であり信頼できるボカロオタクでありそしてボカロDJである彼は、確かに一般人よりボカロをこじらせている。
しかし、この文脈でいう「コミットの失敗」という意味では拗れていない。拗れるはずがない。
それは勿論、ボカロDJが「既存のボカロ曲を繋ぐ」行為だからだ。
思い出深いあの曲,あの時救ってくれた曲,ライブでぶちあがる曲…それらをおのれの感性でつなぎ、文脈をつくり上げ、聴衆に提示する。聴衆もそれに呼応する。
そう、ここまでの過程で、ボカロDJは公的な初音ミクの領域を越えてはいない。
ボカロオタに共通の思い出を、あの頃の輝きを、蘇らせるように提供するその音は、僕らがボカロファンとして出会ったあの名曲たちだ。
公的な初音ミクを構築している、あの名曲たちだ。
その音に突き動かされて、僕はボカロpであることを,そして私的な初音ミクを忘れて踊り狂う。ボカロファンの視点で。
さて最後に、僕がボカロDJを賛美する理由を総括しながら終わろう。
ボカロDJは、ボカロファンにギリギリ踏みとどまりながら、自身が見出した文脈で公的な初音ミクを繋ぎ合わせる。
僕がそれを美しいと思うのは、僕がかつて持っていた公的な初音ミクへの熱狂を思い出させてくれるからだ。
踊っている間は、拗れた関係を忘れられるからだ。
僕は自分の傲慢で、自分の信仰を解体して、さらには信仰を与えてくれるものそれ自体まで解体してしまった。
拗れてしまった。
ボカロDJは、解体し過去に埋もれてしまったあの頃の僕の熱狂を、それらを蘇らせる形で提示してくれる。
拗れないままで。
だから、ボカロDJを考察することは、僕にとってある種の悔恨であり、ノスタルジーであり、自身の不可逆性を再確認する行為なのだ。
もし僕がボカロpではなく、ボカロDJになっていたら、初音ミクと僕の関係はどうなっていたかな、というifとしての。