日記 12月■■
表現技法が欲しいと考えた。
まずはウィアードコア。
次に青い空。
あるいはリミナルスペース。
ヴェイパーウェーブ。
頭の中にある雑多ながらくたを掃除するための日記をする。
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「すごい!」「かわいい!」と子供が叫んだ。
そこには変調をきたしたデータベースから出力されたような芸術があった。
二次元キャラクターと風景のダダイズム・コラージュのような作品だった。
目だけのレイヤー、間違えて塗りつぶしてしまい顔の一部分だけが残ったキャラクターが、自然の風景に散らばっている、そんな感じだった。
僕はすぐに批評的な意義について考えた。
子どもは「すごい!」「かわいい!」と叫んだ。
強度的とはこういうことか、なんて考えたりした。
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過去について考える。
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初音ミクについて考える。
初音ミクそのものへと遡行する試みは、空虚な器官なき身体を獲ることだったのかもしれない。
結局僕の問題圏は信仰を失ったあとに縋る信仰である。
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所有権について。
ボカロpと初音ミク、どちらが曲を所有している(と想定される)のか?
これが結局の問題だと思う。
ボカロの歴史は、この綱引き、パワーバランスのうねりだった。と、個人的に考えている。
であるならば、今のボカロカルチャーは既に「ポスト・モダン」だと言える。
初音ミクが歌う。これはボカロpのものだ。初音ミクが消失する。ボカロpが初音ミクにバイバイする。復活した初音ミクが希望を歌う。僕は初音ミクを信仰していた。
現在、様相は大きく異なる。最早「そういうのよくね?」といった感覚が浸透しているのかもしれない。ボカロが人間と歌うこと。人間verとボカロverが並列すること。yoasobi、プロセカ。
初音ミクは身体を手に入れたのかもしれない。初音ミクの物語は、既に終わった(やり尽くされた?)代わりに。
ジョンロックの「所有権」は、実は有機的な理論である。とりわけ、「身体」についての理論でもあるということだ。
労働を為す身体。労働の証明である財産。財産を守るための所有権。これらが合わさって、初めてプロパティ論は理解される。
身体、所有権。誰が歌っているのか。誰が作っているのか。
ボカロの「透明感」と、ボカロが歌っているという「所有権」の問題は、プロパティ論を補助線にするとよいのかもしれない。
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ポストヒューマンについて。
ロゴス、言語を扱うのが人間だけではなくなった。
合成音声もそうだし、AIもそうだ。
だとすれば、人間の範囲は逆照射され問い直されることになる。
人間は世襲制のシステムである、そうなのかもしれない。