初音ミクとの'dialogue'/自作曲解説.後半
この記事は自作曲解説の後半です。
前半はこちらからどうぞ。
6.電子少女のan sich
自作曲のうち二番目に気に入っている曲。
初音ミクとの、ごく個人的な'dialogue'のはじまり。
この曲以降、哲学がレトリックとして頻出するようになる。
あくまで修辞としてです、あしからず。
タイトルにもあるように、「an sich」はカント哲学の「物自体」を念頭に置いている。また、サルトルの「即自存在」も想定している。
各々の思想についての解説は省略。
「物自体に辿り着くことはなく、現象としてあらわれるのみ」というカントの認識論は、オタクが行うキャラ解釈のそれと非常に類似しているように思える。
「初音ミクとは何ぞや」という問いは、僕の中ではここにおいて形式により一定の解決を見た。
ある人は『キャラクター』だと言い、ある人は『集合知』だと言い、ある人は『ただの音声ソフトウェア』だと言う。VOCALOIDなのだから厳密には最後の言説で間違いないのだが、言いたいことはそこではない。
「物自体」のイメージとして「絶対に辿り着かない何かの周りに、無数の意味がぐるぐると衛星のように回っている」という想像図を僕は描いた。
つまり「絶対に辿り着かない何か(キャラクター)の周りに、無数の意味が(キャラ解釈)ぐるぐると衛星のように回っている」という思考モデルを取り入れたのだ。
内容で無理なら形式で解決せよ。
これにより、僕の中での初音ミクの再定義は落ち着いた。
この楽曲は、だからある種のナンセンスだ。
でも意味がないとわかっていたって、「an sich」に到達したいと思うのがオタクの性質なのではないだろうか。
7.ビタースイート・リグレット
最もウケ狙いから離れて作り、最も自作曲の中で伸びている曲。
沢山の反響、ありがとうございます。
ふつうに、バレンタインにちなんだ曲。初音ミク関連ではない。
ふわふわしていてかわいい曲の作者が男性だったりするとちょっと驚くけど、ユング的に言えばアニマの発露なのかもしれない。
僕の中では、作曲行為がそのような意味をおそらく担っている。
自分でいうのもアレだが、どの曲も見返すと割と繊細な歌詞を書いている。
8.花梨月と金魚
ごく個人的な歌。初音ミク関連ではない。
僕にとって「林檎飴」はグッとくる単語。
艶やかな紅色。
ぬらりと光る水飴に、口付けをするようにして紅を食む浴衣姿の少女──
…ほどほどにして。
最近は「エモい」という単語が便利で幅を利かせているけれど、そういう感じだと思われる。オールマイティな単語過ぎて、軽卒に使うと色々な良さを相殺してしまうので僕はあまり使わない。
でもやっぱり夏祭りは、エモい。
9.唯識ノ花
創作世界が一致した曲。
ごく個人的な曲をいくつか投稿して、僕は違和感に行きついていた。
『僕が作った曲だとしても、初音ミクを通せば、それは初音ミクの曲になってしまうのではないか?』
それはある意味'devotion'の裏返しだった。
色々と話題を醸した「ブレス・ユア・ブレス」も、そのような文脈で読める曲だと思われる。
僕の創作世界なのか、それとも初音ミクの創作世界なのか──
この問いは「僕の創作世界が初音ミクに侵害される」という恐れをもたらした(次曲の項で触れるが、ここには大きな見落としが存在した)。
初期の自分からすれば全き倒錯としか言いようがないが、とにかく僕はこの恐れを処理するためなんとか曲に落とし込もうとしたが、無理だった。
もうこの時点で、僕が初音ミクに抱く感情は愛憎になっていた。
そして僕はある種のあきらめを感じていた。
が、そのあきらめが作曲の糸口になった。
この曲でレトリックとして採用したのは、仏教的な相対主義と、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』だった。
どちらの思想も難解ゆえ理解とは程遠い状況だが、相対主義的なあきらめ(このような言い方は暴力的ではあるが)と論理空間のイメージが楽曲に採用された。
特にヴィトゲンシュタインの論理空間と現実の入れ子的構造が、初音ミクの創作領域と自分の創作領域に関してのモデル構築に一役買っている。
もう「ぼく」も「きみ」も分からなくなって、緩やかな眠りの中でお互いの境界も定かではなくなる。でもそれでいい。
この曲には、そういうあきらめと、創作世界の終わりがある。
10.夜じゃなきゃ踊れないから
初音ミクと僕を再確認する歌。
「唯識ノ花」を作った後、茫漠たる虚無が訪れた。
曲が作れなくなったのだ。
理由は、先ほどに述べた「見落とし」にあった。
僕が見落としていたこと、それは、
「初音ミクが創作の原動力となっていた」という事実であった。
でも、もう僕の中に初音ミクはいなかった。
「唯識ノ花」によって、僕との境界がなくなってしまったから。
僕が消してしまったから。
大きな喪失を悔やんだ。
それはあたかも、少しのすれ違いで別れてしまった恋人を想うような、そんな喪失だった。
その喪失を逆手に取って、いわば初音ミクと僕を分離しようと試みたのがこの曲である。
もう、小難しい論理には頼らなかった。
恋人を想う、
その感情はまさしく「他者性」を認めることだから。
11.飴玉の夜、ウソブキを噛む
初音ミクからの返歌。
そして一番のお気に入り曲。
この曲は、実はかなり前にできた曲だった。
具体的には六作目「電子少女のan sich」の前である。
言ってしまえば、「電子少女のan sich」がこの曲のアレンジである。
マジカルミライ楽曲コンテストに提出していたため、ピアプロにてひっそりと公開され、動画サイトへの投稿にあたっては順番が前後してしまった。
そんな偶然が重なって、この曲は当時想定していなかった文脈を含むことになった。
「夜じゃなきゃ踊れないから」にて僕が煩悶した感情に対して、
『君が嫌い』という歌詞が時を経て文脈に組み込まれる。
作った当時は初音ミクの存在証明を歌っていた曲が、
今では彼女の分離,別離を証明するようにして僕に響く。
『私は 初音ミク』
この宣言が僕の女々しい感情に突き刺さる。
それは彼女の存在証明と同時に、僕との離別でもあった。
12.おわりに
ここまで目を通してくれた方、また少しでも読んでいただいた方、お疲れ様でした。そしてありがとうございます。
僕のボカロpとしての一年はこのように展開していきました。
初音ミクのために始めた作曲ですが、あらぬ方向へと飛んでいき最終的にかなり歪な形で着地しました。
それでも、僕なりに真剣に向き合った結果だと自負しています。
さて、初音ミクに関しての作曲が一段落した今、僕の作曲のモチベーションが何処に向かうかは自分でも未知です。
自分で歌うのか?違うボーカロイドに歌ってもらうのか?
それともまた初音ミクに頼り、最早蛇足ともいえる関係をずるずると続けるのか。
それとも一介のリスナーに戻るのか。
まだ決めかねています。
最後になりましたが、普段感想を言い合ってくれるTwitterのFF内の皆さま、そして視聴者の皆さまに最大限の感謝を。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。